内田樹という迷惑・オバマ演説から

内田氏が、オバマ大統領の就任演説のことを誉めていたので、僕は、いちゃもんを書きます。
オバマ氏はこういう。
この偉大な繁栄する国は、この新天地に渡ってきた過去の人々の艱難辛苦と愛によって打ち立てられた。われわれはそれを引き継いで新しい繁栄を創造してゆく責任(レスポンシビリティ)がある。
まあ、そんなようなことです。
内田氏はそれを、「彼らは、他の国との比較なしに自分たちの国の歴史を語ることができる。それがほんとうのナショナリズムであり、それに対してこの国の歴史は、つねに中国や欧米などの他の国を意識することの上に成り立ってきた。そういう島国根性がだめなところだ」と解説してくれる。
何言ってるんだか。
縄文時代の8千年は、氷河期が空けて大陸から切り離された島国としての孤立した歴史を歩んだ時代だった。彼らは、海の向こうにもうひとつの世界があることを忘れて(知らないで)暮らしていた。
日本人の世界観の原型は、おそらくこの8千年の孤立によってつくられている。
日本人の意識の底には、良くも悪くも日本列島だけで世界を完結させてしまうイメージがある。
だから、江戸時代の鎖国も、あたりまえのように受け入れることができた。
庶民も含めた日本人が本格的に「海外」を意識したのは、明治以降のことだ。
一度も侵略されたこともなく、海外のよその国を深刻に意識することのない歴史を歩んできたからこそ、そのときどこよりも従順率直に追随していったのだ。
日本に比べたら、インドも中国も韓国も、欧米列強に対する対抗意識として自国の文化にこだわっていたから、近代化が遅れてしまった。
古代国家を建設する際に文字を持たなかった日本列島は、漢字を輸入した。しかしどうしてもそれだけでは済ませることができずに、いつのまにかそこから平仮名をつくり出していった。平仮名をつくり出さずにいられないくらいの固有の歴史をすでに持っていたからだ。それほどにやまとことばが異質だったからだ。
内田氏は、江戸時代以前の歴史における支配階級や知識人たちの中国コンプレックスを、日本人全体のものであったかのように考えているが、それは違う。明治維新以降に、はじめてそうした海外コンプレックスが民衆のレベルまで降りてきたのだ。
それまでの大多数の日本人は、この日本列島で世界は完結しているという意識で暮らしていた。
縄文時代以来、そういう世界観でこの国の文化が育まれてきた。基本的には、いまでもそういう世界観がわれわれの胸の底に息づいているはずだ。
わび・さびの文化にしろ、隠遁の思想にしろ、盆栽や俳句などのように世界をコンパクトにまとめてしまおうとする傾向にしろ、みんな「今ここ」で世界を完結させようとする意識の上に成り立っている。
そしてそういう意識で世界を考えてしまう傾向を持っているからこそ、世界との比較で反省しようともするのだ。
自分の国だけで歴史を考える傾向は、アメリカなんかよりも日本のほうがはるかに本格的なのですよ、内田さん。
オバマがそんな語り方をしたのは、それによって国民を結束させようとする意図と、自分たちの国がたかだか数百年の歴史しかないというコンプレックスの裏返しでもある。
その言い方は、ものすごくよその国を意識している。われわれの国は歴史が浅い分、よその国とは比較にならないほどの苦労と意志力でこの国をつくり上げてきたのだ、そういう誇りを持とう、と国民に呼びかけたのだ。
ヨーロッパを追われるようにしてこの地に渡ってきた彼らは、がんばってヨーロッパに対抗できる国をつくり上げようとしてきた。彼らは、その歴史の第一歩から、よその国を意識していたのだ。
国をつくることは、よその国を意識することだ。アメリカ人ほどよその国を意識している国民もない。彼らほど、ナンバーワン、オンリーワンであることを確認しようとする意欲が旺盛な国民もない。
そういうことがよくわかる演説だった。
しかし日本列島においては、「国」は、つくるまでもなく、はじめからあった。海に囲まれて孤立しているという地理的条件それじたいがすでに「国」であり、この世界のすべてだったのだ。
われわれ日本列島の住民は、厳密な意味で国家を建設するという歴史を持っていない。
「国」は、はじめから存在していた。
こんな歴史を持った国など、たぶんめったにない。
だからわれわれ日本列島の住民には、「公共心」がない。われわれにとって国は、つくるものではなく、すでに存在するものなのだ。
われわれが日本人であることは、われわれの運命であって、意志と努力で獲得したものではない。
アメリカ人は、「この国はほかの国とは違う」と威張る。
われわれ日本人は、「この国はどうしてほかの国とは違うのだろう」と反省する。
アメリカは、最初ヨーロッパの一部だった。
しかし日本列島は、最初からほかのどの国の一部でもなかった。最初から日本列島だった。
内田さん、国としての歴史の完結性ということにおいては、アメリカよりもこの国のほうがはるかに本格的なのですよ。
若いギャルが、電車の中で他人の視線などまったく気にしないで一心に化粧をしている。そのとき彼女にとっての「世界」は、自分の体のまわり数10センチだけで完結している。
アメリカ人が、他人を意識して自己主張するのとはわけが違う。
良くも悪くも自己完結性は、この国の住民のほうが、はるかに本格的で無意識的なのだ。
内田さん、自分では気のきいたことを言ってみせたつもりだろうが、われわれからすれば、ただの思いつきで何を薄っぺらなこと言ってやがる、と思うばかりです。