祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」9

友達や家族や恋人は、大切ですか。
僕にはよくわからない。
ときどき、全部どうでもいい、と思うことがある。
人間の心の根源は、そんなものを大切に思うようにはできていないのではないだろうか、と思ったりする。
人間の心は、失うことを受け入れることができるようにできている。
だから、目の前の人や世界にときめくことができるのだし、余計なことを忘れてしまうこともできるのではないだろうか。
「失う」ということを受け入れられなければ、われわれはたちまち発狂してしまうにちがいない。
目の前にいたときにはあんなにもいとしいと思えた人が、別れてしまえばもう、なにやら遠い存在に思えてきたりする。そのへんが、遠距離恋愛の難しいところかもしれない。
「遠くの親戚より近くの他人」ともいう。
目の前にいない人間のことは忘れてしまいがちになるのは、人間の自然な感情なのではないだろうか。
友達だろうと家族だろうと恋人だろうと、目の前にいなければ忘れてしまいそうになる。
ある人がいっていた、「自分が今生きている」という感慨は、希望であると同時に絶望でもある、人間はそうやってパンドラの箱を開けてしまった、と。
そうかもしれない。
人間は、たいていのことは忘れてしまう。
人間にとって、ほんとに大切な人というのは、いるのだろうか。
めしを食うことだろうと掃除をすることだろうと息をすることだろうと、人生に大切なことなんて、あるのだろうか。
「自分は今生きている」ということ、そのことだって、たしかかどうかわからないのだけれど、とりあえずそういう気分になって人生をやりくりしてゆくのが、人間の業というものらしい。
いったい何が、「自分は今生きている」と教えてくるのだろう。こういう気分だって、何かに対する反応であって、自分の中から勝手に湧き上がってくるものではないにちがいない。
心は、何かに反応してしまう。それだけはどうやらたしからしく、僕は、自分の中から湧き上がるものなんか信じない。
世界が存在するということ、それもまた確かめようもないことだけれど、そういうことに対する「反応」がなければ、「自分は今生きている」と思うこともない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の心は、「自分は今ここに生きている」と思うようにできている。
この問題には、ややこしい「あや」が隠されている。このまま考えてゆくと、「神」という問題に突き当たる。
デカルト先生は、このことが人間の実存を約束している、とおっしゃった。
そうだろうか。
ただ、人間は「自分は今ここを生きている」という意識を持ってしまった、というだけのことではないだろうか。
それが人を救い、滅ぼしもしている。
ほかの動物が人間ほど死を怖がらないのも、生きてあることに対するしみじみとしたよろこびが薄いのも、人間ほどこの意識に耽溺していないからだろう。
人間は、そうやって「パンドラの箱」を開けてしまった。
この意識があるから人間は、猿よりももっと世界や他者にときめくことができている。
いや、世界や他者にときめいてしまったから、この意識を引き受けねばならなくなった、というべきだろうか。
そうやって「パンドラの箱」が開けられた。
つまり、「神」に気づいてしまった。
「神に気づく」とは、世界や他者に深く驚き畏れときめいてしまった、という体験であり、それによって人は、「自分は今ここを生きている」という感慨を抱く存在になってしまった、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分は今ここに生きている」と気づいたなら、貧乏にもさびしさにも耐えられる。しかしその瞬間から人は、みずからの身体の「物性」に悩まされ、死を怖れなければならない存在になった。
「自分は今ここに生きている」と気づくことは「世界=神」に気づくことであり、すなわちそれによって人は、世界と自分との隔絶(疎外)に気づいた、ということだ。
「原始人は自然と一体化していた」などとかんたんにいってもらっては困る。そんな単純なことではないのだ。われわれ人間の歴史は、自然(世界)からの「疎外」に気づき、「自分は今ここに生きている」という感慨を持ってしまったところから始まっているのであり、そうやって「パンドラの箱」を開けてしまったのだ。
「自分は今ここに生きている」と気づいたのは、その前に「今ここに世界がある」と深く気づいてしまったからだ。「意識」は、そういうかたちでしか「自分」に気づくことはできない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「意識」とは、「世界」に気づく装置である。
生きものの生存は、「世界」に気づくことによって成り立っている。
げんみつにいえば、「自分は今ここに生きている」と気づいているときの「自分」もまた、「意識」にとっての「世界」に過ぎない。
げんみつな意味での「意識」にとっての「自分」などというものはないのだ。
また、めしをくったり掃除をしたり息をしたりすることに耽溺している近頃のいわゆる「生活者」にしても、そうやってありもしない「自分」をまさぐっているだけのことだ。
そんなふうに「自分」をまさぐっても、無駄なことだ。
そんなものは、ただのプチ・ブル根性だ。
そんなことで、生きてあることの「実存」に届くわけではない。
「実存」などというものはない、というのではない。それに届くことは不可能である、ということである。その不可能性に気づかないのうてんきな連中が、「生活者」を気取っているだけのこと。
不可能である……というところまで錘を垂らせるかどうかが、「実存」の問題なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
飯を食ったり掃除をしたりする自分をまさぐったって無駄なことだ。そんなことは、どうでもいいことだ。しょうがなくすればいいだけのこと。そんなことが生きることの修行だなんて思うな。しょうがなくするほかないのが、生きることの修行なのだ。しなくても生きていられるのなら、しなくてもいいのだ。
