内田樹という迷惑・「乞食」という無用者

承前
内田さん、あなたがわれわれよりも優れているのは、知識と小ざかしいたくらみだけだ。まあ、それさえあればこの社会でうまく生きてゆける。大学教授にだってなれる。が、それだけでは、われわれがあなたを尊敬する理由にはならない。
社会的に有用な人間だからといって、われわれが尊敬しなければならないいわれはない。
むしろ、有用であるというそのことが、この生の根源に気づく感性を鈍くし、あなたたちの品性を卑しいものにしている。
内田氏は、「(社会的に)有用な人間になれ」と、まるで強迫するように若者を説得しにかかっている。
そうして「無用の者」であるニートや引きこもりの若者を、まるでこの社会の邪魔者であるかのようにさげすむ言い方をする。
そういうことを言う大人がうようよいる世の中なのだ。
だから、そうした世の風潮から強迫されて、自分が「無用の者」であることを思い悩まねばならない若者もたくさん生まれてくる。
しかし、さしあたり食うに困らないのであれば、思い悩む必要なんかない。
 「無用の者」であるということそれじたいが、世界や他者の存在に驚きときめき、この生の根源に気づく「契機」になるのだから。
思い悩むことなんか、食うに困ったときだけすればいい。人間いかに生きるべきかという悩みなんか、たいしたものじゃない。言い換えれば、食うに困っていることの悩みこそ、もっとも深く厳粛なのだ。
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この国における「有用者」にあらざれば人にあらず、というような風潮は、明治以降の「富国強兵」や、「脱亜入欧」のスローガンとともに拡大してきて、太平洋戦争の敗戦とともに一気に社会を覆い尽くしていった。
内田氏も僕も、そういう時代に生まれ育った団塊(戦後)世代です。この世代の大人たちは、骨の髄まで「有用」であることの価値に対する信奉がしみ付いている。
三浦展とかいう社会評論家も、団塊世代直後の戦後世代として団塊世代を批判しているが、そういう意味では同じ人種にすぎない。彼らの頭の中は、「有用の価値」しかない。
内田氏は、わび・さびの文化ですら、社会的に有用なものとして語る。武道や謡をやっているからといって、それを本格的に理解しているとはいえない。ただのポ−ズだ。言ってることの中身は、あきれるくらい薄っぺらだ。
言うだけなら、簡単なことさ。
ただ、内田氏のように頭の中が「有用」の価値ではちきれそうになっている人間でも「わび・さび」や「風雅」を語りたがるということは、その伝統は、それほどわれわれの意識に深く根ざしている、ということを意味する。
有用の価値しか頭にない人間がそんなことを語るなんて、ちゃんちゃらおかしいのですけどね。
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「わび・さび」のことなら、無用の者であるニートや引きこもりをはじめとする現在の若者たちのほうが、内田氏よりずっとよく知っている。
彼らが「渋い」というのはそういうことであり、「俺たち頭悪いから」というつぶやきは、それ自体「わび、さび」の表現なのだ。業平も西行も宗祇も芭蕉も一休も良寛も、かつて「わび・さび」の世界を表現した人たちはみな「無用の愚者」を名乗っている。
つまり「俺たち頭悪いから」と。
そうして漂泊の境涯に生きた彼らは、自分はただの「乞食」だ、わび・さびの世界は乞食にならないと見えてこない、とも言っている。
「乞食」は、究極の「無用者」のかたちのひとつでしょう。そこでこそ、この生の根源が問われている。
ある人は、乞食の「物乞い」と仏道の修行者の「托鉢」とは違う、というようなことをいっておられたが、この人もまた、たぶん「有用」の価値を引きずっている。
托鉢が乞食と同じであって、乞食そのものであって、なぜいけないのか。
この国の伝統においては、乞食は、神が身をやつした姿でもある。乞食こそ、人間の根源のかたちなのだ。
本気で「無用者」になろうとするなら、「乞食」になるしかないのだ。
ニートや引きこもりだって、乞食みたいなものです。親のすねをかじろうと他人から恵んでもらおうと、同じことだし、それでいいのだ。彼らは、「乞食」であるということにおいて、根源的なのだ。
「無用者の輝き」というものが見えていないから、乞食と托鉢は違う、などと中途半端なことを言う。
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キリスト教であれ仏教であれ、共同体が存在することの桎梏から生まれてきた。
原始人がこの世界の現象に「神」を見出していったこととは違う。
原始人は、出家などしなかった。それは、共同体(国家)などというものを持たなかったからだ。
しかし釈迦は、出家したところから仏教をはじめた。それは、ひとまず共同体から離れて、原始人が神を見出していった体験に遡行するためであったにちがいない。
僕が「契機」というのは、そういうことです。
坊主が、人格者ぶって社会の中での人の生き方を語ろうなんて、しゃらくさいのだ。ダライ・ラマだって、しゃらくさいのだ。
社会=共同体というしがらみを持たないのが、坊主なのだ。
おまえらが、社会や人間の生きかたなんか、語るな。おまえらには、「生き方」などという人生の時間のイメージはないはずだ。「今ここ」があるだけだろう。
「生き方」などというものは、80年生きるつもりの俗物に必要なものだ。「今ここ」だけを生きるおまえらの知ったこっちゃないだろう。
人格者ぶっているやつの説く宗教なんか、僕は信じない。人格者になるために宗教があるのではない。
いや、人格者になるために宗教があるのなら、宗教なんかいらない。
自分を救うための宗教なんかいらない。「世界=神」に気づくことができればいいだけだ。
「今ここ」のあなたを、「今ここ」のそのままで祝福したいだけだ。
かっこつけてる、と言いたければ、言えばいいさ。
ほんとに、そう思っているんだもの。
何とでも、言ってくれ。
しかしこちらだって、誰が人格者ぶって言ってこようと、ぜんぶ、そんなものくだらない、と言い返してやる。
人は、社会(共同体)から落ちこぼれた無用の者になることによって、初めて「根源」に気づく。
なぜなら、社会(共同体)の論理は、人間の根源のかたちと逆立しているからだ。
有用な人間が根源を知っている、と考えるのは幻想に過ぎない。そのことは、乞食のほうが、深く体験していているのだ。
命のはたらきの根源のことは、ダライ・ラマよりも、オバマ大統領よりも、乞食のほうがずっとよく知っている。
坊主が乞食(無用者)になれなくて、何が仏教なものか。