拡散の能力・ネアンデルタール人と日本人・4

<余談>
一時中断した後、ずっとコメントをチェックしていなかったので、「山姥」さんや「明人」さんからコメントをもらったのに今日まで気付きませんでした。ごめんなさい。今夜、あらためて返信させていただきます。



たぶん原初の人類は、同類の中でももっとも弱い猿の集団だった。
チンパンジーの群れどうしの諍いでは、ときに凄惨な殺戮が起こる。類人猿の世界では、弱い集団はそれくらいきつく追い払われ、生存できない環境で暮らすことを余儀なくされる場合も多い。現在のチンパンジー絶滅危惧種になっているのは、そういうことも一因になっているのだろう。
原初の人類だって、ひとまず類人猿だったはずだ。しかも、弱い集団だった。
で、ジャングルを追われ追われて、サバンナに接した貧弱な森まで来てしまった。そこはもう行き止まりであり、戻ることもできない。そうして、二本の足で立ち上がった。
追い詰められて二本の足で立ち上がっていった。
直立二足歩行の起源の契機については、そういう心理的な契機も考える必要がある。そのとき人類は、いろんな意味で追い詰められていた。他の集団からの圧力や、劣悪な環境という圧力だけでなく、狭いところにひしめき合って味方の存在そのものも圧力になっていたし、もう、生きてあることそれ自体から追い詰められていたともいえる。
奥地のジャングルと違って丈の高い草や灌木の茂みも多くて立ち上がった方が行動しやすいということもあったかもしれない。
とにかく、いろんなことが重なって、立ち上がるべくして立ち上がっていったのだろう。いずれにせよ、立ち上がろうとしたのではない。立ち上がるほかないところに追い詰められていったのだ。
人間は、生きてあることそれ自体から追い詰められているから死を意識する存在になっていったのだ。そうやって自分が自分を追い詰めているし、他者が存在するということそれ自体からも追い詰められている。そしてそれは、自分もまた他者を追い詰めている存在になっているということだ。
人間の二本の足で立つ姿勢は、他者の身体がそばにあるということが心理的な壁になって安定している。人間は存在そのものにおいて追い詰められており、追い詰められることの上に生きることが成り立っている。まあそういう存在だから、知能が発達し文化が発展してきたのだ。
人間が追い詰められて存在していることは、幸福でも不幸でもない。ただ、それこそが人間であることの与件であり、避けることのできない事実なのだ。
人間は、群れの中で生きるほかない存在であると同時に、群れから離れてしまう存在でもある。そうやって人類拡散が起きてきた。
われわれの心は、他者とともにあると同時に、他者から離れてもある。



