内田樹という迷惑・「はな」というやまとことば 2

内田氏の新しいブログの記事で、また「有用性」がどうとかこうとかとくだらないことをわめいている。
子供たちの「学び」の契機は、「今は無駄でも将来有用になるかもしれないと予感できる<暗黙知>にある」のだとか。現在の子供たちにはそういう想像力がない、と。
「有用性」という卑しい価値意識一辺倒の制度的で硬直した思考しかできない人間が、何をかっこつけたことをほざいていやがる。
「学び」の契機は、「わからない」という嘆きにある。それだけのことさ。彼ら大人たちの、「子供は教育すべき存在である、教育できる存在である」といううぬぼれが、子供の中に芽生えるはずの「わからないという嘆き」を摘み取ってしまっているのだ。彼らがみずからのそういううぬぼれや有用性への信仰を解体して子供と接すれば、子供は自然に「わからないという嘆き」を抱き、学ぼうとしてくる。
将来有用であるとかないとか、子供はもともとそういう「未来という時間」の存在を信じて疑わない制度的な意識の薄い存在なのだ。だから、子供の時間はゆっくり過ぎてゆく。
そしてこの世に生まれてきて間もない存在である彼らは、もともと「わからないという嘆き」をはちきれそうに抱えながら生きている存在でもあるのだ。
「有用性」がどうとかこうとかという論理で説得されるのは、内田さん、あなたのようなスケベったらしい大人だけなのですよ。いいかげんもう、そういうスケベったらしい論理や教育してやるといううぬぼれでは子供の助けにはならないということに気づきなさいよ。
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どうやら、このブログの「内田樹という迷惑」という看板を外すときが近づいているようだ。あんな薄っぺらな思考しかできない人間ばかり相手にしていてもしょうがない……と思いつつ、やっぱりあんな人間がのさばっているのはやりきれないことだ、とも思ってしまう。
内田氏が、というより、この社会の制度性の問題ですからね。
それはともかくとして、人はなぜ花に心をいやされるのかという問題。
「花が咲く」の「さく」は、「クライマックス(頂点)」という意味からきている、と中西進氏は言っている。「さく」=「さかり」……だから「花の盛り」という。
こういう解釈も、じつに安直だと思う。
「しあわせ」のことを「さいわい」という。古くは、「さきはひ」といった。
そして「はひ」の語源的な意味は「長く伸びること」で、喜びの頂点が長く続くことが「しあわせ=さきはひ」である、と中西氏は言う。。
そうだろうか。「はひ」はそのまま「はふ=這う」でしょう。「這う」から派生して「長く伸びる」という意味が生まれてきた。
「は」は、心もとない感慨の表出。「這う」という姿勢の心もとなさ、立って歩けない赤ん坊は、這うことしかできない。そういう心もとなさ。縄文時代以来、昔の木戸口は、背丈よりも低かった。身をかがめて、這うようにして入った。だから「はひる=入る」という。
よろこびの頂点が長く続くだなんて、まったく、俗っぽくて安っぽい幸せの解釈だ。そんなステレオタイプな思考で、古代人の心に推参できるわけがない。
花の盛りが長く続くはずないじゃないか。桜なんか、あっという間に散ってしまう。桜の花は木の枝を這うようにして咲いているし、お花畑は一面に這うようにむらがり咲いている。そういう様子を「さきはふ」といったのだろう。たぶん、そこから転じて、「しあわせ」という意味にもなっていったのだ。
花が咲くとは、つぼみという物体から、空間性をそなえた平面という別のものに変身することであり、そういうことに対して驚きときめく感慨から「咲く」といったのだ。
「咲く」は、クライマックス(頂点)ではなく、変身すること、すなわち「裂ける=裂く」なのだ。単純に,つぼみの表面が裂けることだ、といってもいい。
満開の桜もみごとだが、一輪だけひっそりと咲いている野のすみれも愛らしい。「咲く」と「盛り」は別の言葉だろう。
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「さく」は「さ+く」、「さかり」は、「さ(く)+かり」。「さか+り」ではない。「酒(さか)盛り」「逆(さか)立ち」というときの「さか」とは違う。
