「議論」・ネアンデルタール人と日本人・2


議論するというのは、どういうことだろうか。
僕は、インテリの人生を歩んできたわけではないから、そういう体験がほとんどない。
しかし、今にして思う。ひとりで考えたって限界があるし、直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のことを議論できる相手がいたらなあ、と。
議論することによって新しい展開が生まれてくる。ひとりで考えたり思い悩んだりすることよりも、誰かと語り合ったり議論したりすることのほうが、ずっと新しい展開の可能性がある。
前回、原始時代は行き止まりの地から文化の先進性が生まれてきたと書いたのは、まあそういうことで、そこでこそ活発な議論や語らいが生まれてくるからだ。
人類史の文化の発展は、そのようにして起きてきた。知能が進化したからとか、そういうことではない。たとえば出会いをときめき合うとか別れを惜しみかなしみ合うとか、そういう人と人の関係の豊かさが文化の発展を生み出したのだ。そしてそういう豊かさは、行き止まりの地にあった。
4万年前、人類発祥の地のアフリカのホモ・サピエンスと行き止まりの地のネアンデルタール人とどちらが高度な文化を持っていたか。知能とか脳みそのでき具合なんかほとんど同じだった。違いは、生活の作法の文化にあった。



集団的置換説のリーダーであるイギリスのC・ストリンガーは、最初、石器文化がアフリカの方が進んでいたからアフリカのホモ・サピエンスの知能の方が発達していたと盛んに力説していて、この国のネアンデルタール研究者もみんな引きずられていた。まあ世界中が引きずられていたともいえる傾向があったからそれも仕方ないのかもしれないが、このストリンガーという研究者はほんとうに単細胞のアホな人類学オタクである。
べつにアフリカの方が進んでいたのではない、狩りの仕方が違っただけのこと。そのころアフリカの石器の方が繊細だったのは、投げ槍などの方法で小動物の狩りをしていたからだ。アフリカのサバンナでは大型肉食獣がたくさんいるから、少人数でしか行動できないし、大型獣を仕留めてもその場で解体して持ち帰るという余裕などなかった。そんなことをしていても、すぐに肉食獣に嗅ぎつけられて横取りされてしまう。
一方北ヨーロッパの極寒の地ではマンモスやシカなどの大型草食獣がたくさんいたし、肉食獣も少なかったからその場で解体する余裕があった。そしてネアンデルタール人は、そういう大型草食獣に対して集団で肉弾戦を挑んで仕留めていた。だから、繊細でやわな石器では間に合わなかった。それでもあとの時代になれば狩りの方法なども発達してきて繊細なかたちの石器の方がかえって具合がいいようになってきて、そのときは自分たちでそういう形に改良していった。
まあそれだけのことだが、ストリンガーは、石器のかたちが繊細だったからアフリカのホモ・サピエンスの方が知能が進化していたとか、知能が進化していたからネアンデルタール人を滅ぼしてしまう能力があったと、盛んに吹聴していた。この研究者には、人類が拡散してゆくことや住みにくい極寒の地に住み着いてゆくことがどういうことかという思考力も想像力もまるで欠落していた。ほんとにアホの人類学オタクなのだ。



