内田樹という迷惑・消えてゆく2

「消えてゆく」、と言うことなんか、かんたんなことだ。
いろんな「消えてゆく」がある。
僕が問題にしたいのは、あくまで「身体が消えてゆく」というタッチのことです。
このことは、ずっと前から言いつづけてきたことです。
煩悩が消えてゆくとか、そんなことはどうでもいい。
僕なんか、煩悩まみれの人間です。そして、そういうかたちで生きてしまっているのだから、いまさらどうこうしようという当てもない。
べつに、どんな人間になりたいという望みもない。
煩悩のない正しい人間になりたいとも思わない。自分はちゃんと死んでゆくことができるのだろうか、という不安がいっぱいで生きているから、あれこれ考えてしまう。そして、この煩悩まみれのどうしようもない人間でもちゃんと死んでゆくことができるはずだ、というところを確かめてみたいわけです。
というか、ちゃんと死んでゆけるかどうかということは、煩悩まみれであるか正しい人間であるかということとはあまり関係がないような気がする。
人はいずれ、やけくそで「ま、いいか」と決意するのですよね。そういう信憑だけは持っていたい、と思っているだけです。
しかし、油断をしていると、その信憑すらも持てなくなってしまう。
生きてあることが、ちゃんと死んでゆけるためのトレーニングになればいい、と思っている。そのためにこそ「身体が消えてゆく」という問題は僕にとって大切であり、生きてあることの味わいにもなっている。
人間はそういうタッチで生きている、と思う。
煩悩が消えてゆく、なんて、どうでもいい。
煩悩即菩提、無明即菩提、悟りの境地がどこにあるかなんて、あまり興味がない。
誰の人生もやりなおしがきかないのだし、生まれてきてしまったことがいかに絶望的な事態であるかということに驚くならば、人殺しにだって許される余地は残されている。
人を殺した人間が僕よりももっと深くそのことに絶望していたのだとすれば、僕にはもうその人間を裁くカードはない。
どんな生き方をしたっていいさ。生まれてきてしまったことは、どうしようもなく絶望的なことなんだもの。
その絶望が破滅になるか生きてあることのカタルシスになるかはもう、紙一重のことでしょう。
それはもう、「運命」の問題だと思う。
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百歩譲って「煩悩が消えてゆく」という問題があるとしても、その「消えてゆく」というかたちを考えるのは、けっしてかんたんなことじゃない。
煩悩を「捨てる」のか、それとも「失う」のか。
「捨てる」というのは、自力のはからいです。それは、身体を支配して「動かす」というタッチだ。
それに対して「失う」は、身体が勝手に動いている、というタッチにほかならない。
身体が勝手に動いているというタッチは、意識が身体に向かってはたらいていないのだから、「身体が消えてゆく」体験でもある。
演奏しているピアニストの意識は、指に向かっていない。指は勝手に動いている。そのとき意識は、頭の中に沸いてくる音のイメージとともにある。
「消えてゆく」という体験は、「失う」ことであって、「捨てる」ことではない。
「無用者の系譜」という本の著者である唐木順三氏は、その中で、「浅原才市(さいち)」という在家の真宗門徒の、次のような詩(念仏歌)を紹介してくれている。この歌で彼は、「失う」ことを「とられる」といっている。
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好いも、悪いも、みなとられ、
なんにもない。
ないが楽なよ、安気(あんぎ)なよ。
なむあみだぶつに、みなとられ、
これこそ安気な、
なむあみだぶつ
さいちや、このたびしやわせよ。
悪もとられ、自力もとられ、
疑もとられ、みなとられ、
さいちが身上(しんじょう)みなとられ、
なむあみだぶつただ貰うて、
これで、さいちが苦がないよ。
これが浄土にいぬるばかりよ。
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「身体が消えてゆく」というのは、こういうタッチのことだと思う。
彼はたしかに、「身体が消えてゆく」という体験を知っている。
「捨てる」のではない、「とられる」のだ。
身体のことを忘れている瞬間の、そういう高度な身体感覚が歌われているのだ。
中世の「空也」や「一遍」という漂泊の聖が現世の欲望を「捨てる」といったのに対して、彼はさらに徹底して「とられる」と歌った。
現代の若者が「どうして人を殺したらいけないのか」と問うとき、大人たちは、「いけない」ことのわけをけんめいに説明しようとする。
しかし「殺してはいけない」ということをちゃんと説明できた人間は、人類の歴史始まって以来、ひとりもいない。
人間は、人を殺す生き物である。そのことはもう、誰もがそういう存在であると認めるしかないのだ。
ただ、人を殺そうとする衝動、すなわち「さいち」いうところの「悪」を失ってしまう境地がある、ということだけはいえる。
意識が身体を支配することを失っている体験、心が心を支配することを失っている体験、そういうときには「殺す」というような「自力のはからい」も失われている。
この生の根源は、「身体が消えてゆく」というタッチの上に成り立っている。われわれが二本の足で歩くことも、テーブルの上のコップを取ることも、主婦が慣れ親しんだ家事をすることも、体が勝手に動いてくれている。われわれのふだんの生きるいとなみは、「身体が消えてゆく」という体験の上に成り立っているのだ。
殺していいかどうかということなどわからないが、そうした根源に遡行するなら、殺そうとする衝動も起きてこない。
上の念仏歌から、われわれはそういうことを学ぶことができるのではないだろうか。