デマゴーグ・「時代は変わる」5


キリスト教だろうと仏教だろうと、「普遍性」を持っていたから世界中に広まっていったのではない。逆に、「ドメスティックな細部」を強調することによって人の心に共鳴現象を起こして広まっていったのだ。伝説・嘘・デマゴーグ、そういうドメスティックな細部こそもっとも伝染力が強いのが人間の世界の常である。
キリスト教も仏教も、他人のうかがい知れないドメスティックな細部を上手に表現してみせたから世界中に広まっていった。
神だの奇跡だのという嘘のデマゴーグを信じてしまいやすいのは人間社会の普遍性だが、神や奇跡それ自体は、あくまで「ドメスティックな細部」にすぎない。これ以上ないというくらい「ドメスティックな細部」なのだ。
柄谷行人氏は「キリスト教や仏教などの世界宗教は共同体の<外部>で見いだされていったひとつの普遍性である」といっておられるが、そうではない。キリストだろうと釈迦だろうと、共同体の「内部」に寄生して嘘のデマゴーグを発信していったのだ。彼らが町(共同体)の外を放浪して修行したといっても、そのとき共同体の規範になっていた既成の宗教に寄生し、より伝染力のある「デマゴーグ=細部」へとつくり変えていっただけである。
「命」とか「宇宙」とか、人間が永久にわからないことをわかっていることであるかのようにいうのが宗教である。そういう「デマゴーグ=細部」の上に宗教が成り立っている。



「神」とか「霊魂」という概念は、人間がつくりだしたもっとも普遍的な「デマゴーグ=細部」である。「デマゴーグ=細部」だから、その伝染力によって世界中に広がってゆくことになった。その概念がいったいどこで生まれたかわからないが、たちまち世界中を覆っていった。
それがどこら生まれてきたかということは、さしあたってどうでもいい。無意識的には、そういうデマゴーグが伝播してくる以前からすでにそういうデマゴーグに浸されていたのであり、その「既視感」とともにデマゴーグに飛びついてゆく。それは新しい情報であると同時に、無意識のところすでに知っていた情報でもある。
福島の農産物は危険であるという情報を信じ込むのは、無意識のところですでに危険だと思っていたからだ。
キリスト教の神という概念が広まっていったのは、世界中の人が無意識のところですでに神のイメージをぼんやりと持っていたからだろう。
アンディ・ウォーホールマリリン・モンローの写真をコラージュしてポップなリトグラフをつくったことと、キリストがユダヤ教をコラージュしてキリスト教にしていったこととのあいだには共通性がある。ともに「既視感のつよいデマゴーグを発信する」という行為である。
まさにコピー&ペーストの才能。
デマゴーグは「既視感」を喚起させる。誰もその新しい情報に「なんだろう?」ととまどっていない。「その通りだ」と信じ込んでいっている。「既視感」がなければ、「信じ込む」ということはできない。
その新しい情報を「既視感」とともに受け止めてゆく。こうしてデマゴーグが広がってゆくのだし、デマゴーグを信じ込む習性は共同体の内部で熟成される。
まあ柄谷氏は、「外部とは何か」ということがわかっていない。
共同体(国家)の発生以後の人類は、わからないことをわかっているかのような「デマゴーグ=細部」を誰かが発信し、みんながそれに飛びついてゆくという習性を身につけていった。そうやって国家や宗教の「集団の結束」が強化されていった。
キリスト教だろうと仏教だろうと、普遍的な真実でもなんでもなく、ただの「デマゴーグ=細部」である。よくできた「デマゴーグ=細部」だから、世界中に広まっていったのだ。
人間社会で「デマゴーグ=細部」が伝染して広まってゆくことは普遍的な生態であるといえるが、そうした世界宗教自体に「普遍性=外部性」があるわけではない。