人類拡散は、ただ単純な旅をする能力によって生まれてきたのではない。集団から離れてその外に新しい集団をつくってゆくということ、その果てしない繰り返しが人類拡散になっていったのだ。
ただ旅していったのではない。新しい土地に新しい集団をつくってゆく能力によって拡散していったのだ。そしてその能力は、もっとも遠くまで拡散していたものたち、すなわち行き止まりの地にたどり着いたものたちがもっとも豊かにそなえていたのだ。
4万前の地球上において、人類発祥の地で暮らしていたアフリカ人と行き止まりの地にたどりついて集団をつくっていたネアンデルタール人とどちらが拡散する能力をより豊かにそなえていたかといえば、後者の方に決まっているのだ。ネアンデルタール人は、拡散の体験が堆積した遺伝子=歴史を持っていた。
だから、ヨーロッパでは一つの情報や遺伝子がたちまちヨーロッパじゅうに広がっていったし、アフリカでは逆に情報も遺伝子もそれぞれの地域に滞留したままボトルネック現象を起こしていった。
7〜4万年前の地球上では、ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになったネアンデルタール人の遺伝子が集落から集落へと手渡されながら世界中を覆っていった。現在の遺伝子分析のデータはそうなっているはずである。
まあ遺伝子のデータはいろんな読み方ができるし、その前に、人間の生態についてちゃんと考えておく必要がある。そのことを考えていなかったから集団的置換説の連中はかつて、アフリカを出たホモ・サピエンスが世界中を覆って先住民をすべて滅ぼしてしまった、というような愚にもつかないことを平気で主張していた。そう遠いむかしのことではない。つい最近まで、この国ではみんなしてそう合唱していたのだ。あなたたちはそのことを恥ずかしいとは思わないのか。それは、遺伝子分析の研究がまだ未発達だったからとか、そういうことじゃない。あなたたちの人間の生態についての思考が薄っぺらだったからだ。誰のせいでもない。
僕は、8年前からずっと「そんなことはありえない」といってきた。そして、4万年前にアフリカからヨーロッパにやってきたホモ・サピエンスが少数派の先住民であるネアンデルタールを吸収していったという今いわれている説も、きっといずれ成り立たなくなるだろうと思っている。
あのころヨーロッパまでやってきたアフリカのホモ・サピエンスなど一人もいない。ネアンデルタール人どうしでホモ・サピエンスの遺伝子を手渡していっただけなのだ。この考えがまちがいだと思う人はどうかいってきていただきたい。僕は、人間の生態に照らし合わせてそうとしか考えられない。そして人類学の常識がいずれそのように落ち着いていったとき、あなたたちのアホさ加減がさらにあからさまになるのだ。そのときになってもまだあなたたちは、「遺伝子学のデータが……」といっていいわけするのか。
集団的置換説など一種の都市伝説であり、そういうデマゴーグを他愛なく信じ込んでしまうのが現代人の生態なのだ。生まれ変わりとか死後の世界とか霊魂とか、そういうデマゴーグを他愛なく信じ込んでしまうように。
「アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに乗りこんでいった」と本気で信じられるのなら、人間ほんらいの生態に即してそこのところをちゃんと説明していただきたいものだ。
本気で人間とは何かと問うてゆけばそんなことが成り立たないことくらいすぐわかりそうなものなのに、彼らにはどうしてもそういうことにしてしまいたいやみがたい欲望があるらしい。裸一貫で何が真実か問うてゆく能力のない彼らは、世界の趨勢にキャッチアップしたところからしか考えられないし、キャッチアップしておけば安心だという思考習性を持っている。
彼らがもし反論してくるとすれば、たとえばストリンガーや遺伝子学者がこういっているから、というような話の筋道になるのだろうが、それではだめだ、裸一貫の自分なって考えてみろよ、と僕はいいたい。
あなたたちはストリンガーや一部の遺伝子学者の発するデマゴーグを信じているかもしれないが、それは僕の知ったことではない。
裸一貫になることと、自分がいちばんえらいと思うこととは違う。人のいうことをコピペしている人間にかぎって、自分が世界でいちばんえらくなったような錯覚に陥りがちなのだ。マルクスをコピペしながらマルクスになった気になってゆくという心理のメカニズムがある。デマゴーグを信じやすい人間ほど、コピペしたがるし、かんたんに自分がえらい気になってゆく。
裸一貫になることは「王様は裸だ」と叫ぶ子供になることであって、世界でいちばんえらい人間になった気になることではない。


普通に考えたら、4万年前の原始時代に「アフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに乗りこんでいった」ということなどあるはずがないじゃないか。
たとえば、4万年の中近東の先住民はほとんどがネアンデルタール的な形質になっていたという考古学の発掘証拠がある。彼らはこれを、「ヨーロッパのネアンデルタール人が寒さに耐えかねて南下してきたからだ」と解釈しているのだが、それでいてそのころに「南方種のアフリカのホモ・サピエンスが北上していった」という。ネアンデルタールが耐えられない寒さにアフリカ人が耐えられるはずがないじゃないか。ネアンデルタールは野蛮でアフリカ人は文化が発達していたからそれを克服することができたんだってさ。冗談じゃない。4万年前の原始時代の文化などたかがしれている。その極寒の地に住み着くことができるかどうかはほとんど体力勝負だったはずであり、そこに長く住み着いてきた伝統の作法や知恵を持っているかどうかだったに決まっているじゃないか。
とにかく4万年前の氷河期は中近東の先住民でさえネアンデルタール的な形質を持っていないと生きられなかったのであり、その形質とともに中近東からヨーロッパにかけての先住民はアフリカのホモ・サピエンスの遺伝子が混じっても生きられる文化の洗練を獲得していったということだ。つまり、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになっただけだから北ヨーロッパでも暮らせたのであり、3万年前のヨーロッパ人がアフリカの純粋ホモ・サピエンスだったという遺伝子の証拠などないのである。
現代人の遺伝子が90パーセント以上ホモ・サピエンス的だといっても、4万年前に9対1の割合で両者が混血していったという証拠になるわけでも、ネアンデルタール人の器質が数パーセントしか残っていないという証拠になるのでもない。
現在のアフリカ以外の地域の人類は、器質的にも文化的にも、ネアンデルタール人から多くを引き継いでいる。
現代文明の基礎はネアンデルタール人のところにある。われわれ現代人は、ネアンデルタール人の遺産を食いつないでいる。人類が共同体を持ったことも学問や芸術を発展させたことも、ほとんどはネアンデルタール人の遺産なのだ。
ネアンデルタール人ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアに変わっていっただけだという可能性がないわけではない」といっている遺伝子学者はいるのだが、集団的置換説の連中はその論理で人間の生態を説明できるだけの思考力も想像力もない。そういう思考力や想像力がないから集団的置換説が信じられるのだろう。



