定住文化・ネアンデルタール人と日本人・3


なんのかのといっても、人間にとってのユートピアは生まれ育った地なのだ。
三つ子の魂百まで、というように、幼児体験がその人の一生の趣味嗜好や性格を支配している。たいていの人にとってのいちばんの好物は、子供のときに美味いと思った食べ物だ。
人間が国という単位を持って国ごとに言葉が違うということは、まあそういうことかもしれない。
人間の意識は「今ここ」でこの生やこの世界を完結させてしまうはたらきを持っている。それはつまり、「今ここ」が意識のはたらきを決定しているのであって、先験的で普遍的な意識なはたらきなどというものはない、ということだ。
普遍的なユートピアなどというものは存在しない。生まれ育った地がユートピアなのだ。人間は、どんな住みにくい土地でも「住めば都」で住み着いてしまう。
「今ここ」でこの生やこの世界を完結させてしまうから、生まれ育った地がユートピアになるし、どこにでも移住してゆける。これはたぶん、「意識」のはたらきの根源の問題とかかわっている。
ものを食っているときに、ものを食いたいという目的意識ははたらいていない。すでに食っているのだから、はたらきようがない。ものを食いたいという衝動でものを食うことは、原理的にいって不可能である。ものを食うことは、ものを食いたいという衝動から解放されている状態である。われわれは、ものを食いたいという目的意識でものを食っているのではない。
ではどのような意識でものを食っているかといえばいろいろややこしいメカニズムがあるのだろうが、とにかくそのとき「今ここ」に憑依しているのだ。ものを食いたいというのは「今ここ」の外に出たいという意識のはたらきであり、それによって「今ここ」のものを食っている状態を維持することはできない。
「今ここ」に憑依してゆくことがこの生を成り立たせている。その意識によって人類は定住し、そして拡散していった。この「今ここ」に憑依してゆくという意識のメカニズムをちゃんと考えておかないと、歴史の真実には迫れない。人間の欲望や目的意識だけで歴史が語れるわけではない。



「定住」という概念をどのようにとらえるかは人さまざまで一概にはいえないのだろうが、一般的には農業をはじめたことが人類史の定住の起源だといわれている。
しかし、山の中に小さな集落をつくって毎日狩りをして暮らしていても、定住は定住だろう。
縄文時代の女たちは、山の中に小集落をつくって定住し、採集生活をいとなんでいた。彼らは農業をまったく知らなかったわけではないが、基本的には農業の上に成り立った社会ではなかった。
「定住=農業」などという下部構造決定論的な安直な図式で考えるべきではない。
定住とは、そこに住み着くということだ。人類史においてそれは、行き止まりの地まで拡散していって生まれてきた。いいかえれば、定住できなかったから拡散していったのだ。そして、どんなに住みにくいところでも住み着いてゆくことができたから、地球の果てまで拡散していった。
定住することができたから拡散してゆくことができたのであり、拡散してゆくことによってより豊かな定住の能力が養われていった。
「ジモピー」は拡散してゆく能力がないと思うのは間違いで、ジモピーの方がどこにでも拡散してどこにでも住み着いてゆける能力を持っている。それは「今ここ」に憑依してゆく心の動きを持っているからだ。
定住の能力がそのまま拡散の能力であり、拡散の能力がそのまま定住の能力なのだ。
集団的置換説では、アフリカのホモ・サピエンスは移動生活をしていたから拡散してゆく能力があったというのだが、そうではない、移動生活をしていたからこそ拡散してゆく能力を持たず、その後の文明世界の歴史から置き去りにされてしまったのだ。
一般的なことでいえば、女は男ほどふらふらしていないが、だからこそどんなところでも住み着いてゆく能力を持っている。たとえば夫婦で外国に移住したとき、一般的には女の方が先にその地になじんでゆき、男のように「日本に帰りたい」などとめそめそしたことはいわない。