「さ(く)」は、「裂く」。
「かり」は「刈(か)り=狩(か)り」。「収穫」、すなわち、収穫の段階へと変貌(さ=裂ける)することを「盛(さか)り」という。ハッピーエンドのこと。
「かり」には、「離(か)る」という読み方もある。収穫することは、一つにまとめることだが、田んぼに生えている段階から「離れる」ことでもある。
動物の「さかり」は、離れ離れになっているオスとメスが一つにまとまってゆくこと。だからそれは、「さ(く)+かり」である。
「さかり」は、「さ(く)+かり」であって、「さか+り」ではない。
あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり……この歌の「咲く」と「盛り」が同じ意味なら、「盛り」という言葉はつまらない蛇足であり、これはとても稚拙な歌になってしまう。
「咲く」という言葉には、「盛り」という意味はない。
「さく」という言葉、にもいろいろある。「咲く」「裂く」「策」「柵」。
この中で一番はじめにあった言葉は、「裂く」だと思う。
「咲く」が「盛り=頂点」という意味として先にあったのなら、もう「裂く」や「策」や「策」という言葉が生まれてくる余地はない。それらに「盛り=頂点」という意味はないが、「裂(さ)く」という意味を共有している。
「裂く」が「咲く」になり、「盛り」になったのだ。「咲く」の語源は、「裂く」にある。
「咲く」は、つぼみが裂けること。花びらが、つぼみという「かたまり=物性」から、「空間」に向かって解放されること。つぼみが裂けて花びらが現れてくることのときめき、それが「咲く」という言葉の感慨(ことだま)なのだ。
「策」は、問題を打開する裂け目の考え、行為。
「柵」は、内と外を分ける境目(=裂け目)を示すもの。「さかい」とは、「さけめ」のこと。
「さ」と発声するとき、声と息が裂けて、息だけが鋭く飛び出してゆく。
「裂(さ)く」という感覚は、人間の生存にとって根源的な感覚である。
生と死には、裂け目がある。誕生においても、裂け目で起きている。現在と過去のあいだに裂け目がある。未来とのあいだにも裂け目がある。世界は、生起し消滅するということを繰り返している。意識もまた、一瞬一瞬の点滅としてはたらいている。過去から未来に流れている時間には、「今ここ」という裂け目がある。「今ここ」は、この生の裂け目である。
「今ここ」という裂け目の発見。そこから、人間の歴史が始まった。そういう意味で「裂(さ)く」という現象に対する感慨は、もっとも原始的でもっとも根源的な人間の感慨のひとつである。
原始人は、われわれよりももっとこの生の「裂け目」に気づくタッチを持っていたのであり、そこから「裂く」という言葉が生まれてきた。
つぼみという「かたまり(=物性)」が裂けて花という「空間」のかたちがあらわれることの「ときめき=癒し」、それが「咲く」という言葉の「感慨(ことだま)」である。
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やまとことばのほとんどの「さ」がつく言葉に、「裂く」という意味が含まれている。「さ」は、「裂く」なのだ。
「岬(みさき)」という言葉の「み」は、「御霊(みたま)」とか「みしるし」というときと同じ接頭辞で、そのあとの「さき」は「先端=頂点」という意味である、と中西氏は言う。
しかしねえ、神でもないただの地形に、どうして「み=御」という敬意を込めた接頭辞をつけなければならないのか。いかにも、不自然である。こじつけだと思う。
「み」というからには、「海」のことだろう。すなわち「海裂き=みさき」、外海と内海の「境目=裂け目」の先端という意味にちがいない。「裂く」という現象には、鋭い先端のイメージがついてまわる。だから、「裂く」から「先(さき)=先端」という言葉が生まれてきた。
「酒(さけ)」は、気持ちが高揚するからそういう「頂点=クライマックス」の感覚だ、と中西氏らは言う。
