内田樹という迷惑・「花(はな)」というやまとことば

花によっていやされる心の構造について考えたいのですが、その前にまず、「はな」というやまとことばを検討してみます。
やまとことば研究の権威である中西進氏は、こう説明してくれています。
「花」と「鼻」、花は茎の先端に咲き、鼻は顔の中心にあってとんがった部分だから、ともに「はじまり」という意味がある。
「しょっぱな」とか「はなから」というときの「はな」は、「はじまり」という意味である、と。
たしかに「はじまり」という意味がある。しかし、最初に「はじまり」ということばがあって、そのあとに「花」とか「鼻」という言葉が生まれてきたわけではないでしょう。
「花」とか「鼻」という言葉のほうが先にあったはずです。
中西氏のこの説明は、いかにも苦しい。桜なんか、木の枝一面に咲いているし、木の花は、おおむねみんなそうでしょう。花は、「先端」だけに咲くのではない。
たぶん原始人は、「はじまり」という意味で「花=鼻」といっていたのではない。
やまとことばは、そんな説明的な言葉ではない。「花」と発音する感慨がある。そこから「花」という言葉が生まれてきたのだ。べつに、鼻や花の形状を説明しているのではない。そこが、英語や中国語などの大陸のことばとは異質なところです。いや英語や中国語だって、そう発音する感慨から生まれてきた言葉だって、たくさんある。
英語の熊は、体中に「ヘア」が生えていて毛むくじゃらという意味で「ベア」というのかもしれないが、やまとことばの熊の「くま」は、「怖い」とか「畏れ」という感慨を表しているだけで、熊の形状なんか何も説明していない。
やまとことばの「言霊(ことだま)」とは、そういう根源的な感慨のことだ。
「はな」という言葉には、「はじまり」という意味が生まれてくるような感慨がこめられている。そういう「ことだま」を問うことが、語源を問うということだ。
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「は」は、「はかない」の「は」。「果て」の「は」。「はあ?」というとまどいや不安。
「は」と発声するとき、体中の気が全部外に出ていって、なんだか体の中が空っぽになったような心地がする。そういう心もとなさの感慨から、「は」という音声がこぼれ出る。
「な」は、「なあ」と問いかけるときの「な」。「春な忘れそ」というように、すがるような祈るような気持ちで「な」と強調される。「な、問いたもうな」といえば、どうかとはないでくれ、、という意味。「面白きかな」といえば、親しみが込められている。「なに?」という問いにも、「なあ」と肩を抱いてゆくような親しみがある。
「な」と発声するとき、口を大きく開けるが、息をともなわないで声だけ出てゆくような感触がある。
「な」という発声には、すがりついたり問いかけたり、何か肩を抱いたり手を差し伸べたりするような愛着が込められている。
「な」は、「注目」「親愛」の語義。
であれば、「はな」という言葉には、かすかな心もとなさと愛着が込められているにちがいない。
けっして存在を主張してくるわけでもないのに、気になって仕方がない対象、それがやまと心としての「はな=花」という感慨だったらしい。
ものごとの「はじまり」には、心もとなさやや不安がつきまとう。何も確定していない状態。それが、ものの「はじまり」だ。そういう感慨から、「はな」という。
花の形状を説明しているのではない。花に対する感慨の表出なのだ。
それに花は、いつまでもあるものではない。短いあいだにあらわれて消えてゆく。それは、「はじまり」の心もとなさに似ている。
また、顔についている鼻は、空気を吸ったり吐いたりする器官である。空気を吸うところから、呼吸がはじまる。それは、命のはじまりでもある。
呼吸することへの愛着と、空気という色も形もないものとかかわっている心もとなさ、たぶんそういう感慨から「はな(鼻)」と呼ばれていったのだ。べつに顔の中心にくっついてとんがっているからでも、真っ先に目に付くところだからでもないはずである。
「はじまり」には不安と期待、すなわち心もとなさと愛着がある。だから、「はな」という。
中西氏だって、語源に対する考察は甘いと思う。
「はな」というなら、「離(はな)れる」とか「話(はな)す」という言葉もある。これらに「はじまり」という意味を付与するのはいかにも無理がある。どちらも、心もとなさと愛着をともなった行為である。やまとことばは、「説得する」ことを第一義にした言葉ではない。やまとことばにとって話すことは、感慨を共有する行為であり、その心もとなさと愛着をこめて「はなす」というのだろう。
「花」のバリエーションとして「はんなり」という場合も、弱々しいけどどこか凛としてしなやかで愛らしい、というニュアンスにちがいない。つまり、「花(はな)なり」から転化したのだろう。
花の存在の仕方のはかなさに対する愛着、そこから「はな」という言葉が生まれてきたのであって、「はじまり」という意味によってではない。
呼吸することの心もとなさと愛着、そこから「はな=鼻」という言葉が生まれてきたのであって、「はじまり」という意味によってではない。「はじまり」という意味は、おそらくあとから生まれてきたのだ。
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花が持つ存在感の薄さと愛らしい色彩。われわれはそこにいやされるのであり、そのいやされる感慨が、「はな」という言葉になったのだ。
