内田樹という迷惑・無用の者であるということ

内田氏は、若者に向かって、「人間は労働を通じて人間になるのだから、社会的に有用な存在になれ」と、さかんに力説している。
そうなることが人間であることの証しであり、人間の生きがいはそこにこそあるのだそうです。
社会的に有用な存在であることを価値とする意識は、現在のこの国の大人たちのほとんどが抱いている意識であるのかもしれないが、それは、アメリカから輸入された思想です。アメリカ人ほどそういう価値意識をつよく信奉している国民もない。
団塊(戦後)世代は、戦後のアメリカナイズされた価値観の中で育ってきた。内田氏も、そういう価値観を素直に抱いている子供だったのでしょう。
団塊(戦後)世代の子供時代は、地方都市の子供はたいていアメリカナイズされていた。東京・横浜や京都・大阪・神戸などの大都会の子供は、極端にアメリカナイズされるか無関心であるかの半々に分かれていた。
僕は伝統文化を色濃く残した伊勢という田舎町の子供だったから、途中で福岡という地方都市に転校して、そのギャップに大いに戸惑った。
そして高校を卒業して東京に出てきたとき、ものすごくおしゃれなやつがいる反面、東京育ちのくせに着るものも趣味もすごく野暮ったくて純情なやつがたくさんいることに、また驚いた。
敗戦後の日本は、大都市の一部と地方都市から順にアメリカナイズされていった。
ファッションだけなら罪もないが、団塊世代の多くは、アメリカ人みたいにものすごく現実的で価値意識が強い。価値意識でお金やアメリカを否定して学生運動に熱中していった。彼らはアメリカを否定したが、彼らを育てたのはアメリカだったのだ。
彼らほど社会的に「有用」な存在たらんとする意欲の強い世代もない。そういう意識で、学生運動に熱中していった。
彼らほど自己正当化に熱心な世代もない。彼らほど他人に自己否定(総括)せよと迫った世代もないが、彼らほど自分を否定していない世代もない。
どうしてあんなにも自分たちの青春や子供時代を懐かしみ正当化したがるのか、僕にはよくわからない。
それは、オバマが、われわれの祖先は艱難辛苦と愛でこの偉大なアメリカを築いた、と言っているのと同じマインドのように思える。
オバマに言わせると、アメリカ人は、地上でもっとも繁栄し、もっとも力強い国民なのだそうです。よく言うよ、て感じです。そんな傲慢なうぬぼれで結束しようなんて、あさましいかぎりです。彼らは、そうやっていつもよその国と自分らを比べている。だから、そんな自覚が必要になるのであり、それは団塊世代のメンタリティと一緒です。
団塊世代の多くは、「俺の人生もまあまあのものだった」というせりふを口にする。それは、「まあまあ」ではない人生と比べてそれを差別している意識なのだ。
「われながらひどいものだった」と言う団塊世代は、少数派だ。
アメリカ人も団塊世代も、「有用」の価値に対するひとかたならぬ信奉を抱いている。
僕は、個人にとって共同体(国家)は、「すでに存在する」ものであって、「つくる」ものだとは思っていない。だから「公共心」がないだめな人間であるのだが、これは、日本列島の伝統的な感性だろうと思っている。そういう意識の強い田舎町で育ったのだ。
黒人であろうとあるまいと、僕は、大統領になるような人間を好きになろうとは思わない。そういう「有用」な人間に興味はない。
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内田氏は「人間は労働を通じて人間になる」と言うが、僕は、一所懸命働いて社会的に有用な人間になることに生きがいを見つけることなんかできなかった。
彼とは、背負っている文化が違うのでしょうね。
僕にとってアメリカは、遠い国だ。
小学校六年のときに転校していった福岡には板付基地があって、空を見上げればいつも米軍のジェット機が飛んでいたし、家の近くには米軍のかまぼこ庁舎が建つ通信施設があった。
しかし伊勢には、アメリカが匂うものは何もなかった。唯一、空襲のあとの廃墟と、そこに放置されている焼夷弾の残骸を見ただけだった。
