内田樹という迷惑・「無関心」について

「欲望」の反対語は、「禁欲」ではない。「禁欲」もまた、欲望のひとつのかたちにすぎない。我慢しようとする欲望だ。
「欲望」の反対は、「無欲」、あるいは「無関心」。
仏教が、「自分というものはない(=空)」というのなら、「欲望」もまた起こりようがない。「自分はない」とは、自分を認識していない状態であり、「自分はない」と認識することではない。そういう自分を認識しようとする欲望のことではない。つまり、自分に対する「無関心」の状態が、「自分はない」という状態なのだ。
そして、自分に対する無関心の状態とは、世界に気づいている状態のことだ。気絶して意識が空っぽになっている状態のことではない。
世界に気づいているとき、自分に対する意識ははたらいていない。意識がつねに自分以外の何かに気づいているのなら、それは、「自分はない」状態を生きていることにほかならない。
仏教では、自分に執着することを「起動の縁」などといったりする。すなわち、欲望が起こること。そういう意識は、騒々しい。なんだか頭の中が活発に動いているようだが、ただの空騒ぎだという。
それに対して「覚者(悟りを開いた人)」の意識は、「自分はない」という状態で静まり返っている。静まり返りながら、しかし自分以外のものに気づく喜びにあふれている。
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そしてこのことは、現代の脳科学の知見とも一致している。
体の筋肉は、体を動かして負荷を与えるトレーニングによって、血流が活発になり、発達してゆく。
しかし脳は、高度な働きほど静まり返り、少しの血流しか起きていない。
ピアノの初心者が演奏するときの頭の中は、自分の指を思うように動かそうとして大騒動を起こしているが、熟練したプロの場合、そのとき頭の中は静まり返っている。プロにとって指は勝手に動いていて、しぜんに沸いてくる音のイメージに身を任せているだけである。だから、そのとき脳の血流は、静まり返っている。
脳の働きが高度になってゆくことは、脳の血流が静まり返ってゆくことらしい。
認知症の治療に、脳を活性化させるトレーニングというのがある。算数の足し算引き算を繰り返したり、漢字の書き取りをしたり、しかしそういう訓練にあまり効果がないことがわかってきた。
脳に負荷をかけて活性化させることは、逆効果なのだ。
そんなことをしなくても、もともと認知症の患者の脳は、すぐ物を食いたがったり徘徊したがったりというように活発に動いているのであり、活発に動いて欲望が旺盛だから高度な働きを喪失してゆくのだ。
彼らに必要な意識のタッチは、たぶん、自分に対する「無関心」なのだ。
演奏しているときのピアニストは、自分の指の動きに「無関心」である。そんなことはいちいち気にしないで演奏できなければ一流とはいえない。
徘徊老人だって、自分の足を動かして歩こうとする欲望ばかり募らせていないで、まわりの景色を楽しみながらのんびり歩いていれば、帰り道がわからなくなってしまうということもない。
自分に対する「無関心」が、自分以外のことに気づくという高度な脳の働き(=学習)を可能にする。
仏教的に言えば、「起動の縁(=欲望)」を断つ、ということだろうか。
自分とアキバ事件の若者は違う、といって自分を確認したからといって、それで救われるわけでもなんでもない。そんなふうに自分を確認することばかりしているから、自分探しの泥沼にはまってしまうのだ。そんな騒々しい自分に対する関心なんか捨てて、率直にあの若者の行動から「人間とは何か」ということを学習していけばいいだけのことだ。
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「看脚下」という禅の言葉がある。すなわち、足元を見よ、ということ。内田氏はこれを、「自分を見つめよ」という意味にとらえているらしいが、そういうことじゃないんだなあ。自意識過剰の認知症予備軍の考えることなんて、しょせんそのていどなのだ。
自分のことばかり考えていないで自分の足元を見よ、ということ、すなわち、「意識を自分と世界との境界(=脚下)に置いて、そこから世界(宇宙)に気づいていけ」ということだ。
それが、健全な脳の働きである。
騒々しく自分を見つめてばかりいるから、脳細胞が自滅していってしまうのだ。
学習するとは脳細胞の血流を沈静化させることであり、それによって脳細胞の働きが高度になってゆく。
言い換えれば、高度な脳の働きとは、脳細胞の血流を沈静化させることにある。血流を活性化させることではない。体の痛みが起きたら、鎮めようとするだろう。大騒ぎしてもっと痛みを感じようとはしない。
SMプレイのマゾヒストだって、そのときの沈静化させようとする働きに快感を覚えている。
脳は、みずからの血流を沈静化させようとする働きを持っている。だから人は、ときにより大きな苦痛の中に飛び込んでゆく。それは、苦痛を増幅させるダイナミズムではなく、苦痛を沈静化させようとするダイナミズムなのだ。そしてそれは、意識が自分から離れて世界に気づいてゆく働きにほかならない。