内田樹という迷惑・人は、パンのみによって生きるにあらず

内田氏が、「人間は労働を通じて人間になる」といいつつ、「有用性」のことばかりあげつらうのは、「人はパンのみによって生きている」といっているのと同じなのです。「労働」だろうと「有用性」だろうと、ようするにそれは「パン」のことです。
また内田氏は、「この世にはセックスよりも大事なものがある」といっているのだが、それが「労働」とか社会的に「有用」な人間たろうとする「自己意識」であるのなら、「パンが一番大事だ」といっているのと同じです。
なんと俗っぽくて即物的な思想であることか。
それなら、「セックスが一番大事だ」といっているほうが、まだ精神性の高さを感じる。
僕としてはまあ、「大事なものなんか何もない」というところに着地していきたいと思っているのだが、食うものなんかなんでもいい、食い物どころじゃない、という気持ちはいつも胸の奥にあったような気がする。
それが、人間のあたりまえの生きてあるかたちだと思う。
だから人類は、地球の隅々まで拡散していったのだ。食い物が大事なら、食い物がたくさんある地域にひしめき合っている。食い物や快適で住みよいことが一番大事なら、ネアンデルタールが好きこのんで氷河期の極北の地で暮らすということは起きていない。そして現在でも、アマゾンの奥地やシベリアやアラスカで暮らす人なんかいるはずがない。
人間は、「パン」や「労働」や「有用性」などなくても生きることの醍醐味を見出してしまう生き物なのだ。
というか、生きることの醍醐味をそんなところに見出す生き物ではない、ということだ。
意識のはたらきは、脳の血流を活性化することにあるのではない。不可避的にいったん活性化してしてしまった血流を鎮めてゆくことにある。
鎮めてゆくはたらきが、高度なはたらきなのだ。鎮めてゆく醍醐味を体験できるから、人類は、住みにくいところにも住み着いていったのだ。
住みにくいところに住み着いている人たちのほうが、生きることの醍醐味をより豊かに味わって生きているのだ。生きにくい人生を生きている人のほうが、生きることの醍醐味をより豊かに体験しているのだ。
内田氏が快適な人生を生きているからといって、より豊かに生きてあることの醍醐味を体験しているとはいえない。どうして快適であることをそんなに自慢しなければならないのか。そして読者は、どうしてそれに憧れるのか。ただの、みすぼらしい生き方じゃないか。
内田氏がほんとに深く豊かにそれを体験して生きているのなら、自慢なんかしないさ。申し訳なくなくて、いえないさ。体験なんかしていなくて、体験していると思いたいから自慢しているだけなのですよ。
この世のもっとも弱く貧しい人は、内田氏よりもはるかに深く豊かな生の醍醐味を知っている。
そういうことを証明したくて、ここまで「内田樹という迷惑」という看板を引っ張ってきたのです。
できなかったけど、これはもう、このブログが存在するかぎり続くテーマです。
内田氏なんかより僕のほうがはるかに深く人間について考えている。誰も認めてくれなくても、僕はそういうつもりでこれからも書いてゆく。
僕が深く考えているというより、内田氏の考えることが浅はかで薄っぺらだ、ということです。
僕はただ、僕よりももっと深くこの生の醍醐味を知っている人の心や思想を代弁したいだけです。そういう心や思想に推参したいだけです。
けっきょく自分を語っているだけかもしれないが、自分を語りたいのではない。
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というわけで、今日でひとまず「内田樹という迷惑」という看板は下ろします。
明日からは、「やまとことば=日本語」の語源を、現在の問題としてもう一度考え直していきたいと思っています。