そうじゃない、酔っ払って人格が「裂ける」からだ。人格が裂けて、神になる、あるいは神の世界に行ってしまう。だから古代では、「みき」ともいった。この場合の「み」こそ接頭辞で、「神の気(き)」という意味だろう。この場合の「み」は、「神(かみ)」の「み」なのだ。
そして、「裂く」が能動的なかたちだとすれば、「裂ける」は受動的である。酒を飲む行為は能動的でも、酔っ払うのは酒からそうさせられるのだから、受動である。「避ける」も、受動的に関係が「裂ける」状態をつくろうとする行為である。
ちなみに「去(さ)る」という言葉も、関係を「裂く」ということから来ている。
中西氏は、「さけ」の「け」は「気」であるというが、それだけじゃない、「裂く」の受動形であると同時に、「け」という言葉には「別世界」という意味がある。「もののけ」の「け」。お化けは、別世界の住人である。そして「蹴(け)る」という行為は、ただの「押す」ことと違って、別世界に突き飛ばすような勢いを持っている。「けっ」といってふてくされるのは、「おら知らん」と、別の世界に行ってしまうことだ。
酒を飲むことの醍醐味は、浮世の憂さを忘れてしまうことにある。ただいい気持ちになりたいだけなら、セックスでもなんでも、ほかにいくらでもある。浮世の憂さを忘れて神の世界に行ってしまうから、「さけ」といったのだ。そういう「裂ける」というタッチが、酒(さけ)という言葉の「ことだま」である。
気持ちが頂点に達することじゃない、「裂ける」のだ。気持ちが裂けて、神の世界にはせ参じるのだ。
古代人の酒に対する思い入れは、中西氏らが言うよりもっと深かった。ただいい気持ちになるだけなら、「神」の供え物になんかならない。酒(さけ)の「け」は、「別世界」という意味なのだ。
「指す」「刺す」「挿す」「差す」「射す」は、「裂け目」の一直線のニュアンスからきている。
「笹(ささ)」は、一枚の大きな葉っぱがいくつにも裂けているように見える。
「さすらう」は、本籍地を離れて漂泊すること。
「鞘(さや)」は、本体から裂けて本体を包んでいるもの。
早いことを「早(さ)」という。空間が裂けるような感じだからだ。古代人の感受性をばかにしちゃいけない。われわれよりも、ある意味でずっと豊かで深いのだ。
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「さ=裂く」という言葉は、古代人の空間感覚から生まれてきた。
人は、空間感覚を得ることによっていやされる。言葉は、この世界に対する驚きや畏れやとまどいや嘆きをととのえよう(鎮めよう)とするところから生まれてくる、ひとつの空間感覚である。空間感覚の表出である。
空間感覚、すなわち「ない=空(くう)」という体験。それが、「いやされる」ということだ。
「ある」という認識の「労働」から離れて「空間」に遊ぶこと、それによって人はいやされる。
「われあり」なんか確かめても、人の心はいやされない。
意識は、この世界の物性を「ある」と認識することのストレスから発生する。そうして、「ない」という認識しない体験に向かう。
歩き疲れて足が痛いと感じることは、足を「物体=ある」と認識する体験である。「足が棒のようになった」などという。そこで、足を休ませて疲れを取れば、足のことを気にしないで歩けるようになる。そのとき意識にとって足は、「物体」ではなく、たんなる「空間」として感じられている。そうやって、足のこと(物性)を忘れている。それは、「ない=空(くう)」という体験である。
体のことなんか忘れているときが、一番体が健康なときだ。そして、体のことなんか忘れて体が勝手に動いているときこそ、体はもっとも高度な動きをしている。
ピアニストは、いちいち指に動けと命令しているわけではない。家庭の主婦が馴れた包丁さばきでねぎを刻んでいるときも、包丁を持つ手は勝手に動いている。
意識は、「ある」と認識することのストレスとして発生し、そこから「ない」という意識がはたらいていない体験に向かう。これが、意識(脳)の基本的なはたらきである。
脳の血流を活性化するはたらきを失うことを、精神疾患というのではない。いったん活性化したはたらきを鎮めるタッチを失うことが、精神を病むという状態なのだ。鎮められないから、反応するまいとするし、反応してしまったら、もう鎮められない。
