祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」10

辻が花について考えることは、日本列島の歴史に根ざす「かみ」について考えることでもある。
人類は、いつどこで「神」を発見したのか。
これは、大問題だ。
神は、神の姿に似せて人をつくりたもうた……というよくいわれていることにたいして僕が「そんなことあるものか」といったら、宗教に造詣が深いある人から「そうじゃないんだよ、HIROMITIさん。これこそが人間にとっての根源的な神のイメージなんだよ」と、えらそげにいわれたことがある。
僕はど素人だから、「ああそうですか」というしかなかったのだけれど、本心では、「ああこの人もただの俗物だな」と思った。
この人は、人生のある時期「もしかしたら自分は神の子であるキリスト(あるいは釈迦)の再来かもしれない」と思ったことがあるのだそうな。なるほどそういう人にとっては、そういうことでないと自分の人生や人格のつじつまが合わないのだろう。それだけのことだろうが、俗物であればあるほど、たやすくそんな気分に浸されてしまう。たぶん、いまだに「もしかしたら」と思っている自分を肯定したいのだろう。
もちろん僕はそれ以上の俗物にちがいないが、「もしかしたら」なんて思ったことは一度もないし、思えるような柄でもない。
「もしかしたら」と思う人間の気が知れない。そんなことは、この社会の制度性に取り込まれた俗物の観念が考えることだ。
それだけのことなのに、何か特別な宗教体験をしたようなつもりでいる。
原初の人類は、人間に似せて神をイメージしたのではない。ただ、この世界の不思議に驚き畏れときめいただけだ。とにもかくにもそこから「神」のイメージが生まれ、そのあと「共同体(国家)」の発展とともに、人間に似せて神をイメージするようになってきた、というだけのことだ。
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そのとき僕が考えていたのは、キリスト教だか仏教だか知らないが、そういう共同体の宗教が説く「神・仏」のことじゃない。そういう「世界宗教」などといういかがわしいものが生まれる以前の、たとえば2万年前のヨーロッパのクロマニヨンとか1万年前の縄文人とかが、この世界の不思議と出会ったときに気づいた「かみ」のことだ。
宗教の「神」ではなく、宗教が生まれてくる「契機」となったプリミティブな神体験は、そんな俗っぽく擬人化したものではなかったはずだ。
人間がそれを、「かみ」と名づけたのだ。そのとき人間は、人間に似ているものを「かみ」と名づけたのではない。
人間ではないものの「力」に対して驚き畏れときめき、「かみ」と名づけたのだ。
人間ではないというそのことに驚き畏れときめいたのだ。
自他の区別を深くする体験、つまり、人類の歴史のたぶん数万年前のある時期、大きな群れを形成して暮らすようになったことによって、自然(世界)や他者に対する「疎外感」が深くなってきて、「神」という概念が生まれ、「自分」という意識を強く持つようになってきた、ということだ。
大きな群れをつくれば、共生の喜びも盛り上がるが、その共生そのもののうっとうしさも高じてきたり、人と人の対立があからさまになって第三者を排除しようとすることなども起きてくるわけで、共生の喜びとは逆の「疎外感」という心模様もなおいっそう深くなってくる。
まあひとまずそんなふうにして人類は、「パンドラの箱」を開けてしまったのだ。
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ともあれ、はじめにそうした「かみ」に気づき、そののちに神に近づこうとしていったのが、人間の歴史なのだ。
たとえば、原始人にとって、鳥が空を飛ぶことに対する感慨は、「人間ではない」ことに対して驚き畏れときめくことだったはずだ。
鳥を「かみ」だと思ったのではない。「鳥が空を飛ぶこと」を「かみ」だと思ったのだ。その「力=本質」を、「かみ」と思ったのだ。なぜならそれは、原始人にとって、人間には起こり得ないことだったからだ。
このへんのところが、いともかんたんに神の子になったつもりになれる俗物にはわからないらしい。
そこから数万年経って、人間も空を飛ぶようになり、なんだか神か神の子になったかのようなつもりの勘違いした人間が続々と現れてくる時代になった。
そういう連中にとっては、「神は、みずからの姿に似せて人間をつくりたもうた」ということに、どうしてもしておきたいらしい。
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やまとことばの「かみ」は「かむ(噛む)」という動詞の体言。
