内田樹という迷惑・「癒される」ということ

花を見て興奮するという人は、まずいない。
おおかたの人は、「癒される」という。
精神疾患の治療には、花を見たり活けたり栽培したりすることが、とても有効なのだとか。
薬を飲んで体を癒す。そうして、体が元気になる。
とすれば、「癒される」ことは、脳が元気にはたらくために薬を飲んだのと同じことだろうか。
しかし脳が元気にはたらくことは、必ずしも脳の高度なはたらきとはいえない。
体が活発に動くことは体の高度なはたらきであるが、脳が活発に動いている状態は、興奮していわば危機的な事態であるともいえる。
興奮することくらい、動物でもする。驚いたり怒ったり怖がったりすることは、ストレスが増大している状態である。
意識は、ストレスとして発生する。
美しい景色と出会えば感動する。ふだんのものとは違う景色だから、見た瞬間は驚く。しかし驚きつづけることはない。やがてその美しさが心にしみて、胸があたたまってくる。自然との一体感、などという。それは、いったんは驚き活性化した脳が、鎮静化してゆく体験である。そうやって鎮静化してゆくことが「感動」であり、高度な脳のはたらきにほかならない。
世界が存在することは、個体にとってひとつの違和である。だから意識は違和感=ストレスとして発生するのだが、そこで脳がはたらいて、その違和を納得し、和解してゆく。そういう鎮静化の作業が、脳のはたらきである。
「わからない」という事態の物狂おしさを鎮めてゆくはたらきを、「知性」という。
「わかった」と興奮することではない。興奮しつづけることなんかできない。脳のはたらきは、必ずその興奮を鎮めてゆく。だからそこで、それを「自分は賢い」という満足に変えて興奮しつづけようとする。それは、「知性」とはいわない。ただの感情的なナルシズムにすぎない。そうやって興奮しつづけようとする観念の傾向がある。この社会には、そうやって人を興奮状態にひたして、働かせよう(共同体に奉仕させよう)とする「制度性」という装置が機能している。
興奮しつづけたら、人間は狂ってしまう。あるときがっくりと力尽きて、鬱病になってしまう。それは、鬱病というかたちの興奮状態である。そうやって興奮のかたちが変わっただけのことであり、だから興奮して発作的に自殺してしまったりする。そのとき人は、興奮を鎮静化させるという「知性」を喪失している。そういう「知性」を奪ってしまうのが、「制度性」である。
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人間は、興奮状態のときに、死ぬのが怖くなくなってしまう。戦争、という興奮状態。
共同体の制度性は、人間を興奮状態にひたしてしまう。平和だって、ひとつの興奮状態であるのかもしれない。その興奮で、鬱病になったり自殺してしまったりする。
精神疾患とは、興奮状態の持続であり、鎮静化の機能の喪失である。
われわれは今、「癒される」という体験を必要としているらしい。
社会が平和になると、意識が「自分」に向かう。自分は「賢い」とか「幸せだ」とか「楽しい」とか、そんなふうに興奮しつづけて「鎮静化」という脳のはたらきを失ってしまうのが、現在の平和の実態であるらしい。
興奮とは、自己意識である。共同体の制度性は、個人の自己意識を培養する。興奮とは、ひとつのストレスである。意識がストレスとして発生するものであれば、人間から興奮という自己意識を取り去ることはできない。だからこそ脳は、「鎮静化」という機能を本質としてはたらいている。
内田氏は「自己意識」の中に人間性があるというが、そうではない。自己意識という興奮を「鎮静化」する機能において、人間性が発現しているのだ。
内田氏のブログを読んでいると、自慢たらたらで、この人は興奮しっぱなしだな、と思わせられる。それでいいのですかね。
しかし、そういう興奮しっぱなしの生き方や人格を、うらやましいと思い、憧れたりしている人がたくさんいる。彼らは、興奮を鎮静化させる「知性」のはたらきが欠落している。あれこれ知識が豊富で上手に生きていても、そんなものは「知性」ではない。興奮を持続できる人のほうが、知識を豊富にしたり上手に生きていったりする能力を持っていたりする。社会的に有用であろうとする興奮、幸せであろうとする意欲まんまんで不幸にはなりたくないという興奮、そんな興奮で生きてゆこうとする人たちが、内田氏のもとに結集する。