原始人が移住してゆくことができたのは、先住民にもてなされ助けてもらえたからだ。そして先住民もまた、知らないものどうしがときめき合ってゆくというメンタリティを持っていたからこそ、そこに新しい定住集落をつくってゆくことができた。
このことが何を意味するかというと、人類拡散が起きていた原始時代においては戦争とか侵略とか知らないものどうしが無視し合って一方を滅ぼしてしまうようなことはなかった、ということだ。彼らは、知らないものに対しても無邪気にときめいていった。そういうメンタリティを持っていなかったら人類拡散は起きなかったし、拡散すればするほどそのメンタリティが豊かになっていった。拡散すればするほど住みにくい土地になっていったが、拡散すればするほどときめき合うメンタリティが豊かになって住み着いていった。
日本人やエスキモーのように行き止まりの地で異民族の侵略を受けていない民族は、見知らぬ人間に他愛なくときめいてゆく傾向がある。エスキモーの土地など誰も侵略しようと思わないし、日本列島は海に守られてきた。人類が地球の隅々まで拡散していったころの原始人はみな、そのような他愛なく他者にときめいてゆくメンタリティを持っていた。
四万年前の北ヨーロッパだって、誰も好きこのんで移住しようとしない極寒の地だったのであり、したがってネアンデルタール人もまた、日本人やエスキモーのような無邪気で他愛ないところのある民族だったはずである。それが、原始的な心性だったのだ。
移住してくる異民族というか旅人なんかめったにいなかったし、移住してくれば大歓迎でもてなしていったのだ。おそらく北ヨーロッパネアンデルタール社会も日本列島の縄文社会も、そのようなメンタリティの上に成り立っていた。
20世紀のアマゾン奥地のインディオだって、文化人類学のフィールドワークにやってきたレヴィ=ストロースに何人もの女を差し出してきたという話がある。
原始時代においては、旅というよりも、複数の既存の集落からこぼれ出てきたものたちがその外側に新しい集落をつくってゆくというかたちで拡散していった。原始時代の拡散する能力とは、侵略する能力ではなく、人と人がときめき合って新しい集落をつくってゆく能力にあった。このメンタリティが原始時代の歴史をつくっていた。それは、何かを目指す目的意識ではなく、生きてあることの「嘆き」を共有しながら「今ここ」でときめき合ってゆく心の動きであり、「今ここ」でこの生もこの世界も完結している、という体験だった。これが、原始時代の心なのだ。



氷河期の極寒の地で女子供を連れて一年中旅をしながら暮らすということは不可能である。縄文時代の山間地だって同じで、足の丈夫な男は可能でも、女子供は定住していた。そして定住すれば、旅人をもてなす文化が生まれ育ってくる。
四万年前のアフリカ人は、移動生活をしていたといってもよその部族のエリアにはけっして入ってゆかなかった。だから、部族間で血や言葉などの文化が混じり合うことはほとんどなかった。移動生活をしていると、住みにくさに対する耐久力が育たない。住みにくくなればすぐ移動してゆくのが彼らの流儀であり、住みにくさを住み着いてゆくための連携の文化を持っていない。
アフリカだけではない。中近東だって、そのころは緑豊かな楽天地で、わざわざ北ヨーロッパに移住してゆく理由はなかった。そして住みよいところだから、既得権益を守ろうとして、入ってくる人間を排除しようとするし、その住みよい地域を奪おうとする動きも生まれてくる。まあそうしたダイナミズムによって、氷河期明けのエジプト・メソポタミアからいち早く国家文明が生まれてきた。この地域は住みよい楽天地だったからこそ、抗争の文化の萌芽こそあれ、旅をしてゆく文化も旅人をもてなす文化もあまり育たなかった。
つまり、四万年前の拡散してゆくアフリカ人がこの地域をどのように通過することができたか、という問題がある。おそらく、この地域を席巻して通り過ぎてゆくことはできなかったはずである。
この地域は伝統的に、アフリカを蹂躙することはあってもアフリカから蹂躙されることはなかった。アフリカ人が追い払うことができる相手ではなかったはずである。この地域にだって、4万年前にはすでに先住民はいたのだ。そしてこの先住民に、北ヨーロッパに移住してゆく理由はなかった。移住してゆく民族なら、氷河期明けのエジプト・メソポタミア文明は生まれてこなかった。彼らはこの地にとどまり、氷河期明けには一挙に人口爆発を起こしていった。
氷河期明けにいち早くエジプト・メソポタミア文明が生まれてきたということは、氷河期にこの地域から住みにくいヨーロッパに移住してゆく人間などいなかったことを意味する。
何はともあれ、4万年前の氷河期のヨーロッパに先住民以上の数の旅人がどっと押し寄せてくるなんて、そんな机上の計算がそのまま歴史の真実になるはずがないじゃないか。
そんな机上の計算が成り立つような状況など何もなかったのだ。
だいいち原始時代にそんな抗争や闘争があったと決めつけること自体、思考がどうしようもなく薄っぺらである証拠なのだ。そこでネアンデルタール人ホモ・サピエンスの抗争が起きてそれを契機に文化の爆発的な進化が起きた、つまり、それまでのネアンデルタールの文化はどうしようもなく貧弱だったと彼らはいいたいらしいのだが、あのころの楽器とか装飾品とかの芸術文化はネアンデルタール人の時代からすでにじわじわ花開いてきていたという考古学の証拠が最近になって次々と提出されている。



