内田樹という迷惑・「消えてゆく」というタッチ

生きてゆく方法とか、悟りを開く方法とか、僕は、そういう「方法」などというものに興味はないのですよ。
どんな生き方をしようと、悟りを開こうと開くまいと、どうでもいいじゃないですか。 
誰もが「すでに生きている」のです。「方法」などというものを捜している余地もなく、「すでに生きている」のです。
人間存在は、「すでに生きている」という事実に絶望している。意識は、「生きている」という事実の上にはたらいている。なのにわれわれは、死ななければならない。「生きてゆく」ことはできない。そのことと和解できるか否かは、「方法」の問題ではない。「決意」するかしないかだ。
われわれは「生きてゆく」ことのできない身なのに、「生きてゆく」というコンセプトで生きている。それが、この社会の「制度性」である。
「生きてゆく」ことができるのなら、「方法」を見つけるという生き方も成り立つだろう。
しかし、「生きてゆく」という「未来」などない、「今ここ」があるだけだ、と思い定めたとき、どんな「方法」も無意味になり「無関心」になる。
「方法」もくそもない。「今ここ」で決意するかしないかだ。
師匠が「自分などというものはない」といえば、あれこれ詮索しないで「そうですか、わかりました」という態度を取るのが修行である。
「自分はない」という認識にたどり着く方法などない。われわれには、そんな「方法」を当てにできる「未来」の時間はないのだ。
「今ここ」で決意するしかない。
やけくそで決意するのだ。
やけくそになる、という心の動きを失って「希望」にしがみついてゆくなんて、しんどいことだ。そんなことばかりしているから、自我や苦しみが肥大化してゆく。
生まれてきてしまったことは、取り返しのつかない絶望的な事態なのだ。もう、やけくそになるしかないではないか。
「希望をもって生きてゆく」なんて、あなたは、その絶対的な事実にふたをするように自分をごまかしつづけてゆく自信があるのか。それは、けっこうしんどいことだろう。
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どんな苦しい体験をしようと、人は、死ぬ直前まで生きている。それは、すごいことだ。
たとえば、何日も飢えつづけて、あるときぱったり意識が消えて死んでしまう。途中で気絶してしまうのではない。最後の最後まで意識ははたらきつづけ、最後にはめくるめく光の輝きを体験したりする。
状況的にどんな苦しい体験をしようと、意識は最後の最後まではたらきつづける。
そんな苦しい体験をして、よく狂わずにいられるものだ、よく気絶しないでいられるものだ、と思う。
「苦しい体験をした」といって自慢してもしょうがない。苦しんだのは、状況のせいではなく、「希望」に強くしがみついていたからであり、そのぶんだけ苦しいのかもしれない。
生まれてからずっと病院のベッドで過ごし、それでも楽しい人生だったと言って死んでゆく人もいれば、ほんのささいな人生の挫折で、もう生きていられないと苦しむ人もいる。
苦しかったのは、苦しむような人格だった、というだけのことかもしれない。
苦しんだ、ということは、あまり自慢にはならない。もっと苦しい状況でも苦しまない人だっている。
苦しんで鬱病になったり、苦しさに耐え切れずに半分気絶してしまったボケ老人の人もいる。それは、状況が苦しかったというより、苦しくなってしまうような人格だったからだろう。
そして、そういう人格をつくってしまうのが、社会の「制度性」にほかならない。
その人を追い詰めたのは、「苦しい状況」があったということ以上に、その人を苦しませる社会の「制度性」が強く作用していたからだろう。
社会の制度性は、人に「希望をもって生きてゆく」ことを強いてくる。そのせいで、苦しくなってしまう。
その人は、そういう社会の制度性から逃れられない人格を持たされてしまった。
苦しい状況があったのではなく、苦しんでしまう人格があった。
やけくそになれない人格があった。絶望できない人格があった。
「希望」とか「幸せ」とか「価値」とか、そんなものに執着するから苦しまねばならない。それは、社会の制度性が執着せよと強迫してくるからだ。
内田氏のように「希望」とか「幸せ」とか「価値」に執着して生きよと強迫してくるくだらない言説がのさばっている世の中だからだ。
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意識は、根源において「身体が消えてゆく」という体験をするはたらきをもっている。そして仏教にも「消えてゆく」というテーマがある、と僕が言ったら、仏教研究のエキスパートであるあの人たちは、何をばかなことをいってやがる、という反応を返してくれた。
「ない」ということを観念的に認識する哲学として仏教があるのではない。修行を通じて「消えてゆく」という体験をするのが仏教である。「ない」のではない。「消えてゆく」のだ。そういうカタルシスを体験するのが仏教の修行である。だから、悟りのことを、「涅槃」といい、「寂滅」という・・・・・・と僕は思っている。