キリスト教も仏教も、世界中で共同体の制度性が確立していった時代に生れてきた。その共同体の制度性こそ、そうしたデマゴーグが伝播し定着してゆくことの温床になった。キリスト教も仏教も、既成の宗教を上手にコラージュして見せることによって人々の「既視感」を喚起してゆくことに成功した。
キリストも釈迦も、みんながハッとするような新しさや普遍性を提出して見せたのではない。上手に「既視感」を喚起していったのだ。
キリスト教や仏教を世界宗教たらしめているのは、その教義の「普遍性」にあるのではなく、デマゴーグの伝染力にある。
神や霊魂という概念は、人類最大のデマゴーグである。デマゴギー、というのか。
繰り返していうが、キリスト教や仏教は、共同体の「外部」で生まれてきたのではない。共同体の「内部」に寄生するように生まれてきた「デマゴーグ=細部」なのだ。
デマゴーグは、共同体の内部で発生し、内部で増殖する。
普遍的な真実よりも、デマゴーグの方がはるかに伝染力がつよい。



僕は、キリストや釈迦の伝記などを読むとき、いつだって「いったいこの人たちのアクティブな騒々しさ(俗物根性)はなんなのだろう?」と思ってきた。自分は悟ったと思いこみ、命や宇宙の構造や本質はこうなっていると説いて回る。こんな騒々しくはた迷惑な人間もいないだろう。それを「使命感」という言葉で美化する気持ちにはどうしてもなれない。
こんなアクティブで騒々しい俗物よりも、この世のどこかでひっそりと息をしている人間の方がずっと好きだ。
世の中の人は、キリストや釈迦のこの騒々しい俗物根性を、どうして肯定し美化するのだろう。
それは、誰もが身に覚えがあることだからだ。「使命感」という言葉で自分の妙にアクティブで騒々しい行動を正当化し美化してゆくということは誰もがしている。
キリストや釈迦の、この妙にアクティブで騒々しい俗物根性と行動様式が弟子に伝わり、やがて世界中に広まっていった。このデマゴーグの伝染力は大したものだ。
宗教は、自分のアクティブな騒々しさ(俗物根性)の免罪符になっている。
この世には、一般人以上に俗物根性丸出しの坊主が、いくらでもいる。
宗教をすれば共同体の「外部」に立てるというわけでもない。キリスト教も仏教も、共同体の「外部」に立つための装置であるのではない。自分の中の内部性、すなわち妙にアクティブで騒々しい俗物根性を正当化し、自分は共同体の外部に立っていると思いこむための装置なのだ。
釈迦もキリストも共同体の内部に寄生していっただけのくせに、自分は共同体の外部に立っているというポーズでデマゴーグを振りまいていった。反社会・反体制のポーズをとって見せても、その人格も思想もまるで制度的内部的だった。彼らのいうことに人間性の「自然=普遍」があるとは僕は思わない。何より、命や宇宙の構造・本質がわかったつもりになる、その「悟る」という境地が俗物根性なのだ。



普遍的な真実が世界中に広まるのではないし、世界中に広まればそれ普遍的な真実であることの証になるのでもない。
デマゴーグの方がもっと早くダイナミックに世界中に広がってゆく。
柄谷氏はいつも、世界中に広まったものが普遍的な真実だといっていた。世界性=普遍性、とかなんとか。
まあ柄谷氏でなくとも、戦後の左翼系知識人はおおむねこういう思考をしたがる。
しかし、世界中に広まったものを普遍的な真実だと信じることは、デマゴーグを真実だと信じるということなのである。
神と霊魂は、世界中に広まった最大のデマゴーグである。
デマゴーグを信じてしまうことは、人間の自然でも普遍的な人間性であるのでもない。デマゴーグは、共同体の中で生まれ、共同体の制度性に浸されてある心によって深く信じられてゆく。
人間性の自然=普遍というのなら、それは永遠に「なんだろう?」と問い続けることにあるのであって、命や宇宙の謎を解き明かしたつもりになる「悟り」など、共同体の制度性にどっぷりとつかったどうしようもない俗物根性なのだ。