4万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住していってその地域を席巻していったということなどあるはずがないのだ。おまえら、ほんとにアホ過ぎるよ。そして彼らは、その競争・抗争が文化の爆発的な発展をうながしたという。
ほんとにいやになってしまう。どうしてそんな卑しい発想しかできないのか。
『人類の起源を探る』という人類学フリークたちが集まってつくっているブログがある。僕はこのブログに議論がしたくて何度か「それは違うでしょう」という趣旨の長い文章のコメントを入れたことがある。でも、誰も相手をしてくれなかった。みんな知ったかぶりして偉そうにいっているのだから答えてくれるのだろうと思ったが、そうではなかった。おまえのいうことなど話にならん、ということか。それとも、趣味で楽しくやっているのだから邪魔しないでくれ、ということか。まあ、こんな連中を相手にしてもしょうがない、という教訓を得ただけだった。
そのブログで最近、4万年前のヨーロッパでホモ・サピエンスによる文化の爆発的な発展が生まれたのはネアンデルタール人との闘争の結果による、というようなことをいっている。この「人類は戦争とともに文化を発達させてきた」という解釈は、集団的置換説の研究者がよくいっていることでもあり、世界的に否定しきれていない歴史観でもある。
しかしそうではない。断じてそうではないのだ。みんな人類史において言葉をはじめとする文化が生まれてきた契機のことをちゃんと考えていない。
氷河期の人類の文化を進化させた契機は、人と人がときめき合って定住してゆき、ときめき合って旅人をもてなしていったことにある。そのとき、旅に疲れて凍えているものも、住みにくい地に住み着いているものも、ともにその生きてあることの「嘆き」を共有しながらときめき合い、豊かに語り合う関係を生み出していった。まず、そこからはじまったのだ。
人間は、基本的に、生きてあること「嘆き」を基礎に持っている存在だから文化というものを生み出していったのだ。そこのところを、あの連中は何もわかっていない。
あえて図式的にいえば、「文明=共同体の制度」は闘争によって進化し、「文化=芸術・学問」は人と人がときめき合う関係から生まれ育ってくる、となる。そのあたりのところは、混同するべきではない。
戦争によって医学や自動車や船や飛行機の製造技術が進歩し、原爆も発明された。しかしそれが実現したのはそのための基礎的な学問があったからであり、そこにいたるまでの学問の長い歴史があった。それは、人が思考し語り合ってきた歴史なのだ。そういう人類史における無数の人と人の関係の蓄積の上に文化的な成果が生まれてくるのであり、それは、闘争の歴史ではない、あくまでときめき合い語り合ってきた歴史なのだ。ひとりのノーベル賞科学者の成果だって、それが生まれるまでの無数の語り合いがあるのだ。人類の文化の発展は、戦争によって生まれてきたのではない。
原始時代に戦争などなかったのであり、それでも文化の発展があった。戦争などなかったからこそ、文化の発展が起きてきたのだ。文化の発展の契機は、生きてあることの「嘆き」を共有しながら人と人がときめき合い語り合ってきたことにある。人類の言葉だって、そのようにして生まれてきた。
もしも原始人が戦争などしていたら、人類拡散など起きなかったし、文化の発展もなかった。
戦争=抗争によって文化が爆発的に進化しただなんて、ちゃんちゃらおかしい。考えることの程度が低すぎるよ。薄っぺらすぎるよ。短絡的すぎるよ。
そういえば知ったかぶりできる世の中であるかぎり、彼らはそう考えることをやめない。もともと彼らに真実とは何かと問う問題意識は希薄である。どう考えどういえば知ったかぶりできるかという「競争・闘争」の方法論があるだけだ。現在はそういう人間がたくさんいる社会であるらしい。しかし、そんなところから文化のイノベーションが生まれてくるのではない。戦争・闘争・競争よりも、人と人がときめき合い語り合う関係の方がずっと豊かにイノベーションの契機を持っている。まあ、そんな衝動が旺盛なことが、一流の学者や芸術家や魅力的な人間になれる資質でもあるまい。
人間としてときめき合い語り合おうとする衝動が学者や芸術家や魅力的な人間を生み出すのだ。いいかえれば、そういう関係に対する飢餓感が学問や芸術や豊かな人と人の関係を生み出すということだ。
人類の文化の発展をうながしたのはそういう関係に対する飢餓感であって、闘争意識や目的意識ではない。人間は、先験的に生きてあることに対する「嘆き」を抱えて存在しており、そこからそういう飢餓感が育ってくる。
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