まったく、やまとことばはうまくできている、とあらためて思う。
世阿弥は、「萎れたる姿こそ花なり」といった。
「花」という言葉が真っ先に示す意味は、「存在感の薄さ」ということにある。中世の人々は、そういうことをよく心得ていた。人間は、根源的に存在感の薄いものに愛着をしめす生き物である、という認識が世阿弥にはあった。だから、「花」という言葉を、「美」という意味に使った。
「花」という言葉に、「はじまり」という意味はない。その「心もとなさと愛着」の感慨が、「はじまり」の感慨と通じている、というだけのことだ。
そして、花のはかなさは、命の短さにあるのではない。その「かたち」の存在感の薄さにある、と世阿弥は言う。萎れてゆくときの存在感の薄さこそ、花がもっとも花らしい状態である、と。
「存在感の薄さ」が、人の心をいやす。それが、「幽玄」という能のコンセプトであり、花にそなわった特質である。そしてそれこそが「はな」という言葉の語源であって、「はじまり」ということではない。
人が花にいやされる心の動きの根源は、縄文人も現代人もない。「存在感の薄さ」ということにある。
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世阿弥は、花の「存在感の薄さ」は、命のはかなさというより、花の「かたち」そのものにある、といった。その「萎れたるかたち」にある、と。
中西進氏は、花の形状(かたち)を「茎の先端(はじまり)に咲くことにある」と説明してくれる。つまり縄文人は、花の形状をそのように見ていた、と。
そうじゃない。縄文人だって、世阿弥と同じように「存在感の薄さ」として見ていたのであり、だから「はな」という言葉になったのだ。
花は、けっして心を興奮させる対象ではない。
花を貰ってよろこぶのは、また別の問題だ。それは、相手の気持ちや花をもらうという行為に対する感情であって、花それ自体に興奮しているのではない。
人間は花に対して特別な愛着があるが、花を見て興奮するわけではない。
花は、はかない対象である。そのはかなさに、愛着を抱く。しかしそれは、命のはかなさというより、しっかりとした「物性」を持たない存在であるということにある。
おそらく縄文人に、命のはかなさというような感慨はなかった。それは、生き延びたいという願いが強くなってきた後世の人びとの感慨だろう。縄文時代は、人間の命も花と同じようにはかなかった。彼らの平均寿命は30数年で、誰もがいつ死ぬかもしれない命を生きていたのだし、その現実をそのまま受け入れていた。花がすぐ枯れてしまうからといっても、そういうものだとあたりまえのように受け入れていた。
花の命のはかなさが意識され出したのは、和歌が生まれてさかんに桜の花に対する愛惜が歌われるようになってきてからのことだろう。それは、共同体の成熟によって死の恐怖が肥大化していったところから生まれてきた感情であって、花に対する根源的な意識ではない。
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花が持つ根源的な「存在感の薄さ」のイメージは、あくまで花の「かたち」にある。
花びらは、二次元の平面である。それらが折り重なってひとつの「空間」をつくっているのが、花の「かたち」である。
花は、中身の詰まった「かたまり」ではない。つまり、そのような三次元の「物性」を持っていないところに、花の「存在感の薄さ」がある。
「幽玄」とは、物性を感じない世界のことである。「あの世」はもちろん物性のない世界であるが、今ここのこの世においてそうした「幽玄」の世界を現出させて見せるのが、能の表現にほかならない。
縄文人はすでに、花のかたちに「幽玄」を見ていた。だから「はな」という音声がその感慨からこぼれ出たわけで、「花」とは「幽玄」という意味でもある、と世阿弥が言っている。
花は、物性を持っていない。ひとつの平面であり空間である。たぶん人は、そこにいやされるのだろう。
たとえば、そびえ立つ大きな岩山を前にしたとき、その圧倒的な存在感=物性に、人は驚き緊張する。それはひとつの感動体験であるのだろうが、いやされるわけではない。そういう体験をしたとき、われわれは心身ともにぐったりと疲れる。
都会のビルディングだって、まあ岩山のようなものだ。われわれはこの世界の物性に囲まれ、物性と関わりながら暮らしている。
この世界の物性は、われわれを疲れさせる。
カードで買い物をすることは、お金という物性から解放されて「空間」に遊ぶことだが、それが借金になったとたん、物性となって重くのしかかってくる。
約束することは。物性としての関係である。家族とか社員だとか国民だとか、そのように登録されることは、関係の物性に閉じ込められることだ。
「制度性」「共同性」、という物性。
この社会は、物性としての関係の上に成り立っている。
だから人は、ときに水のような淡い親しみをもった関係にいやされてゆく。
楽しく充実して生きているつもりでも、しらずしらずのうちに疲れが蓄積し、やがて精神が病んできたり、ある日突然パニックを起こしたりする。
そんなとき人は、花の存在感の薄さに、ほっとして心が和む。物性からの解放、それが、「いやされる」ということであるらしい。
それは、「空間」に遊ぶことであり、それを、「幽玄」という。
人の心は、空間および空間性にいやされる。花は、そういう空間性を持っているらしい。(つづく)