内田樹という迷惑・絶望したらいけないのか

「論争 若者論」(文春新書)という本を読んでみました。
十数人の識者が雑誌に発表した記事や対談を集めたものだが、共感できる発言もあった反面、なんだか内田氏のようなことを言っている人が多くて、なるほどそういう世の中かと、あらためて思わせられもしました。
共感できるものとしては、宮台真司氏は、ニートやフリーターの若者の多くは、腹をくくって落伍しながら「まったり」生きるという選択をしている。だから、仕事の生きがいや社会参加を説いてもそうかんたんには乗ってこないだろう、というようなことを言っておられた。
きっとそうだろう、と思う。
それに比べたら、三浦展氏をはじめとして、「やりがいのある仕事」がどうとかこうとか、何をくだらないことを言ってやがる、という感じです。
宮台氏はそういういわば「下流」の若者を肯定的に見ようとしているが、三浦氏は上から見下ろしてどこかばかにしている。その軽薄な態度というか思考が、あほだなあと思う。内田氏と一緒で、頭の中がお花畑でいやがる。
若者が社会参加したがらないのは、それはそれで健全な現象なのだ。
用心しないと、社会参加することによって人間がどんどん下品になっていってしまう、三浦氏のように。
こんな醜い大人ばかりの社会なのだもの、そりゃあ参加することをいやがる若者だって出てくるさ。
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それはともかくとして、この本を読んでみようと思ったのは、アキバ事件についての記事がいくつか掲載されていたからです。
その中の仲正昌樹氏の意見は、クールで良心的だと思う。重松清氏は、良心的ではあるがどこか底が浅い。もうひとりの某氏のものは、途中で読む気がなくなってしまった。
あの若者は、何かに絶望して、あのような犯行に及んだ。だから重松氏は、犯人に共感を寄せる一部の若者群にたいして、絶望を共有してはいけない、絶望してはいけない、と繰り返し力説している。
しかしそんなことを言われても、人間は絶望する生き物である。
人間は、すでに何かに絶望している。だから、幸せや宗教を求める。
幸せや宗教を求めるということじたいが、ひとつの絶望のかたちにほかならない。つまりその絶望にふたをしようとして、幸せや宗教を求める。幸せや安心を得たからといって、絶望がなくなるわけではない。ふたをしているだけなのだ。
人間は、「死」を知ってしまった。あなたは、この世界に生まれてきてしまったことを、取り返しのつかないこととして絶望する感慨はないのか。
いやきっと、誰の中にも、そういう絶望が住み着いている。人間的な愛も宗教も共同体も文明も、そこから生まれてきた。絶望を抱えているから、良くも悪くも価値意識を持ってしまう。生きることの意味や価値を問うてしまう。そしてそうやってみずからの絶望にふたをしようとすることが、この世界をややこしいものにしている。
誰もがこの絶望と和解して生きるなら、この世界はもっとシンプルで住みやすいものになっているだろう。
人間は、絶望する生き物である。この生とより深く率直に向き合っている者ほど、より深く絶望している。人間的に生きるとは、この絶望から愛やカタルシスを汲み上げてゆくことではないのか。
誰もが、生まれてきてしまったことに、どこかで絶望している。そこから、人間のいとなみのさまざまな色合いが生まれてくる。この「絶望」が、人間を人間たらしめているのだ。
釈迦は、修行者に対して、「セックスをするな、子供をつくるな」といったのだとか。こういう言い方が成り立つのは、人間が生まれてきてしまったことに対する絶望を抱えている存在だからだ。俗世間においては理不尽な要求であっても、出家の世界では、それこそが人間の根源に届いている言葉になる。
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重松氏は、アキバ事件の犯人に共感を寄せる若者に対して、こう呼びかける。。
自分とあの若者と同じであると思うべきではない。違う人間であることをちゃんと確認しよう、と。
そうだろうか。そんなすれっからしの大人のようなことを彼らが思えるだろうか。率直な若者ほど、そんなふうには思えないのではないだろうか。
人間は、人間を殺す生き物である。
