内田樹という迷惑・労働と遊び

僕が今、神や宗教のことにこだわっているのは、あくまで、内田氏の言説に異を唱えるためです。
内田氏は、「人間は労働を通じて人間になる。労働こそが人間性の基礎である」というようなことを言っておられる。そのことに、そうじゃないんだ、と言いたいからです。
人間性の基礎は「遊び」にある、ということを、今日的な問題として考えたいからです。
人間性の基礎が「労働」にあるのなら、宗教における「いかに生きるべきか」という態度もまた、ひとつの労働に違いない。
しかし人間は、いかに生きるべきかという問題として「神」を発見したのではない。
つまり、「自分」の問題としてではなく、「世界」が存在することに対する驚き・ときめき・畏れとして「神」を見出していったのだ。そうやって「われを忘れて」驚きときめき畏れたのだ。
宗教が自分というものを見出してゆく「労働」であるなら、宗教の「契機」は、われを忘れる「遊び」だった。そして、その「遊び」にこそ人間性の基礎がある。
自分を確認することが「労働」であるのなら、「遊び」の醍醐味は、自分を投げ捨てて夢中になってゆくことのカタルシスにある。
「神」の発見は、「自分」を確認することではなく、あくまで「自分ではないもの」に気づいてゆく体験である。「自分」を捨てて(忘れて)、「自分ではないもの」に気づいてゆくのであり、その態度こそ「人間性の基礎」にほかならない。
どんなに労働の価値をあげつらおうと、誰もが労働だけでこの生を完結させることはできない。
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世の中の人の多くは、平気で金の話をしている。それは、頭の中が「労働の価値」という幻想に浸されているからだ。はたで聞いていて、うんざりする。そういう態度は卑しいと思うのは、僕だけではないだろう。
そして内田氏が生きることの価値は金だけじゃない、などと清らかぶったことをいって見せても、「生きることの価値」だの「労働の価値」だのと言い立てることそれじたいが、金の話をしているのと同じなのであり、頭の中身の卑しさを物語っている。
誰かが、僕のことを、他人の人間性を否定するような言い方を平気でしてくる、と怒っておられたが、そんなことはおたがいさまだ。内田氏と同様、「俺が教えてやる、俺の言うことを聞け」というその言い方だって、相手の人間性を否定している態度であろう。
自分の人間性が立派で正しく清らかななものであると思っているそのうぬぼれが、僕は気に食わないのだ。
内田氏は、「私は卑しい人間です」と言い方は誰もできない、と言っておられたが、僕は、ためらわず言えますよ。じっさいそう思っているから、言うことに何の抵抗もない。彼らは、そう思っていないから、腹の底では自分は正しく清らかな人間だと思っているから、それが言えないのだ。こういう言い方に、内田さん、隠しているあなたのいやらしさが露呈するのだ。
中世の仏教徒の、「聖(ひじり)は、悪(わろ)きがよきなり」という言葉は、痛快だ。
自分のことを「卑しい人間です」と言えないでうぬぼれているかぎり、あなたたちは永久に「悟り」とは無縁なのだ。
そうやって「自分」にこだわっているかぎり、永久に「悟り」とは無縁なのだ。
悟りとは、自分を打ち捨てて世界に気づいてゆくことであり、「私は卑しい人間です」と言えることこそ、その「契機」になりうるのだ。
いや、もちろん僕は、仏道の修行者でもないし、悟りとも無縁のただの卑しい人間ですけどね。
ともあれ、自分を打ち捨てることは遊びの心であって、自分を確かめようとする労働の心とはまた別のものだ。
宗教が、人として生きてあることの価値や生き方を示すものであるかぎり、それが教えるところはたんなる「労働」に過ぎないが、宗教者の「悟り」は、それとは逆立したかたちの、自分を打ち捨てて夢中になってゆく「遊び」の感覚によってもたらされる。
その「ねじれ」が、宗教について考えることや語ることをややこしくしている。
既成の宗教なんかただの「労働」に過ぎないが、その宗教は、遊び心から生まれてきた。
自己を確立するとか悟りを目指すとか、そんなものはただの労働にすぎない。
人間は、「自分」を打ち捨てて二本の足で立ち上がったのだ。
人間性の基礎は、自分のことを忘れてしまうタッチにある。そういうタッチを持っているから、「神」を発見したのだ。「あなた」に深くときめくことのできる存在になったのだ。