まあこの国にもそんな脳みその程度が低い人類学オタクがうようよいて、2ちゃんねるなどでは、アフリカ人がヨーロッパ大陸に進出していってネアンデルタールの女を手篭めにしていたとか、そりゃあ白人の女の方がいいもんねとか、そんなくだらないことをピーチクパーチク騒いでいる。アホばっかり。いちばん上の大学教授がそのレベルだから下の方もそうなってしまうのだ。
アフリカからやってきたホモ・サピエンスの男たちがわがもの顔でネアンデルタールの女を捕まえてきて黒人女をかまうことをしなくなってゆきネアンデルタールの女に子供を産ませることばかりしていたら、それによってホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子はすっかり消えてなくなってしまうのである。
もしも両者が混血して白人的なネアンデルタールの女が好まれたのなら、現在のヨーロッパ人のほとんどはネアンデルタール人ミトコンドリア遺伝子のキャリアになっていなければならない。
混血するということすらなかったのだ。ただもうおそらく北アフリカネアンデルタールの集落がどこかでホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまい、それがやがてヨーロッパのネアンデルタール人の世界に広まっていっただけなのだ。ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアのネアンデルタール人の女がネアンデルタール人の男とセックスをして子供を産めば、子供はみんなホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアなのである。10人産んでも10人ともそうなのだ。
混血しなかったからこそ、ネアンデルタール人の全員がホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになったのであって、もしもアフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパじゅうを席巻していったのなら、かえってネアンデルタール人ミトコンドリア遺伝子が残ってゆくことになるのだ。ネアンデルタールの女とホモ・サピエンスの男がセックスをすれば、ネアンデルタールミトコンドリア遺伝子のキャリアの子供が生まれる。強姦して産ませたってネアンデルタールのキャリアの子供になるのだ。そしてそういうハイブリッドの子供の方が生命力があって成人して異性のパートナーを獲得する機会に恵まれるのなら、もうネアンデルタールミトコンドリア遺伝子のキャリアばかりになってしまう。
遺伝子的には、多数派のホモ・サピエンスが少数派のネアンデルタール人を吸収してゆくということはそうかんたんには起きないのである。
強姦しまくっても、そのままホモ・サピエンスの子供が生まれるわけではない。みんなハイブリッドなのだ。しかもネアンデルタールミトコンドリア遺伝子のキャリアの。
仮にアフリカのホモ・サピエンスネアンデルタールを吸収していったとして、現在の白人がネアンデルタール的な白い肌の人ばかりだということは、ネアンデルタールミトコンドリア遺伝子のキャリアのハイブリッドばかりが生き残ってきたということを意味する。そうではないだろう。彼らがみなホモ・サピエンスミトコンドリアの遺伝子のキャリアだということは、そのとき混血などなかった、ということを意味するのだ。
そのときネアンデルタールの男にはもうセックスするチャンスは与えられなかった、としよう。ネアンデルタールの男がホモ・サピエンスの女とセックスをして子供が生まれるということはほとんどなかった。であれば、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスに変わってゆくということはほとんどない。そしてネアンデルタールの女がホモ。サピエンスとのあいだの子供を産めば、みんなネアンデルタールミトコンドリア遺伝子のキャリアになる。
アフリカ人がヨーロッパに乗りこんできて席巻していったのなら、ネアンデルタール人の女をほっとくということはしないだろう。しかしそれは、ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子を喪失するということなのである。
これはもう、世界中そうなのだ。アフリカを出たホモ・サピエンスの集団が先住民を吸収して世界中ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアにしてしまうということはありえない。ありえるとしたら、先住民を全員地上から抹殺してしまったときだけである。現在の遺伝子分析のデータはそうなっているか?なっていないではないか。
強姦したって、自分の遺伝子を失って先住民のミトコンドリア遺伝子が残っていってしまうのだ。
ストリンガーも人類学のプロなら、「ホモ・サピエンスが吸収した」などという前にそのへんのところも考えるべきだろう。しかし彼には、そんな「人間とは何か?」と問う歴史的な視点はまるでない。ただの脳みその薄っぺらなオタクなのだ。
原初の人類が地球の隅々まで拡散してゆくとはどういうことだったのか……人間社会の文化が発展するとはどういうことか……そういうことを、世界中の人類学者がどれほどきちんと踏まえて人類史を考えているだろうか。
集団的置換説の研究者なんかみんなアホだし、多地域進化説のミルフォード・ウォルボフだって、変に守りに入って相手を説得しようとするばかりで「おまえらそんなことばかり考えて人間として恥ずかしくないのか?」と挑んでゆく態度が少々足りないのではないのかと思える。そういえるだけの根拠をちゃんと持っていない、というか、ウオルボフだって、少しくらいはアフリカ人がヨーロッパに移住していったといっている。
そうじゃないのだ。そのころヨーロッパに移住していったアフリカ人など一人もいない。ネアンデルタール人全体がホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアになってゆくためには、たった一人の女がその遺伝子のキャリアになるだけで十分なのだ。