今は反宗教の論理を考えているわけではないからあまりしつこくいうのは気が引けるのだが、世界宗教だからといって、共同体の「外部」で生まれてきたのではない。共同体に寄生して生まれてきたのだ。キリスト教だろうと仏教だろうと、共同体の外部で生まれ共同体の「外部」の論理を持っているのではない。神や仏や霊魂という概念は、共同体の「内部」、すなわちその制度性に浸された心(観念)から生まれてきた。
命や宇宙の本質や構造を解き明かしたつもりになる「悟る」ということ自体が、内部的制度的な観念のはたらきなのだ。
デマゴーグとは、わかるはずがない事物の本質や構造を解き明かしたと発信してゆくことである。キリストが神がどうのということと、福島のコメは食べられないと吹聴することは、同じデマゴーグである。どちらもわかるはずのない問題を「私は解き明かした」と発信してゆく行為である。宗教の悟りも福島のコメは危険だと騒ぐことも同じなのだ。勝手に説き明かしたつもりになっている。
解き明かしたつもりになることは、「既視感を持つ」という体験である。
この生や世界に対して「既視感」を持つことを「悟り」という。だから、前世がどうの死後の世界がどうのといい出す。
ひとつのことがわかることは、そのわかったという地平で三つのわからないことと出会う体験である。わかればわかるほどわからないことが増えてゆく。その人間的な無限の知の運動に、神とか霊魂という概念がとどめをさす。そうやって宗教者は悟っているのだろう。
「解き明かす」とか「悟る」ということは、この生やこの世界を「既視感」で眺めることであり、身悶えして「なんだろう?」と問うてゆくことを放棄する態度である。
人間なんか、身悶えして「なんだろう?」と問うている存在ではないのか。
この生もこの世界も、一瞬一瞬つねに生まれてはじめての出会いとして体験されている。「既視感(デジャヴ)」とは、その不安に耐えられなくなる危機的な状況において起こる、一種の病理であるのだろう。宗教者は、そういう状況に自分を追い込んで「悟り」という「既視感(デジャヴ)」を体験をしている。



「悟り」は、何も宗教体験にかぎらない。「既視感」でこの生やこの世界を眺めてしまうことは誰もがしている。
共同体の制度性は、人の心をそのようなかたちに誘導する。
したがって、宗教が共同体の「外部」で生まれることなどあり得ない。
いや、それはともかく、「既視感」でこの生やこの世界を見てしまうことは、共同体のどのような状況から生まれてくるのだろうか。
一般的には「既視感(デジャヴ)」が何かポジティブな感性のようにいわれることもよくあるが、それはあくまで病理的な心の動きであり、それこそがデマゴーグの契機にほかならない。    
生き物としてのこの生やこの世界との出会いはつねに「生まれてはじめての体験」なのであり、それを体験することができない身体的な危機において「既視感(デジャヴ)」という心の動きが起きる。
戦争が終わったとき、おそらく人々には強い「既視感」があった。それは修行僧が長く過酷な修行の果てにたどり着いた境地と似ているのだろうし、世界的にそういう気分が漂っていた。苦痛や恐怖が極限まで達したあとの平安というか思考停止状態、それが「既視感」である。そうやって修行僧は悟り、命や宇宙の本質を解き明かした気分になる。
戦後の人々は、世界的に「既視感(デジャヴ)」という言葉が好きだった。
戦後とは「既視感」の時代であり、そうした時代の象徴としてアンディ・ウォーホールポップアートが登場してきた。
ポップアートとは「既視感」であり「デマゴーグ」なのだ。
団塊世代がよろこんで飛びついていった「ビートルズ」も「平凡パンチ」も、ひとつの「デマゴーグ」だったのだ。そして彼らはそれを「生まれてはじめて出会う」対象としてではなく、かつてどこかで見たことのある「既視感」の対象として熱狂していた。
「生まれてはじめて出会う」対象であるのなら、いぶかったりとまどったりはにかんだりするのが人間の自然で、彼らにそういう心の動きはなかった。