それは、死のことを考えてしまう生き物だからだ。
そして、人を殺すことはそれほど難しいことではない、ということを、あの若者が教えてくれた。
われわれが人殺しにならないでこの生をまっとうできる保証などない。人を殺すことなんか、かんたんなのだ。何かのはずみで殺してしまうことは、誰にだってありうる。
ダガーナイフで刺し殺すことがあんなにかんたんなら、銃の引き金を引くことはもっとかんたんだろう。ボタン一つ押して核ミサイルを発射することなんか、夢うつつでもできる。
ナイフや包丁で人の体を突き刺すことは、われわれが考えているよりずっと抵抗感のないものらしい。コンクリートの道路を掘り返すような、そんな大げさなことじゃない。。
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あの若者は、われわれとは違う人間だからあんなことをしてしまったのではない。われわれとは違う「運命」を背負っていたからだ。
人を殺すか殺さないかは、人格の違いによるのではない。背負っている「運命」の違いによるのだ。
そしてわれわれの未来にどんな運命が待ち構えているか、誰にもわからない。
人間は、殺生をする生き物である。われわれは、そのことにもっと絶望して畏れてもいい。
必死に不殺生の戒を守って修行している僧侶だって、殺すときは殺してしまう。歴史の過去にそういうことがなかったとは言わせない。自分の意のままにならない、そういう運命をもっと絶望して畏れるべきだ。
あの若者と自分とは違う人間だと思えるなんて、その精神のどこかが病んでいるからだ。
人間に違いなどない、名前の違いがあるだけだ、と釈迦も言っている。
自分は未来永劫人殺しをしないなんて、そんな「運命」を見くびるようなことを言うものではない。
われわれは、あの若者から、人間は人殺しをする生き物であるという事実を突きつけられたのだ。
自分は違う、と思っても、違う人間も人殺しをするのだ。
そして、人殺しをしないあの愚かで強欲な政治家や金貸しが、あの若者より優れて清らかな人間だと、誰がいえるのか。
そうやって人殺しをした人間を差別することによって、この社会のさまざまな不正や醜悪さが隠蔽されてゆく。
そうやって差別しながら、自分の醜さや罪深さに鈍感になってゆく。
自分を正しく清らかな存在だと思っている人間ばかりの世の中なんて、醜悪なだけじゃないか。
悟りを開こうと、人殺しをしようと、人間に違いはないのだ。
救われて生きようと、混乱して生きようと、同じ人間の人生だし、それぞれの味わいがある。
「あなた」と「私」は違うといっても、同じだといっても、たいして変わりはない。そうやって「自分」を確認することが、はたして解決になるのか。
確認するべき「自分」はあるのか。
「自分」などというものはない、と釈迦は言っている。
「あなた」の存在に気づくという体験において、「私」は意識されていない。意識は、「あなた」と「私」を同時に認識することはできない。われわれがこの世界に気づきながら生きているということは、「自分」という意識がない状態を生きているということを意味する。世界に気づくという体験は、自分のことを忘れている体験である。
われわれは、自分を忘れて生きているのだ。そしてときどき、世界のことを忘れて自分に気づかされる。それは、自分のことにわずらわされる、という体験である。
世界に対する拒否反応が起きたときに、自分が浮かび上がってくる。世界を拒否して不愉快になっている自分に気づかされることのうっとうしさがある。そういう自分から逃れようとして、自分と他人を比べる。「自己を確立する」なんてお題目は、ようするにそういう詐術のことだ。
「あなたの存在に気づく」という体験において、「自分はない」のだ。「私」が「あなた」に気づいているとき、「私」は、「あなた」において「人間とは何か」ということを知る。そのとき、「あなた」においてしか、それを知るすべはないのだ。
われわれがアキバ事件を起こした若者について考えるとき、彼の存在を通して、人間とは何かということを知らされる。彼のことを考えながら彼の存在や人格を否定することは、人間を否定することだ。そんなふうにして「自分」に安堵したからといって、いったい人間の何がわかるというのか。その思考に、人間などどこにもいないじゃないか。