内田樹という迷惑・悟り

「悟り」なるものがどんなものかよくわからないのだが、自分なりに想像してみると、それほどごたいそうな体験でもないような気もする。。
日本列島の住民は、なぜそれを「さとり」といったのだろうか。
外来語を使うのをやめて、自分たちのやまとことばとしてそれを理解しようとした。
「さとり」「さとる」、「り」「る」は、接尾語。「さと」という音韻に、そういう境地に対する感慨や意味がある。
「里=さと」は、集落のこと。
「さ」は、「さっさとやる」の「さ」。「さ、どうぞ」の「さ」。気持ちが急(せ)く状態から生まれてくる音韻。「裂ける=裂く」の「さ」。「早い」とは、空間が避けるような現象のこと。だから、古いやまとことばでは、早いことを「早(さ)く」という。「早苗(さなえ)」の「さ」。
「さ」と発音するとき、息と声が裂けて出てゆくような心地がする。早いものや裂けるものを感じたとき、「さ」という声がこぼれ出る。やまとことばの「さ」は、そういう感慨の音韻なのだ。
「と」は、「戸」の「と」。内と外の境界。だから、「雨と風」というように、接続詞として使われる。
また、早いという意味で「疾(と)き」という言い方もされる。この場合も、早いことが「裂ける(=境界)」というイメージだからだろう。
「里(さと)」とは、まわりを自然に囲まれた集落。そういう自然との「境界(裂け目)」を持った集落のこと。
とすれば、「悟(さと)る」という言葉にも、「早い」とか「裂ける」とか「境界」という意味が含まれているにちがいない。
素早くたちまち悟る・・・裂けるように(=「目からうろこ」のように)悟る・・・境界を越えてゆく・・・悟るとは、そういう体験であるのだろうか。
いまどきの若者は「さくっと」という言い方をよくするが、悟ることだって、「さくっと」体験されるのかもしれない。
悟ることは、人格的な高みに達することではない。さくっと「彼岸」に渡ってしまうことだ。したがって、悟るための「段階」とか「方法」などというものはない。
「一言芳談抄」という、中世の悟りを開いた念仏修行者の語録がある。その中に「聖(ひじり)は、わろきがよきなり」という発言がある。つまり、性格がいい人すなわち人格者は悟れない、ということだ。
なんとなく、わからなくもない。
悟ることは、人格の問題ではないのだ。悟りを開いた修行者だからといって、俗世間で正しく上手に生きてゆく方法を知っているわけではない。彼に、夫婦の問題や会社の人間関係の処し方を聞いてもせんないことだ。
逆にいえば、人格者ぶってえらそうなことを言ってくる人間なんか信用できない。何言ってんだろう、と思うばかりだ。
「悟り」という言葉は、俗世間の人びとのあいだからではなく、修行者の体験として生まれてきたのだろう。とすれば、それは、ひとつの身体感覚にちがいない。釈迦教団の悟りとはちょっと違う、日本列島的な「さとり」という感覚があるのかもしれない。
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仏教の修行は身体を使ってなされる。そこで悟りを開いた者が知っているのは、身体が消えてゆく体験であり、それによって死と和解し、生きてあることの命の味わいに気づいているだけである。それは、俗世間で生きてゆく方法とは何の関係もない。彼は、すでに「彼岸」に渡ってしまった人だ。
悟りを開くことを、心身脱落、と言ったりする。それが、身体が消えてゆく体験であり、そのとき意識は身体から離れている。ただ、離れているといったからといって、いわゆる幽体離脱のように、身体から離れて身体を見ているということではない。なぜなら、それ自体意識が身体に向かい、身体の物性にこだわっていることなのだから、それは心身脱落ではない。
禅の修行者は、長く座っていると自分が体もろとも光の散乱の中に投げ込まれ、この世界が光の散乱だけになっている体験をする、などという。いささか疑問がないわけでもないが、ともあれ彼らは、「身体が消えてゆく」という体験をしている。その体験が、死と和解してゆく契機になる。 
彼らが人格者であるかどうかはあやしいものだが、彼らは、われわれと違って、身体の扱い方を知っている。身体にこだわるわれわれと違って「身体を扱わないという扱い方」を知っている。
この社会は、身体が「ある」という前提のもとに成り立っている。われわれ俗世間の人間は、意識がつねに身体に張り付いている。内田氏などその典型だが、だから、肩が凝るとか、大げさに寒がるとか、ストレスで胃が痛いなどというような身体の変調を招きやすい。
死と和解するとは、たぶん、身体の扱い方の問題なのだ。だから、身体を使って修行をする。声を出して念仏を唱えることだって、つまりは「身体が消えてゆく」体験としてなされているのだろう。
一遍の「念仏踊り」も、禅のコンセプトをそのまま平明にダイナミックに庶民的にしているだけのことかもしれない。
「さとり」とは、身体が「ある」という意識の状態から「ない」という状態に、一瞬のうちに転換する体験のこと。
意識は、身体と世界を同時に認識することはできない。意識が身体の外の世界に向いていれば、意識は身体から離れている。しかしそのとき世界を「ある」と認識すれば、それ自体、身体の「ある」も含んでいる意識になっている。
世界の「ない=空間」という状態を体験するとき、初めて身体を「ある」と認識することの閉塞感から解放される。それは、一瞬の転換なのだ。さくっと悟るのだ。「さくっと」の「さく」は、そのままふるいやまとことばの「裂く」でもある。
「さとる」とは、身体が消えてゆく体験であり、それは「さくっと」体験される。