チームに参加しているからひとりの考えに縛られ流されて自由な発想ができなくなってしまうということもあれば、チームで語り合い議論しているから新しい展開が生まれてくるということもある。
現在のこの国は、新しい展開が生まれてくるような空気になっているだろうか。
この人と議論してもしょうがない、自分の意見にしがみついているだけで何をいっても通じない、という相手はいるものだ。そういう人間が社会のリーダーや組織のリーダーになっていたら、新しい展開など生まれてくるはずがない。
世の中には、何をいっても通じない、という相手がいる。頭が悪いというのではなく、我が身の安全を脅かす論理は、たとえ真実でも決して受け入れようとはしない。
たとえば、人生の途上で死の病を宣告された人は、「私がどんな悪いことをしたのか」といって悩み怒る。そんなことをいっても、悪いことをしない人は必ず長生きするという決まりなどない。何がなんでもこれは何かのまちがいだと思いこもうとする。だからそれを受け入れるまでにずいぶん時間がかかる。そんなの、自分がそう思いたいだけじゃないかといっても、絶対聞かない。
世の中には、自分が思いたい方向に理屈をつくってしまって変更できなくなっている人がいる。そういう人に何をいっても通じないし、向こうだって命がけで反論してくる。第三者から見たらそれじゃあ話のつじつまが合わないじゃないかという論理でも、大切なのは真実ではなく自分の身を守ることだから全然ひるまないし、堂々と主張してくる。そうして最後には、何が真実かと考えることよりも、相手を卑しめ辱めて身動きできなくさせることをけんめいに画策してくる。
僕は、このブログをやってきて、そういう人と何人かと出会った。自分自身が議論の相手を欲しがっているから、ときにそういう事態を招いてしまう。まあ、自業自得かもしれない。
よそのブログに出向いていって、それは違うでしょう、といっても、こちらは趣味でやっているだけだから余計なことをいわないでくれ、と居直られたことも何回かあった。
趣味でやっているのならそんないい加減なことを書いてもいいのかという話だが、まあ、つまるところ話が通じないのだ。
議論の相手を探すのは、ほんとに難しい。
直立二足歩行の起源とネアンデルタールのことなら、相手が東大教授だろうと最初から白旗を上げるつもりはないし、こちらは趣味だからといって逃げるつもりもない。この国のネアンデルタール研究者なんか、そんなのおかしいじゃないか、ということばかり言っていると思うし、いったいこの国に僕より本気でネアンデルタールのことを考えている人間がいるのかという思いもないわけではない。
いいたかないが、ネアンデルタール人のことなら、今すぐ2000枚のレポートを出そうと思えば出せる。もっとも、僕の書くものはあくまで感想文であって研究論文ではないのだが。
とにかく、反論のある人は、どうかいってきていただきたい。
しかし、おまえのいうことはどの本にも載っていないから無効だといわれても、それでは話にならない。こっちは、世界中の誰もいっていないところを考えようとしてこのブログを書いているのだから。



本に書いてあることだから安心してものがいえる……人間は長く生きているとそのようになってゆくのだろうか。良くも悪くも、それが定住してゆくということだ。既視感……明日も今日と同じ風景の中に自分がいると確信できることの安心。それは、明日も生きてあると確信できる安心でもある。
明日も生きてあることがそんな素晴らしいことか。
素晴らしいことだと思うわけでもないが、死ぬのは怖い。
この世の中には「規範」というものがあって、それにしたがって生きてゆけとわれわれは飼いならされてゆく。本に書いてあることは、ひとつの「規範」である。本に書いてあることは、自分を正義や真実の側に立たせてくれる。そうやって必死に本に書いてあることを追いかけ、正義や真実を手に入れた気になってゆく。あなたたちがそういとなみの成果をどんなに披瀝して見せても、僕は尊敬なんかしない。僕が知りたいのは、その先のことだ。その先のことを知るために議論をしようじゃないかといっているのだ。
本に書いてあることを復唱しているだけのくせに、まるで自分で考えたことであるかのようなつもりになっている。
彼らが「アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに移住していった」と思い込んでいるのは、それが世界の趨勢であり規範だと思えるからであって、それが真実であるかどうかということなどじつは問うていない。彼らは、本に書いていないことを問うような脳みそのはたらきはすでに喪失している。
原始人が女子供を連れた大集団で道なき道を旅していったということが信じられるのは、そういうことにしてしまいたいという欲望に引きずられているだけであって、彼らは、頭の中を空っぽにして問いなおすという作法をすでに喪失してしまっている。
世界中の人間の思考が、すでにこの世界の規範に飼いならされてしまっている。現代人ほどデマゴーグや迷信に支配されやすい人種は、過去の歴史には存在しなかった。われわれは、たくさんのまぎれの多い情報に囲まれて暮らしている。いちいち真実は何かとか本質は何かと問うていたら置き去りにされてしまう。さっさとそれらの情報を取り込んでしまわないと生きてゆけない。「なに・なぜ?」と問うているよりも、さっさと取り込んでしまった方が生きるのに都合がいいのだ。そういう世の中の構造になっている。
頭の中をそういう世の中の構造に飼いならされながら、「原始人が女子供を連れた大集団で道なき道を旅していった」というデマゴーグを信じ込んでゆく。彼らには「ほんとにそんなことが可能だろうか?」という問いをすでに喪失している。そんなことを問う前にさっさとその情報を取り込んでしまったやつが勝ちなのだ。
現代人の意識は、おそろしくデマゴーグや迷信に左右されやすい。まあそれによって世界の経済が動いているわけだが、そうやってむやみに情報を取り込んでゆくようになった分だけ、ものを感じたり考えたりする能力が後退している。
ものを感じたり考えたりする能力がないから、「集団的置換説」にしてやられるのだ。彼らは、ろくにものを感じたり考えたりする能力はないくせに、情報を取り込む能力と知ったかぶりすることだけはいっちょまえだからかなわない。
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