せっぱつまって生きているものは、そんなことに耽溺しない。そんなことに耽溺しなくても、生きることが完結している。耽溺するものなど何もないというそのことに耽溺して生きている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「掃除ができない女」が増えている、という。彼女の生は、掃除をする以前のところで完結している。彼女は、部屋がきれいになるであろう「未来」など信じていない。「今ここ」で、すでに彼女の生が完結してしまっている。
彼女は、誰よりも、「今ここ」を無条件に受け入れてしまっている。
彼女は、すでに「自分は今ここに生きている」という感慨を持ってしまっている。だから、いまさら掃除などして「自分」をまさぐる必要がないのだ。
彼女は「パンドラの箱」を開けてしまった。彼女こそ人類の歴史の「センチネル(歩哨)」であり、「殉教者」なのだ。
「お掃除をすることは人類のセンチネルになることです」と「生活者」を気取っている内田樹先生、あなたじゃない。
彼女は、「私はセンチネルだ」と、そんなふうに自分をまさぐってなんかいない。そんな自覚など、何もない。彼女の生は、「今ここに世界がある」「今ここにあなたがいる」というところで完結してしまっている。部屋がきれいになるであろう「未来」などまさぐらなくても、彼女の生はすでに完結してしまっている。そんなことをわざわざしなくても、すでに「自分は今ここに生きている」という感慨に深く浸されてしまっている。
上の空でいながら、すでに「自分は今ここに生きている」という感慨に浸されてしまっている。
「神に気づく」とは、たぶんそういう体験なのだ。彼女の生は「今ここに世界がある」と気づくことだけで完結してしまっている。「今ここに世界がある」と気づくことだけで、すでに「自分は今ここに生きている」という感慨に浸されてしまっている。
そういう体験として、人類は「神」に気づいたのだ。
早い話が、未来や過去の自分や世界をまさぐっても、「今ここ」の自分や世界に気づくはずがない。
人間の心はときどき、「今ここ」の目の前に存在しない人や世界のことをすべて忘れて、「今ここ」にだけ浸されてしまうことがある。彼女は、すでにそういう「神に気づく」体験をしてしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は、小学校を卒業するまでに二度、長い期間家族と離れて暮らすということをしたが、さびしいと思ったことなど一度もない。そんなことを思う前に、すでに目の前に「世界」はあらわれていたのだもの。
目の前にいない人のことは、忘れてしまう。なぜなら、いつだって「世界」は目の前にあらわれているからだ。人間の心は、目の前の世界を肯定してしまうようにできている。
たとえ親兄弟でも、目の前にいなければ、忘れてゆく。僕の母親は、孤児である。だから、二十歳の僕が、死んでしまった父親のことを想って悲しむということをしなくても、何もいわなかった。彼女も、泣かなかった。葬式の参列者のためにいちおう泣くふりはして見せたが、目の前にいない人を想うことはできない、ということを僕よりもよく知っていた。
目の前にいない人のことを忘れてしまうから、目の前にいる人にときめくことができる。
人間は、「失う」という体験を受け入れることができる。孤児は、そういうことをよく知っている。
僕は、小学校に入るかはいらないかの時に、すでに「失う」ということと和解する体験をしてしまった。だから、親の死を悲しむことのできない人間になってしまったのだろう。しかしそれを、自分の不幸とも悲劇とも思っていない。人間の心の動きなんてじつはそんなものだろう、と思うばかりだ。
「失う」という体験を受け入れることができなければ、われわれは死んでゆくこともできなくなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目の前に世界が存在することがどれほど圧倒的なことかということを、原始人はわれわれよりもずっとよく知っていた。世界の不思議に驚き畏れときめけば、「自分」は空っぽになっている。そういう心の動きが「神」に気づいていったのであって、神が人間のために何をしてくれるかとか、そうやって神と取引する気持ちで「神」に気づいていったのではない。そんなのは、言語矛盾だ。神という概念を持ったから、神と取引する考えも生まれてきただけのことだ。
なんだか今日は、中途半端なことばかり書いてしまっている。いや、いつものことか。
いつかもっと整理して「神の起源」について書けるときがくるかもしれない。
とにかく原始人は、この世界のすべてのものは「神の入れもの」である、と気づいた。
あの鳥は神である、と思ったのではない。
あの鳥の中に神が宿っている、と思った。そうでなければ、空を飛べるはずがない。
鳥の体の中に肉や骨が詰まっていることは、捕まえてその体を切り刻んでみるまでは、わからない。見たかぎりにおいては、その体の中は、空っぽの「空間」でしかない。
みずからの身体を「空間」として感じている状態においては、鳥の身体もまた「空間」としてしか見えない。
人間は、先験的に、みずからの身体を「空間」として認識する意識を持っている。これが、身体意識の基本なのだ。
つまり人間は、この世界のすべてのものは「神の入れもの」としての「空間」である、と認識してしまうような意識のはたらきを先験的に備えている。
空っぽなのだから、動いたり空を飛んだりできるはずがない。できるのは、「神」が宿っているからだ。
この世界の根源の「力」のようなもの、それを、「神」と呼んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界の不思議に驚き畏れときめいて呆けてしまわないことには、「自分は今ここにいる」という感慨は下りてこない。
「自分」などというものはない、という体験の中にしか「自分は今ここにいる」という感慨はない。
「生活者」を気取って「自分」なんかまさぐっても無駄なことさ。
人間には、飯を食うことも掃除をすることも息をすることも忘れて呆けてしまう瞬間がある。そこから「神」という概念が生まれてきた。
「生活者」を気取って「自分は今ここに生きている」という感慨に耽っている連中なんぞに「神の起源」を語られたくはない。
原初の「神」は、そういう神ではなかったのだ。
そして、この国の古代や中世の人々は、辻が花の「空白の花」に「かみ」を見ていた。おそらくそれは、現在の未開の地域の「神」よりももっと原初的で、先進地域における「世界宗教」の「神・仏」よりももっと高度に抽象化されたイメージだったはずだ。
うまくはいえないけど。