幸せとか不幸とか有用であることとかにときどき無関心になってしまうという「鎮静化」のはたらきを多少なりとも持っている人たちは、内田氏の言説についてゆけない。くだらない、とも思う。
不幸になりたくない、社会的に無用な人間になりたくないというその興奮は、強迫観念でもある。
彼らは、大病するとか失恋するとか失職するとか、そういう不測の事態が起きてパニックに陥ったとき、「鎮静化」のはたらきが欠落しているから、そのパニックを引きずって、立ち直るのがひどく長引いてしまう。若ければいつか立ち直るが、人生が終わりに近づいている人たちは、そこから鬱病認知症まで突き進んでしまう。
現代人は、「鎮静化」のはたらきが欠落している。
不測の事態に出会ってパニックに陥るのは、仕方のないこと。それが生き物の自然な反応だ。しかし、そのパニックを鎮静化できないのは、不自然なことである。それはきっと、戦後の繁栄と平和がもたらしたものだ。人々は、戦後の繁栄と平和の中で、興奮しつづけて生きてきたから、鎮静化のタッチを失ってしまった。
だから、治療が長引いたり、治療不能に陥ってしまう。認知症はともかくとして、鬱病とかパニック症候群といったものは、脳のはたらきの本質(=自然)が鎮静化してゆくことにあるのであれば、ほんらい自然治癒できるもののはずである。そう長引きもしないはずである。
それができないのならもう、そうならないようにして生きてゆくしかない。そのなるまいとする強迫観念が、有用でない人間は人間にあらず、というような言い方考え方になってあらわれてくる。
無用の人間になれるだけの鎮静化のタッチを持っていないだけのくせに、そういう傲慢な言い方をしてくる。
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パニックにならない上手な生き方ばかり追求していてもしょうがない。パニックになっても鎮静化できるタッチを持っているのが、ほんらいの人間のかたちなのだ。
パニックになって、泣き喚けばいいのだ。思い悩んで七転八倒すればいいのだ。そこから自然に沈静化してカタルシス=浄化作用を汲み上げてゆくタッチを持っているのが、脳のほんらいのはたらきなのだ。原始人はたぶん、そういうタッチを生きることの醍醐味として暮らしていた。
泣き喚くような体験をすることができるのなら、すてきなことだ。その嘆きの深さのぶんだけ、カタルシス=浄化作用も深くなるのであれば。
内田氏などは、そういうタッチを持っていないから、パニックにならないこと(危機回避)が生き延びることだ、というようなくだらないことをいってくる。
鎮静化とともにカタルシスを汲み上げてゆくタッチを持っていた原始人は、危機それ自体を生きていた。たとえばネアンデルタールが氷河期の極北の地に住み着いていたのは、泣き喚きながらそこからカタルシスをくみ上げてゆくという、危機それ自体を生きるタッチを持っていたからだ。
危機を回避するためなら、とっくに南に移動している。
人間は、「危機」を生きようとする生き物である。それは、そのパニック(=嘆き)が沈静化してゆくカタルシスを体験できる脳のはたらきをもっているからだ。
二本の足で立ち上がることは、「危機を生きる」ということだ。そのとき人間は、危機を回避しようとしたのではない、危機それ自体を生きようとしたのだ。
現代の若者が「俺たち頭悪いから」といえるのは、鎮静化のタッチを持っていることを意味する。
内田氏は、「私は卑しい人間です」といえないんだってさ。戦後世代の大人たちは、たいていそういうことがいえない強迫観念を抱いている。それは、右肩上がりの経済成長とアメリカ的近代合理主義の理念にどっぷりとひたされて育ってきたために、鎮静化のタッチを持っていないからだ。
精神疾患の治癒のためには、「うれしい」とか「楽しい」ということよりも、「いやされる」という体験が必要であるらしい。
平和で豊かな現代社会は、人を、「うれしい」とか「たのしい」ということで興奮しっぱなしにしてしまい、鎮静化のタッチを奪ってしまう。だから、いったんパニックに陥ると、治癒が長引いたり、死ぬまで直らなかったりする。
そういうときに花を眺めて「いやされる」ことによって、鎮静化のタッチを取り戻してゆく。
花を眺めるとなぜ「いやされる」のか、そのへんの心の構造を、次回に考えてみたいと思います。