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この社会は、他者に対する自分の優位性を確かめてゆこうとする衝動の上に成り立っている。だから、「私は卑しい人間です」といえないのだろう。
「おまえよりも俺のほうが上なんだぞ」ということを確かめるために寄ってこられても、うっとうしいばかりだ。世の中には、そういう俗物の大人がうようよいる。
戦後の日本社会は、そういう大人を大量につくり出す構造になっていた。彼らのそういう衝動によって、日本社会は繁栄していった。彼らは、他者の尊敬を勝ち取ろうとする衝動が旺盛で、またじつに巧みである。
団塊世代以降の戦後世代の大人たち。団塊世代はそうした意欲があきれるほど旺盛で、その後に続く世代は、団塊世代ほどの意欲はないが、そのぶん団塊世代よりもそれについての高度な技を持っている。
彼らは、社会的に有用なものを欲し、自分もまた社会的に有用な存在であろうとしている。だから、政治や経済を語ることに熱心で、宗教や哲学すらも社会的に有用なものだと思っている。有用なものしか認めない。
社会にとって有用なものしかイメージできない連中が、全共闘運動に夢中になっていった。だから、その後も社会にとって有用な人間として、高度経済成長の働き手になってゆくこともできた。その転進は、彼らにとってなんの矛盾もなかったのだ。
あのころは確かに、頭のいいやつがもてた。頭のいい人間は、社会にとって有用だからだ。学生運動の闘士であることは、頭のいい人間であることの証しのように思われていた。学生運動をやっていれば、頭がいい人種の仲間入りをしているような気分になれた。
「俺、頭悪いから」と平気で言えるような大学生など、大学への進学率が20数パーセントだったあの時代にはめったにいなかった。
しかし、今の若者たちは、平気でそれが言える。彼らは、社会にとって有用であることが人間であることの価値だ、というような意識は薄い。むしろ、あえて無用の存在になろうとするようなところもある。内田氏はこういう若者を大いに軽蔑してくれるのだが、彼らは、無用の存在になることによって初めて体験することのできる人生の味わいとか、無用の者に備わっている人間としての輝き(セックスアピール)とか、無用の存在にならないと死と和解することはできないとか、そういうことにすでに気づいてしまったのだ。
「お笑い芸人」という絵に描いたような無用の者が注目されているのも、ようするにそういうことだろう。
内田氏は、頭のいい人間の価値を何がなんでも死守したいようだが、たぶんもうそういう時代ではないのだ。
有用な人間であろうとするのは、つまるところ「神」になろうとする自意識である。
社会に有用な頭のいい人間でなければ生きている張り合いがないというような強迫観念を抱えていた団塊世代の学生たちより、「俺、頭悪いから」と平気で言える現代の若者のほうがずっと健康だし、人間の根源に届いている。彼らは、神にならない。神に気づき、神とともにいる。
彼らは、遊びの心を持った無用の存在になろうとしている。この国には、漂泊の歌人高野聖や河原乞食の芸能や隠遁者の文学など、そうした無用者から文化が発信されてくるという伝統がある。つまり、たとえば「わび・さび」の感受性なら、内田氏のような有用な大人たちより、無用な存在である現在の若者のほうがずっと確かにそなえているのだ。
内田氏の語る「わび・さび」とか風雅の伝統とかがいかに底の浅いものであるか、それはもうあきれるばかりだ。いや、思想や哲学に対する言説自体が、聞くに堪えないほど薄っぺらではないか。
宗教も哲学も、ほんらい社会にとって無用のものなのだ。修行者になることは、無用の存在になることだ。無用の者になりきること、それが、本格的な修行者の態度だ。
宗教なんか、大切なものでもなんでもない。社会にとって大切なものではないというそのことが、ほんらいの宗教の宗教たるゆえんなのだ。
僕は、人格者じゃない。恥知らずのくだらない人間だ。僕は、宗教に有用なものなど求めていない。宗教になんか、興味はない。宗教のほうが僕に何かを考えさせてくるだけのことだ。誰だってそうだろう。神という概念と無縁でいられる人間なんてまずいない。
無用の者でも、神について考える。無用の者ほど、考える。
有用な者は、自分が神になる。
無用の者は、神とともにいる。
神に気づいてしまったとき、若者はニートや引きこもりになる。そこのところ、内田さん、神になったつもりのあなたにはわからない。