デマゴーグ」だから、深く信じ込み熱狂してゆくのだ。
戦後は、「デマゴーグ」が社会を動かしていた。人々は、「デマゴーグ」に踊らされていた。そのムーブメントがまあ、団塊世代を中心にしてバブルの時代までは続いていったのだろう。



団塊世代は、戦争の時代が終わったことの「虚脱感¬=既視感」の中で生まれ育ってきた。彼らは、新しい時代と出会ってとまどい羞恥するという体験はしていない。新しい時代を「既視感」で眺めて熱狂していった。彼らはひとまず、新しい時代の到来を次々に体験していった世代だということになっているのだが、じつは新しい時代のその「新しい」ということを体験していないのだ。
「新しい」ことにはとまどい羞恥してゆくのが人間の自然だろう。その反応を省略していきなり熱狂してゆくことができるのは、「既視感」で眺めているからだ。
デマゴーグは、「既視感」を喚起する。
「既視感」は、身体の危機の果ての虚脱(思考停止)状態から生まれる。団塊世代は、新しい時代の「新しさ」にとまどい羞恥してゆくだけの知性や感性がなかった。つねに思考停止のまま舞い上がっていったし、新しい時代の新しい文化はつねに思考停止にさせるデマゴーグとして機能していた。
団塊世代が生まれ育っていったころ、戦争の時代が終わったことの虚脱感は世界中を覆っていた。人々の心は、新しいことの「新しさ」にとまどい羞恥してゆくだけの「精神の基礎体力」がなかった。
戦後のアメリカがリードして日本でも70年代に隆盛を極めたポップアートは、「新しいこと」という意匠をまといつつ、つねに「既視感」を喚起するデマゴーグとして機能していた。
アンディ・ウォーホールのポップな作品など、まさにデマゴーグそのものではないか。
ポップカルチャーはよく「表層的」と表現されたりするが、まあ、戦後のデリダドゥルーズなどのフランスの思想家たちも、それをまねした柄谷行人蓮実重彦などのこの国の「ニューアカ・ブーム」の知識人たちも、やたら「表層」を気取って「俺はわかっているんだぜ」といういい方ばかりしていた。
表層であろうとあるまいと、そのかんたんにわかっているつもりになってしまう「既視感」こそ戦後の病理なのだ。その病理はもう、世界中に蔓延していた。
閑話休題
いっちゃなんだけど僕は、世界中のインテリやプチインテリたちが「表層」をまさぐりながら知ったかぶりし合っているその最中からずっと、根源とは何か本質とは何か深層とは何かと身悶えしながら問い続けてきた。
閑話休題終わり)
団塊世代は、実質的には何も「新しいこと」との出会いを体験していない。つねに「既視感」で眺めてきただけである。
この生やこの世界を「既視感」で解釈してしまうこと、団塊世代は、そのように解釈してしまうしかないほどすでに精神の基礎体力を失っている世代だった。彼らは、戦争が終わって世界中が精神の基礎体力を失っている時代に生まれ育ってきた。
精神の基礎体力とは、この生やこの世界にとまどい羞恥してゆく能力のことであって、それらを「既視感」の対象にして悟ったり熱狂したりすることではない。それは、「なんだろう?」と問うてゆくことであって、団塊世代のように、わかったつもりになって知ったかぶりをしたり、思いこんだり、たやすく影響されて舞い上がってしまったりすることではない。デマゴーグに踊らされてきた世代なのだ。
それに飛びつく前に、どうして「なんだろう?」と問うことができないのか。そういうとまどいや羞恥心を喪失している世代なのだ。
精神の基礎体力が欠落しているからデマゴーグが広がるし、それに付け込んでデマゴーグを発信したがる人間が登場してくる。キリストや釈迦の登場から現在まで、人類の共同体の歴史は、ずっとこんな空騒ぎを繰り返してきた。
この生や世界を「既視感」で解釈してしまう傾向は、現在も続いている。「デマゴーグの時代」はまだ続いている。
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