内田樹という迷惑・人はなぜ花にいやされるのか

水のことを本格的に研究している人と会って話してみたい、と思う。
とくに、水中の微生物を研究しているのなら、それは、地球の生き物の歴史を起源までさかのぼって研究しているのと同じだ。そういう人と、雌雄の発生について語り合える知識と教養があったらいいのに、とときどき思う。
政治的な「エコロジー」などということとは関係なく、純粋に本格的に「水」に興味がもてるのは、われわれとは心の出来が違うからだろう。
「水は生き物の根源である」、と言うのはたやすい。しかし、純粋に本格的に水のことを知ろうとしている人は、世の中に向かって水の大切さを力説している人とはまた別の存在だろうと思う。
まるで好きな異性の髪を撫でているような気持ちで水のことを研究している人がいるとしたら、もう無条件で敬服する。この世界に水が存在することの驚きとときめきを純粋に本格的に持てる人は、そうはいないにちがいない。
それは、原始的な感性だろうか、未来的だろうか。それとも、現代社会を生きていることの嘆きから生まれてくるのだろうか。
水は、物体と空気(=空間)の中間の存在だ。水中の生物にとっては、空気みたいなものだろう。
われわれが一杯の水にいやされるとき、ただ生理的に生き物は水を必要としているとか、それだけのことではない。存在感のある「物体」ではない、ということに、どこかほっとするものがあるからにちがいない。
酒の文化。コーヒーやお茶の文化。そしてこの社会のいたるところにある飲み物の自動販売機の文化。
それは、ただ生理的に水分を必要としているというだけのことではない。
「水」という、固まった物体ではない存在に対する愛着があるからだ。その物性の薄さ、すなわち「空間性」にいやされるからだ。
そういう水のもつ「空間性=いやし」を知って水の研究をしている人が、きっといる。そういう人に話が聞いてみたい。
花と水は、その物性の薄さという「空間性」によって人の心をいやす。人間は水から生まれてきた生き物だからだとか、そういうことじゃない。そんな記憶は、われわれにはもうない。人間は「本能が壊れた生き物である」とかなんとかとしゃらくさいことを言っておきながら、太古の水の記憶があるだなんて、笑止千万だ。
意識は、「ある」という物性に対するストレスとして発生する。そうして、「ない」という空間性に向かって鎮静化してゆく。
現代社会は、「ある」という物性を止揚しすぎた。そこから、認知症鬱病やパニック症候群や自殺の多発やらEDやら、さまざまな現代病が生まれている。
われわれは、「ない」という空間性に向かう鎮静化のタッチを喪失している。
僕が内田氏の言説を「インポの論理だ」というのは、身体の物性に鈍感だといっているのではない、逆に身体の物性に執着しすぎて「空間性」に対する感受性が無残なくらい欠落していると思えるからだ。
その、「有用性」に対するむやみな偏執や、家族の絆がこの社会を救うというとんちんかんな思い込みや、身体に執着しきった鈍くさい武道の解説も、けっきょく「ある」という物性に幽閉された現代社会の病理をなぞっているだけのことにすぎない。
われわれは「物性」という言葉を、もっと柔軟に広義にとらえるべきだ。
たとえば、人はコミュニケーションの能力を持てばいいかといえば、そうともいえない。かんたんに人をだましたりたぶらかしたりできるということは、コミュニケーションの能力が発達しているということなのである。
そういう能力を持った人間が増え、そういうややこしい事態が増えているのは、コミュニケーションという「物性」に誰もがとらわれてしまっているからだ。
「家族の絆」という物性がうっとうしくて、子供たちは自分の部屋に閉じこもろうとするのだし、ときに親を殺してしまったりもするのだ。
また、そんな絆という物性をもってしまった家族の中で育てられるからこそ、なかなか自立できなくなったり、自立しているように見えてじつはただの社会的動物としてして過労死するまで働き続けてしまうような人生を歩まねばならないことにもなる。
人と人の関係を、「絆」という物性に閉じ込めてしまっていいのか。
人と人は、たがいの身体のあいだに、いやされる「空間」を必要としている。
花や水は、その「空間性」によって人の心をいやす。