肉の味は、かみ締めなければわからない。「かむ」とは、本質に気づくこと。すなわち、「かみ」とは、「本質」、すなわちこの世界の不思議(=本質)に驚き畏れときめくこと。「かみ」ということばに、それ以上の意味はない。
鳥を神だと思ったのではない。鳥が空を飛ぶことを神だと思った。すなわち、鳥の中に神が宿っている、と思った。すなわち、この世界の現象が起きる「力」を「神」と呼んだ。
したがって、原始人(縄文人)にとっての「神」は「存在」ではない。「非存在」でもない。
あとの時代になって、その「神」に「物性」を与えるようにして「神はみずからの姿に似せて人間をつくりたもうた」といわれるようになってきた。つまりキリスト教の「神」は物性を持っているのだから、「存在する」ことになる。
しかし今のところ僕は、そういう「神」や「仏」には、興味はない。あとの時代のそんな俗っぽい「神」や「仏」のことではなく、起源としての「かみ」について考えたいのだ。
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英語では「ゴッド」という。
濁音をとれば、やまとことばの「こと」になる。
「こと」とは、現象が起きること。その「こと」が起きる不思議に大いに驚き畏れときめけば、「ゴッド」という音声になって口からこぼれ出てくるのだろうか。
どうやら、ヨーロッパ大陸「ゴッド」も日本列島の「かみ」も、起源においてはそう大差はないらしい。
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はじめに、世界に対する「疎外感」を深くする体験があった。そうして「自分」という意識に目覚めた。これがたぶん、「神の起源」だ。
ただ、そこから「自分」という意識を止揚してゆくか消去してゆくかで、「世界」や「神」のイメージもずいぶん違ったものになってくる。
前者が大陸で、後者が日本列島。
日本列島では、「自分」という意識を持つことはひとつの「嘆き」であり、その意識をどう処理してゆくかというかたちで、世界観・生命観が形成されていった。
日本列島では、この世界の「物性」を消去してゆくかたちで「世界」が語られ、「かみ」が語られていった。
この世界の「物性」を止揚してゆけば、「神は、みずからの姿に似せて人をつくりたもうた」という話になる。
それはたとえば、花を見て、寄り合わさった花びらがつくる「空間」を見るのか、花びらそのもの色やかたちの「物性」を見るかのちがいにある。
現代人はもう、ほとんど誰もが花びらの「物性」を見てしまっている。
しかし古代の日本列島の住民は、花びらがつくる「空間」を見ていた。
「はな」の「は」は、「はかない」の「は」、「空間」の語義。
「な」は、「なれる」「なじむ」の「な」、「親愛」の語義。
「花(はな)」とは、「愛らしい空間」という意味であり、これが語源だ。
花びらのことをいっているのではない。だから、花びらのことは、わざわざ「花びら」と断らねばならないのだ。
西洋には「花」と「花びら」をわざわざ分けていう習慣などないだろう。彼らにとって花は、花びらに決まっている。
また、「花が咲く」という。
「さく」は「裂く」、つぼみが裂けることを「咲く」という。つぼみが裂けて、愛らしい「空間」がつくられてゆくことを「花が咲く」という。
西洋では、「ブルーム」という。「成長」の語義。「ブルーム」なんて、いかにも成長して大きくなってゆく感じだ。彼らにとって「花が咲く」ことは、つぼみの中の花びらが成長して大きくなることをいうらしい。
われわれ現代人もすでにそんな世界観に染められてしまっているが、古代の日本列島の住民は、そんなふうには見ていなかった。
それはあくまで「空間」の愛らしさ・あでやかさが出現することだった。
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「木」は、枝にたくさんの葉っぱが群がっている植物のこと。
しかし古代人は、それを、葉っぱと葉っぱのあいだにたくさんのあやなす「空間」がつくられ、それ自体でひとつの「世界」を形成している、と思って眺めていた。だから、「木」は「気」でもある。「気」とは、この世界そのものである空気のこと。
やまとことばの「き」は、「世界が完結していること」をあらわすことばなのだ。だから「昔、男ありき」というように、過去完了の動詞の語尾にもなっている。
日本列島の古代人は、この世界を「空間」としてとらえていた。
鳥の身体は、神が宿っている空間である、と思っていた。「物体」だとは思っていなかった。少なくともそれを眺めているぶんには、あくまでたんなる「画像」でありからっぽの「空間」なのだ。
捕まえて触ってみて、はじめてそれは「物体」になる。
眺めているぶんには、世界はすべて「空間」なのだ。そのことは、非科学的な見方でもなんでもないだろう。むしろ、より正確に科学的だともいえる。(つづく)