空騒ぎのきっかけ「時代は変わる」4


人と人の心が共鳴現象を起こして集団ヒステリーの騒ぎになることはいつの時代にもある。現在でも、ツイッターフェイスブックなどのネット情報が火元になって社会的に大きな騒ぎに発展したりする。つまり、時代に踊らされやすい心がそういう現象を生み出す。なんとも騒々しいことだ。
まあいつの時代にもどの社会にも「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人間は一定数いるもので、彼らが登場して煽りたてることによって社会的な騒ぎの共鳴現象になってゆく。
騒ぎはまず、部分的な空間の、部分的な情報からはじまる。
細部に焦点を合わせた情報ほど人の心に信じられやすいわけで、その強く信じ込む心が共鳴現象を起こしてひとつの集団の騒ぎ(ヒステリー)になってゆく。
まず、「信じ込む」という心の動きの共鳴現象が起きる。
細部に焦点を合わせた情報ほど信じ込まれやすい。
細部にこだわって全体の構造や本質を見ることができないときに共鳴現象が起きやすい。
たとえば、政府や電力会社が原発の危険を隠していたといっても、それと現在の放射能被害の実態を知ることとは、またべつの問題である。政府や電力会社が隠してきたからといって、それが日本中危険だとか東京にいても危険だという証拠にはならない。なのに、政府や電力会社のそうした悪事をあげつらうだけで日本中危険だという話になってゆくのが「共鳴現象」であり「集団ヒステリー」である。
原発運動のオピニオンリーダーを務めた柄谷行人氏は、「この半世紀、世界中の国家権力が放射能の危険の隠ぺい工作をしてきた」というようなことを盛んにいっておられた。
「世界」という言葉を持ち出せば「全体」の本質や構造をちゃんと把握している言説になりうるつもりでいるのが、この人をはじめとする戦後の左翼系知識人の思考の薄っぺらなところである。「普遍性」という言葉を吐くことがこの人の口癖だったが、「普遍性」ということが何もわかっていない人だった。
たとえばこの人は、キリスト教は世界中に広まったから「普遍性」を持っている、というのだが、そうではないのだ。ある観念が共鳴現象を起こして世界中に広がってゆくことは人間の普遍的な生態であるといえるが、普遍的なものが世界中に広がるわけではないのである。共鳴現象を起こして広まってゆくのは、いつだって「細部」に焦点を当てることによってより鮮明に信じられてゆくあくまでドメスティックな観念にすぎない。
キリストが奇跡を起こした……これほどのドメスティックな「細部」もないだろう。なにしろそれは現実のはざまの異次元の空間で起きたことなのだから、細部よりももっと細部なのだ。しかもそれは、その場に居合わせた人しか知らない。そして、その場に居合わせた人はすでにこの世にいないのだから、ますますドメスティックな「細部」である。
ドメスティックな「細部」だからこそ、そこに意識の焦点が結ばれたときにますます鮮明に信じられてゆく。
嘘のデマゴーグほど世界中を駆け巡りやすい、という普遍性がある。嘘のデマゴーグは、この世のもっともドメスティックな「細部」である。
世界宗教は「普遍性」を持っているから世界中に広まるだなんて、まったくどうしようもなく短絡的な思考である。柄谷行人の脳みそなんてその程度のものだ。
世界中の人間が放射能を怖がっているといっても、そんな個人的な心の世界など、しょせんは現在の放射能問題の「細部」に過ぎないし、個人的な心の世界というドメスティックな細部だからこそ世界中に広まっていった。
われわれは、現在の放射能汚染の正確な実態が知りたい。そのことこそが問題の普遍的な本質であり、怖いと思うのも怖くないと思うのも人それぞれの勝手であり、そんなことは「ドメスティックな細部」の問題にすぎない。
政府や電力会社が悪いといっても、それが福島産の農産物はすべて食べられないという証明にも食べられるという証明にもならないだろう。政府や電力会社が悪いという「細部」をあげつらいながら反原発を叫んでいったことによって、福島に対する風評被害が拡大してしまった。そんな「細部」を問題の本質にしてしまったことによって、何もかもが見えなくなってさまざまな風評が拡大していったのだ。風評被害が拡大するような環境をつくったのは原発反対運動であるともいえる。政府や電力会社が悪いという彼らのその「反体制」の言説が、問題の本質を隠してしまった。



「反体制」なんて、「世界」を語っているように見えて、じつは「細部」をいじくるばかりでまるで全体の構造や本質が見えていない、まったくいじましいだけの観念や感性にすぎない。
