内田樹という迷惑・無用の人の輝き

この世の中には二種類の人間がいる、「有用な人」と「無用の者」。
もしそういう言い方ができるとすれば、内田氏はもちろん「有用な人」です。
そして、ニートや引きこもりやホームレスの人たちは、この社会の「無用の者」にちがいない。
老人や身体障害者も、「無用の者」の範疇だろう。
「有用な人」には、社会的な価値がある。「価値」を信奉する人が、「有用な人」になる。その価値が、金であっても、出世であっても、愛であっても、人生の意義がどうとかときれいごとを言っても同じことだ。要するに「価値」というものを信奉する卑しいスケベ根性なのだ。そういう卑しいスケベ根性の旺盛な人々が、「有用な人」になる。
まあ人生には、個人の意思を離れた成り行きというものがあって一概には言えない側面もあるのだが、ひとまずあえて挑発的に書いておきます。
内田氏ほど、そのようなスケベ根性の旺盛な人もそうはいない、と思えるから。
彼は、自分のスケベ根性を正当化するようなことばかり言ってくる。
「有用な人」には社会的な価値があって、「無用の者」には価値がない、邪魔なだけだ、そういう言い方ばかりしてくる。
世の中、そんな単純なものじゃないのですよ。それですむなら、文学も哲学もいらない。文学的な感性も哲学的な思考力もないくせに文学や哲学を語りたがるやつが、こういうくだらないことを言ってくる。
「無用の人」の輝きというものがある。われわれは、そういう人の魅力につい引き寄せられてしまったりする。
一生を寝たきりで過ごす人は、だからこそ命のはたらきの根源を知っている。そういう「根源」を知っている人の輝きというものがある。だから人は、ボランティアをしたり、無医村の離島やビルマの奥地にいって医療活動をしようとしたりもするのだ。
ただ「かわいそう」というだけでするのではない。貧しい者や弱い者は、「無用の人の輝き」というものを持っているからであり、誰もが人生の途上で、ふとそんな人たちに魅せられてしまったりするのだ。
「無用の者」のが持つセックスアピールというのがある。それに引き寄せられてついだまされてしまう女がいる。そんな男についていっても破滅と窮乏が待っているだけだとわかっていても、ついすがり付いてしまう女がいる。
西行も兼好も世阿弥芭蕉も、一遍も親鸞も一休も良寛も、みんな社会(=価値)に背を向けた「無用の者」だった。彼らは、そこから「美」や「真実」や「根源」を掬いあげてみせた。
生きてあることは、社会的に有用であることだけではすまない。むしろ、有用であることによって「根源」や「美」を見失うということを、たぶん誰もがどこかしらで気づいている。
だから、「無用の人の輝き」に魅せられてしまうのだ。
われわれが生存する社会には、「無用の人」もいてくれなくては困るのだ。そういう人たちから、われわれは、いやされたり学んだりして生きているのだ。
とくに近ごろ「癒し系」だの「萌え」だのという言葉が流行してきたのは、この社会があまりにも有用であることの価値に振り回されて混乱してきてしまっているために、誰もがあらためて「無用の人の輝き」に気づかされているからだろう。
そういう風潮から、ニートだの引きこもりだのホームレスだのという「無用の者」たちが生まれてきている。
そして、歴史というものを考えるなら、そういう者たちはいつの時代にも一定数存在したのだということがわかる。
われわれは、「無用の人」がいてくれないと生きられない。そういう人たちがいてくれないと、「人間」を見失ってしまう。
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前回は、近ごろの若者は「俺たち頭悪いから」と平気で言える、ということを書きました。その態度は、戦後世代の大人たちのように、有用な人であらねばならないという強迫観念に追いつめられてそれが言えなくなってしまうことよりずっと健康なことなのです。
また内田氏のように、有用な人であることを自慢たらたらに繰り返すことだって、やっぱり強迫観念のなせるところでしょう。
内田氏は、大学教授という職業柄か、「教育」の問題をさかんに語っています。
「街場の現代思想」では、若者に対する人生訓話を、得意満面でしゃべりまくっている。それはもう、あさましいほどです。
自分の教育者としての資質に疑問を抱いていない教育者ほど不気味な存在もない。彼らは、ファシストだ。
人は、教育することなんかできない。学ぶことができるだけだ。そこのところをわかっていない教育者が多すぎる。