釈迦は、こんなことを言っている。
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 執著(しゅうじゃく)によって生存が起こる。生存せるものは苦しみを受ける。生まれたものは死ぬ。これが苦しみの起こる要因である。それゆえに諸々の賢者は、執著が消滅するがゆえに、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存に戻ることがない。
 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、この世の生存に戻ってくる。しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。 「ブッダのことば(中村元・訳)」
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「消滅」とは、「消えてゆく」ということであって、「ない」ということではない。釈迦は、別のところでも、繰り返し繰り返し「消滅」と言っている。
「物質的領域に生まれる・・・」とは、「ある」という制度的な認識にしがみついている、ということでしょう。そして「非物質的領域に住む・・・」とは、観念世界に住み着いて「ない」と認識してみたところでどうということもない、という意味のはずです。どっちにしても「消えてゆく」ということを知らなければ、「この状態からあの状態へと執着していて、輪廻を超えることがない」という。
この場合の「輪廻」は、ただ「生まれ変わる」というだけの意味ではない。たとえば、車を買ったから今度は家を買おうとか、欲望の起動に際限がない、という意味でもある。つまり、涅槃や寂滅とは無縁のところでいつまでもうろうろしているだけである、ということ。
また、こんなことも言っている。
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 有ると言われるかぎりの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好のましく愛すべく心にかなうもの・・・それらはじつに、神々ならびに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、彼らはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
 これにたいして諸々の聖者は、自己の身体を断滅することが「安楽」である、と見る。正しく見る人々のこの考えは、一切の世間の人々とは正反対である。他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の賢者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の賢者は、「安楽」であると知る。 解しがたき真理を見よ。無智なる人々はここで迷っている。
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釈迦は、ちゃんと身体が「消えてゆく」体験のことを言っている。
仏教の修行は、高い山に登るというようなことではない。こことは違う向こう岸に渡ってしまうことだ。このことを「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」とも言っている。
世俗の者は、この世とあの世(浄土)を思い描いて輪廻してゆく。しかし修行者は、それらの両方を捨て去っている、と言う。
「(身体が)消えてゆく」というタッチを持っていないから、執着=欲望にとらわれて輪廻していかなければならない。
だから、生きてゆく「方法」にこだわってしまう。
修行者に「苦しみ」がないというのではない。ただ「苦しみ」と「安楽」の位相が世俗のものとは逆転しているというだけのことであり、彼岸に渡るとはそういう体験であって、人格の高みを得るという体験ではない。そしてそれは、ある意味で人格の高みを得ることよりも、もっと困難な飛躍の体験であるのかもしれない。
いや、ただもう率直に、やけくそになればいいだけのことだ、とも言える。
しかし、「身体が消えてゆく」というタッチを持っていないと、なかなかやけくそにはなれない。
やけくそになったからといって、世俗的な幸せが得られるわけでもない。やけくそになるとは、むしろそれを放棄することなのだ。放棄して彼岸に渡ってゆくことだ。
やけくそになって、さっぱりと世俗的な幸せに「無関心」になったとき、そこから見えてくる世界がある。ときめきの体験がある。
いずれにせよ、「消えてゆく」というタッチのない仏教の解釈など、あまり信用できない。