「反体制」の全共闘運動に熱中した団塊世代だって、たぶん同世代の数パーセントにすぎない。「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人たちの言動や行動はどうしても目立ってしまうから何かそれが時代の大きなうねりのように見えてしまうが、冷ややかに眺めていたサイレント・マジョリティもたくさんいた。
それでもまあ、世代的な傾向として誰の中にも「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」ところはたしかにあった。運動に参加しない「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」団塊世代の若者もたくさんいた。
そしてあのころほどでないにせよ現在もそんな「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」人たちは一定数いて、ツイッターなどの風評空騒ぎを起こしている。
しかし、やっぱりいつの時代にも、どうしてそんなにも簡単に共鳴してしまうのだろう、まるでホラーだな、と冷ややかに眺めている人もいないわけではない。
サイレント・マジョリティはいつの時代にもいるが、いつの時代も置き去りにされて、いないかのように扱われてしまう。
AKBの時代だといっても、AKBなんかどうでもいいと思っている人たちはさらにたくさんいる。そういう部分的な共鳴現象をあげつらって時代の構造や本質のように考えてしまうと間違うことも多い。いつの時代も部分的な共鳴現象は起きるし、AKBの時代だと決めつけてしまう前に、その大合唱する「共鳴現象=集団ヒステリー」とは何かという問題がある。
原発反対派が「放射能は怖い」と大合唱したことによって放射能被害の実態が見えなくなってしまい、そのあげくにさまざまな風評被害が生まれてきた。
AKBの時代だと大合唱してしまうことによって、時代の全体の何かが見えなくなってしまう。
「細部」に執着しまさぐってばかりいると、問題の全体的な構造や本質が見えなくなってしまう。
「風評=共鳴現象=集団ヒステリー」とは、「細部」に執着しまさぐることらしい。



お気楽なことをいわせていただけるなら、人間は「共感」し合う生き物であって、「共鳴」し合うのではない。根源的には、たがいに説得し合ってわかり合うのではなく、たがいに相手の心を問い合い想像し合っているだけだ。
説得し説得される関係なんて、不自然なのだ。
根源的には、人は誰も説得しないし、誰からも説得されない。ただもう、わかるはずもない他者の心を問い、想像し合っているだけであり、そこから「共感」ということが起きてくる。
つまり、自分の心を物差しにして他者の心を分析するのではなく、想像した他者の心を物差しにして自分の心に気づいてゆく。それを「共感」という。つまり、他者の心が生起したことに反応して自分の心が生起してくる。他者より先に生起する自分の心などないのだ。
僕はアホで人間のクズだから、先験的な自分や自分の心など持っていない。他人に引きずられて心や自分が生起しているだけだ。他人の心と共鳴できるような先験的な心も自分も持ち合わせていない。アホだから、心も自分も空っぽです。
原始人もきっとアホだから、先験的な心や自分など持っていなかったのだろう。
根源的には、心(意識)は「生起する」のであって、先験的に存在するのではない。
世界は、心=自分よりも先に存在し、心=自分が生起する契機になっている。
世界、すなわち環境世界と身体、この関係がはじめに存在し、そこから心(意識)が生起する。したがって環境世界と身体との関係が消滅すれば(=死ねば)、心(意識)も生起しない。身体が土になってもまだ霊魂=意識が残るなんて、たぶん嘘だ。身体が身体でなくなればもう、心(意識)は生起しない。
心(意識)は環境世界と身体との関係から生起するのであって、環境世界と身体との関係より先に生成している心(意識)などというものはない。環境世界と身体の関係、すなわち「時代」より先に生成している心=自分などというものはない、ということだ。
時代が人間=心をつくるのであって、人間=心が時代をつくるのではない。
人間=心が時代をつくるなんてそんな不自然なことは起きないし、そんな不自然なことを信じているなんて不自然な思考だ。そしてそんな不自然な思考(観念)によって、共鳴現象による集団ヒステリーという不自然な事態が起きる。
たとえば、東日本大震災で体育館に閉じ込められた被災民が集団ヒステリーを起して騒ぎだすのは不自然なことで、それが人間の本性でも原始性でもない。
原始人は、集団ヒステリーなど起こさない。
集団ヒステリーは、人間が共同体(国家)という制度を持ったことによって生まれてきた。それは、人間の原始性ではない。
あのとき集団ヒステリーを起さなかった被災民の心は不自然だったのか?