現在の日本の子供たちの学力が低下してきているのは、内田氏のように、子供を教育できる(教育しなければならない)と、あたりまえのように思い込んでいる教育者が多すぎるということも、大きな要因になっていると僕は思う。
あなたたちのその思い上がった態度が、子供の学習意欲を削いでいるのだ。
内田氏は、その要因をこう説明している。すなわち、子供たちがおたがいに仲間の学力を低下させようとし合っているからだ、と。人々の学力というものに対する考え方が、社会に出て得するためだけのものになってしまっているから、それが子供に乗り移ってそうなってしまうのだという。
つまり彼は、こう言いたいのです。自分は純粋に知的好奇心だけで学習してきた。しかし近ごろの大衆は、そうした学力をたんなる社会に出て得をするための道具のようにしか考えていない。だから、こんな羽目になるのであり、子供たちが教室でうるさく騒ぐのも、仲間の足を引っ張るためだ、と。
まったく、どうしてこんな卑しいものの見方しかできないのだろう。教室の子供たちに落ち着きがなくなったのは、本質的には、実存の問題であるはずです。集団の中の「個」の問題、教師との関係の問題。
教師が、「教える」ということに疑問をもっていないから、教えりゃ教えられると、たかをくくっている。教えるということに疑いがなさ過ぎる。だから、熱心な教師は自分の教える態度に自己満足してしてしまうし、安易にサラリーマン化している教師は、それで義務を果たしていると思ってしまう。みんな、教育というものを信じてしまっているからだ。
それは、内田氏も含めて社会の上層部の人間が、教育の必要がどうたらこうたらと、教育というものに疑問を持っていないからだ。そのへんで大人たちがもう少し「つつしみ」を持てば、子供だって耳をそばだててくる。
もともと子供は、知りたがっている人間なのですよ。あなたたちが安っぽいへりくつを押し付けるから、学習意欲がなくなってしまうのだ。
そうして、教室で落ち着きがないのは、仲間の学力を低下させようとたくらんでいるからじゃない。子供は、未来の時間というものをうまくイメージできない人種です。だから子供の時間はゆっくり過ぎてゆくのだし、そんな大人みたいな小ざかしい駆け引きはできない人種なのです。
たとえば、小学校三年の子供がですよ、仲間が将来、工場の派遣社員になって「蟹工船」みたいに働かされているのを想像してほくそえんでいるとか、そんな能力があると思いますか。いつもそんな想像ばかりして教室で騒いでいると思いますか。彼らは彼らなりに、その空気の中で居たたまれなくなってしまう実存的な契機があるはずです。
人々が、他者との関係にうまくなじめなくなってきている。それは、人と人の関係が近くなりすぎたからだ。疎遠になったからじゃない。疎遠であれば、近づこうとするのが人間の本性である。家族の関係をはじめとして、近くなりすぎているから、離れようとするのだ。
人間を「教育」できると思っているのも、近くなりすぎていることのあらわれである。人間を教育できるなんて、なれなれしいにもほどがある。
それは、高度資本主義経済が大衆の欲望をコントロールしようとしていることともリンクしている。
現代は、そういうなれなれしい世の中なのだ。大人たちのそのなれなれしさが、若者や子供を息苦しくさせている。大人たちのそのなれなれしさから逃れて、彼らは「無用の者」になってゆく。
彼らはすでに、「無用の人の輝き」に気づいてしまっている。
内田氏の言うような、そんな短絡的な問題じゃない。ものを考えるのに「有用」か否かという物指ししか持っていないから、そんな愚劣で安っぽい言い方になってしまうのだ。
「愛」だか「家族の絆」だか知らないが、そんななれなれしさで物事を解決しようなんて、人間の見方が薄っぺら過ぎる。
人間の心は、なれなれしくされたらうっとうしくなるようにできている。
パラダイム・シフト」て言うじゃないですか。それは、教育の重要性を見直せ、ということじゃない。教育そのものを疑え、ということだ。教育しないことが、教育なのだ。教育しないことによってこそ、子供たちの学習意欲が芽生えるのだ。
人間社会は、内田氏のような「有用な人」ばかりになればそれで安泰というわけでもない。人びとは今、「無用の人の輝き」に気づき始めている。いつの時代でも、どんな社会でも、「無用の人」は存在するのだ。無用の人こそ、「根源=人間性の基礎」を知っているのだ。
内田氏じゃない。
知っているのは自分ではない、ということをわれわれは知らねばならない。内田氏をはじめてする「有用な人」たちは、そういうたしなみがなさすぎる。
「知っている」つもりだから、あほなのだ。