現在の文化・文明の基礎は、人類発祥の地ではなく、人類拡散の行き止まりの地から生まれてきた。
アフリカのサバンナで移動生活しているということは、行き止まりがない、ということである。行き止まりがなければ新しい展開は生まれてこない。新しい展開が生まれてくるという体験をしたことがなければ、生まれ育った土地や自分が属している集団から離れようとはしないし、新しい景色や新しく出会った人にときめくということもない。まあ人間ならそこまで鈍感にはならないとしても、そういう暮らしをしている人々が世界の隅々まで旅をしてゆくということはありえない。
氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたものたちとは、その直前まで拡散してきた歴史を持っているものたちだったに決まっている。つまり、体の中に新しい展開にときめくという歴史が堆積しているものたちだ。
そういう歴史の時間を体験していないアフリカ人がいきなり北ヨーロッパに移住してゆくということはありえない。
人類が最初に氷河期の北ヨーロッパにたどり着いたのはおよそ50万年前。そのころはまだ猿のような体毛を持っていたはずである。そうでなければ、そのころの文化水準でその地に住み着いてゆくことはできない。遺伝学的にも、人類が体毛を失ったのはそう遠い過去ではないということになっている。
しかし4万年前は、たぶん地球上のすべての人類が体毛を失っていた。体毛を失っていれば、50万年前よりももっと寒いところでなんか暮らしたくないという気持ちは強いはずである。体毛を持たないアフリカ人が、氷河期の北ヨーロッパに移住してゆこうとするだろうか。しかも彼らのホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子はゆっくり成長してゆくという体質をもたらし、それはつまり気候の温暖なアフリカでしか生きてゆけない体質になっていたということを意味する。そのような体質で氷河期の北ヨーロッパに置かれたら、乳幼児の段階で次々に死んでゆく。
そのゆっくり成長して長生きするという体質をもたらす遺伝子は、文化的にも体質的にもすでに北ヨーロッパの環境に順応しているネアンデルタール人が取り込むことによってはじめてその地で機能することができた。
ネアンデルタール人だって、その遺伝子を取り込んでしまったことによって一時的には絶滅の危機に瀕していったが、それを文化的な成熟によってようやく克服していった。それが、3万年前以降のクロマニヨンの文化である。
行き止まりの地にたどり着いたものたちは、新しい展開が生まれることの醍醐味を歴史的伝統的によく知っている。それによってヨーロッパ人(ネアンデルタール人クロマニヨン人)は、3万年前以降にやってきた最終氷河期の絶滅と背中合わせの激烈な寒さをくぐり抜けていった。そしてその体験が、現代のヨーロッパ人のあくなき探究心の伝統になっているのだろう。まあ彼らは、それゆえに平気で人を追い詰めてしまうところがあるし、追い詰められてもへこたれないという、そういう人間関係になっているのだが、それがまた彼らの団結や連携の源泉にもなっている。
現在のアフリカ人に、そういう伝統はあるだろうか。良くも悪くも、彼らにそういう伝統はない。彼らの人と人の関係はもっとあっさりしているし、強い団結や連携の伝統もない。彼らが氷河期明けの文明史においてむざむざとヨーロッパや中近東のコーカソイドによる奴隷狩りの餌食になってしまったのは、団結や連携の能力がなかったことにもよる。彼らの社会では、不思議なくらい奴隷狩りが近くにやってきているという情報が伝わらなかったし、みんなで軍隊を組織して抵抗するということもしなかった。
人類の団結や連携の能力は、住みにくい地住みにくい地へと拡散していった長い歴史によって育ってきた。その能力が、住みにくい地に住み着かせていった。
人類発祥の地にとどまり続けてきたアフリカ人にその能力が希薄なのはしょうがないことだが、そんなアフリカ人がいきなり極寒の北ヨーロッパに移住して住み着いていったという仮説も、いくらなんでも荒唐無稽過ぎる。
ぐるぐると移動生活を続けて行き止まりを知らないということは、新しい展開を知らないということである。
それに対して拡散していった人類は、そのつどそこで行き止まりを体験していたのであり、行き止まりを体験したから新しい展開が生まれ、さらに拡散していった。その果てしない繰り返しの果てに氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場し、その伝統の上に現在のヨーロッパ人の文化やメンタリティが成り立っているのだ。
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