騒ぎ出すきっかけの不満はいくらでも転がっていた。行政の側の対応は、どちらかといえばお粗末だった。
それでも集団ヒステリーは起きなかった。あの状況はとても原始的だったし、被災民の心も原始的で自然なものだった。



全共闘運動は反社会・反体制の運動ということになっているし、そのころから70年代にかけてのさまざまなポップカルチャーはそうしたコンセプトのカウンターカルチャーとして分析されることが多い。
ポップカルチャーは「反体制」というより、人を扇動し共鳴現象起こさせる表現として追及されていったのだろう。
テレビコマーシャルの「やめられない止まらない、カッパエビセン」というフレーズは、いったん聞いてしまうと、頭にこびりついて離れなくなってしまう。あれはまぎれもなく高度で優秀なポップカルチャーだったが、反体制でもなんでもないだろう。
反社会・反体制を集団で騒ぐことは、人間の自然か。
「反体制」「階級闘争」が合言葉のあのころなら、体育館に閉じ込められた被災民は、行政にあれこれ要求して大騒ぎしていたのだろうか。全共闘運動のメンタリティなら、当然そうなるにちがいない。
団塊世代は、人と人がかんたんに共鳴現象を起こしてダイナミックな集団の結束が生まれることを信じていた。その「反体制の階級闘争」は、今どきの新大久保あたりで起きている「ヘイトスピーチのデモ」と紙一重であり、集団ヒステリーを組織するということにおいて同じだともいえる。
そもそも「流行」とか「ブーム」ということ自体が、人の心がかんたんに共鳴して起こる集団ヒステリーみたいなものだろう。
良い集団ヒステリーと悪い集団ヒステリーがあって、集団ヒステリーを起こすのが人の心の自然なのか?
人の心がかんたんに共鳴現象を起こす戦後社会の傾向はいまだに残っている。それが戦後復興のダイナミズムであったわけで、その余韻がいまだに続いている。
というか、世界中どこでもそうした集団ヒステリーは起きている。共同体の制度性とはそれを組織するシステムであり、それによって共同体の結束は強化される。
では、人間の集団はそれがないと成り立たないのか。集団ヒステリーを起こすのが人間の自然なのか。
人間は、集団ヒステリーを良いか悪いかで裁き選別しながら集団を運営してゆくしかないのだろうか。
まあ、人が共同体の中に置かれてあるかぎり、いくぶんかの集団ヒステリーが起こることは避けられないのだろう。そうして良い集団ヒステリーと悪い集団ヒステリーを選別し続けていかないといけないのだろうか?
全共闘運動はつねに集団ヒステリーを組織しようとしていたし、この国の戦後社会はうまく集団ヒステリーを組織してゆくことによってバブル経済の繁栄を達成した。「放射能は怖い」と大合唱した原発反対運動は、その「頭でっかちで妙にアクティブで騒々しい」行動習性を蒸し返す運動だったのかもしれない。そういう人種が時代をつくっているわけではないが、悪目立ちするそういう人種が時代をつくっているように見えてしまうところがやっかいだ。
たしかに現在の人間の世界では、うまく集団ヒステリーを組織したところが勝ちだとか、誰もが集団ヒステリーに参加したがっているというような傾向になっている。
しかし、そこにしか人と人が関係し集団をつくっていることの根拠はないというわけでもあるまい。
集団ヒステリーを静めてしまう集団の力もはたらいている。この場合、「時代の力」と言い換えてもよい。「時代のなりゆき」というか。
人間が時代をつくるのではない。そんなことばかりいっていると、「時代のなりゆき」という全体の構造や本質が見えなくなってしまう。
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