僕は、労働の価値などというものを知らなかった。祖母の家に預けられていたから、父親が働いて家族を養う、という社会のしくみがよくわからなかった。友達のお父さんがどんな仕事をしているかということなど興味がなかったし、そのお父さんが働いて稼いだ金で彼らが暮らしているという想像などしたことがなかった。
お金持ちは、最初からお金があるのだろうし、貧乏な家がお父さんのせいだと思ったこともなかった。そういう世の中のしくみのことが、よくわからなかった。
ところが、転校していった福岡の子供は、みんなそういうことがよくわかっていた。そうして、小学生のくせに、将来の人生設計なんか語り合っている。明治維新の志士に習って社会を変革するのだ、と言っている者もいた。彼はクラスの級長だったが、なんとなくすべてのことに彼の興味の持ち方と自分のそれとの違いを感じて、どうしても親しみを持てなかった。
内田氏も、自分は、社会の仕組みのことをすでにわかっていたり、将来の人生設計をしたりする、そういうタイプの子供だった、と言っている。
僕は、大人になっても、とうとう「一所懸命働いて社会的に有用な人間になること」の価値を見つけることができなかった。
ひとまずそれを信じて目指したのだが、実現したとたん、かえって泥沼にはまり込んだような気分になってしまった。
たぶん、そこで出家すればよかったのだろうが、もともとそんな趣味もなかったし、救われたいという願いもなかった。そんなご立派な思想なんかなかった。ただもう、なんだかしらないが、いやでしょうがなかっただけだ。
もともと俗物だから、このわずらわしい世間で煩悩にまみれて生きていたい、という思いだけがあって、そのときになってもまだ、人生設計というイメージが描けなかった。
こんなとき人は、家族とともに過ごす「日常=生活」を大切にし、趣味に生きることで解決をはかってゆく。
僕も、家族とともにすごす日々の中で「書道」の稽古をしながら生きていこうと一時は思い立ち、けっこう高価な硯石や筆を買って用意したのだが、すぐ飽きてしまい、けっきょく「生活者」にも「趣味人」にもなれずにあいまいな気持ちを引きずったまま年月が過ぎていった。
「生活者」という言葉は、あまり好きではない。そういう「実」の世界よりも、そこから離れた「虚」の世界のほうに惹かれる。だから、「書道」の稽古をしようとしたのだが、そういうことは仕事も何かもぜんぶ投げ打ってするものであって、趣味でちまちまやっていてもあまり面白くないのですね。
書道の先生になってそれで生計を立ててゆく、というような目標を持てば続いたのかもしれないが、そんなことはつゆほども思わなかったし、展覧会に入選するような正当な書き方を身につけたいとも思わなかった。
ただ、字を書けば自分の気持ちが落ち着くかな、と思ったのだが、そんなことより飲み屋のおねえちゃんのお尻を触っているほうがずっと気晴らしになった。
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僕には、「有用」な人になろうとする意欲が欠けていた。
唐木順三氏の「無用者の系譜」という本を買ったのは、人生でいちばん忙しく働いていた三十代のはじめころだった。そのとき、自分は今そういうテーマを抱えている、と思っていたはずだが、なんとなく読む気になれずに本棚の隅にほったらかしにしておいた。
本気で読んだのは、二十年後だった。
そして、けっきょく自分は、幼いころからずっとそんなイメージを抱えて生きてきたことがわかった。
さらには、自分だけでなく、じつは誰もが「無用者」のイメージに引かされながら生きている、と思うようになっていった。
だから、西行や兼好や芭蕉や、一遍や一休や良寛が歴史に名をとどめているのだろう。
いや、名もない高野聖や乞食芸人でもいい。日本列島の歴史には、「無用者の系譜」が流れている。そういう歴史を見つめながら生きていたいと思う。
たとえば「風雅」という美意識のこととか、たとえば「看脚下」という禅の言葉とか、内田氏が小手先の芸でそういうことをどんなに舌ざわりよく語ってみせても、そういうことなら僕のほうが深く気づいている自信はある。
なぜなら僕は、アメリカかぶれした小ざかしい東京っ子ではなく、無知でとろい田舎町の子供だったからだ。
内田さん、無知でとろい人間をばかにするもんじゃない。美意識だろうと想像力だろうと運動神経だろうと、あなたなんぞには負けない。