われわれが生きてこの世界で暮らしているかぎり、脳は、勝手に反応し血流を起こしてしまう。起きてしまってから、意識が発生する。
歩いていて人とぶつかりそうになれば、脳が勝手に血流を起こし、それによって「危ない」という意識が発生する。もっととっさのときは、体をよけてから、「危ない」と思ったりする。
脳に血流が起きることは、意識によってコントロールすることはできない。それはたぶん無意識の問題であるのだろうし、その無意識が脳のはたらきをゆがめてしまったりしている。過剰に起きてしまったり、過小になったり、そういう事態を招くのは、「ない」という体験に向かって鎮静化してゆくというタッチを失ってしまうからだろう。
脳を活性化させても治療にはならない。「鎮静化」の機能を高めなければならない。
「将来役に立つかもしれない」というスケベ根性を植え付けても、知識は豊富になるが、「知性」が育つわけではない。知性とは、「わからない」という嘆きを「鎮静化」させる機能のことである。知識だけを詰め込んで興奮しっぱなしのスケベ根性を植え付けられても、興奮しっぱなしの暮らしをつづけて「過労死」してしまったり「鬱病」になってしまう未来が待っているだけかもしれない。
「有用」の価値だけを止揚してゆけば、人は、興奮しっぱなしになってゆく。そうやってよろこびっぱなしで生きてゆけば、「嘆き」と出会ったときも、嘆きっぱなしになってしまう。
そうして、必死に反応するまいとして、「鬱」に沈んでゆく。しかし世界に対する反応を押し込めても、自分に対する嘆き(=興奮)は鎮まらない。鎮めてゆくタッチを、すでに喪失している。こうなればもう、いつ発作的に自殺してしまう事態が起きるかわからない。彼は、その興奮を鎮められない。
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「無用の用」という言葉がある。それが、「鎮静化」というタッチである。
この世界の「物性=ある」にしがみついて興奮してゆくことから離れて、「ない」という「空間」に遊ぶ「鎮静化」のタッチを持つことが治療になる。
花には、そういう「鎮静化」のタッチをもたらす機能がある。それは、花のかたちが「物性」から離れて「平面」が折り重なる「空間性」を持っているからだ。
「花」という言葉は、そういう「空間性」に気づく感慨から生まれてきたのであって、「はじまり」という意味に取り付いたからではない。
「ある」という物性を認識することは、根源的な意識にとってのストレスであると同時に、現代社会の「有頂天」でもある。
「有用」の価値ばかりを有頂天になってわめき散らすばかな大学教授がいる。
しかし「空間」に遊ぶという「無用の用」に気づかなければ、「鎮静化」のタッチはもてない。
秘すれば花なり。身体の物性を隠して空間性としての「幽玄」の世界を現出させるのが、能の舞であるらしい。
能は、すべるように這うように舞う。それは、霧が地を這うような「気配」を表現しているのであって、身体の物性を止揚しているのではない。
今日「身体論」はさかんだが、身体の物性に取り憑く意識を解体するというコンセプトを持ったものは、ほとんどない。日本的な身体論の真骨頂はほんらいそこにあるはずだが、内田氏は何もわかっていない。「有用の価値」という物性に取り憑かれた鈍くさい運動オンチにはわからない。
意識は、「ある」という物性から「ない」という空間性に回帰してゆく運動性を持っている。
花のかたちは、物性を解体している。それは、意識の根源にはたらきかけてくる。物性に取り憑かれた現代人にとってその解体=鎮静化のタッチがいかに大事かということを、フラワー・セラピーという精神疾患治療の現場が教えてくれている。
「有用」の価値や世界および身体の「物性」を止揚して有頂天になっていても、けっして根源的な解決にはならない。
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杉山巡氏への返歌
修道小学校という日のかたみは 空の青さと白いセーター
冬の支度を忘れて迷い来た鳥の 翼にひそむ誇りと清純