祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」8

古代や中世の日本列島の住民は、辻が花を着ることを、おしゃれの粋のように思っていたらしい。
おしゃれとは何か、といわれても、よくわからない。たぶん、おしゃれはあなたたちのいうようなことだけではすまない。
人間は、「おしゃれ」という意識を持っている。
人類の衣装の歴史は「おしゃれ」のアイテムとしてはじまっているのであって、「防傷防寒」の道具として生まれてきたのではない。
おしゃれな衣装を着ることがおしゃれであるのではない、衣装を着ることそれ自体がおしゃれなのだ。
「おしゃれ」は、人間であることの属性である。
善悪の基準がいつごろから生まれてきたのか知らないが、それ以前に人間はまず、おしゃれか否か、という基準を持った。
おしゃれをすることが現代人の資格か特権であるかのように考えているあなた、それはおかしい。
善悪の基準などなかった古代人のほうが、もっと純粋に切実におしゃれか否かと問うて生きていたのだ。
内田樹先生などは、清く正しく生きなさいというようなことばかりいうが、そしていい思いをすることが生きることの価値のようにいうが、人間は清く正しくいい思いをすることを欲しがって生きている存在であるかのようにいうが、冗談じゃない、できることなら「おしゃれ」に生きたいと願っているだけだ。そのためなら、清く正しくなくてもいいし、いい思いができなくてもいい、そう思ってしまうのが人間なのだ。
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現在の文化人類学的なフィールドワークで確かめ得る衣装の起源の痕跡は、ペニスケースとか体のペイントや刺青など、まあそんなようなことにあるのだろう。
それらは、ただのおしゃれであって、具体的な実用性など何もない。
そしておしゃれだからといって「見せる」ためだったかといえば、そういうことでもない。
人間は、根源的には「見られたい」という衝動は持っていない。
なぜなら、二本の足で立って胸・腹・性器などの急所をさらしているのだから、見られることにはほんらい不安や居心地の悪さがあるだけで、けっしてうれしいことではない。
見られたくて、それらのおしゃれをはじめたのではない。
では、何のためか。
もともと人間は、体の正面を見せ合って他者との関係を成り立たせている。見られたくはないけど、見せ合わなければ関係は成り立たない。見せ合ったところから、関係がはじまる。つまり、「すでに見られている」のが、人間存在の根源的なかたちなのだ。
ペニスケースも体のペイントも、「すでに見られている」ことの不安や居心地の悪さをなだめるためにうまれてきた衣装である、といえる。
現代人においても、おしゃれな人は「すでに見られている」という意識を持っているわけで、そういう立場に立てないで「見られたい」という欲望を抱くとすれば、それは野暮というものだ。
おしゃれな人は、「すでに見られている」という居心地の悪さを抱えて存在している。その居心地の悪さを処理するために有効な衣装を選択する。それは、野暮であってはならない。「すでに見られているもの」の衣装が野暮であれば、見られていることのうっとうしさがなお募ってしまう。
「すでに見られているもの」の衣装は、野暮であってはならないし、見られるためのものであってもならない。ほんとにおしゃれな人は、それほど目立つようなデザインの服は着ない。
「シック」ということは、たしかにおしゃれの重要な要素なのだ。
「おしゃれ」な衣装は、「すでに見られている」という前提を持っている。そしてそれはまた、人類が衣装を着ることをはじめたときの意識でもある。
「すでに見られている」という意識は、おしゃれの前提であると同時に、究極でもある。人間存在は、「すでに見られている」という意識の上に成り立っている。そこから人間の歴史が始まり、その意識からけっして逃れられないから人は衣装を着るのだ。
おしゃれをすることがおしゃれなのではなく、衣装を着ることそれじたいが「おしゃれ」というコンセプトを持って生まれてきた。
常識の嘘、現代人は原始人よりおしゃれの意識が高いと思うべきではない。少なくとも彼らのほうが、その意識においてずっと切実だったのだ。
「おしゃれ」には、「見せる」というコンセプトはない。「すでに見られている」ことに耐えるために人は衣装を着るのであり、それこそが、高度な「おしゃれ」のコンセプトでもあるのだ。
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未開人は、おおむね男のほうがおしゃれである。おそらく、原始時代においてもそうだったのだろう。
それは、「ペニスケース」が象徴している。
男にとってペニスは、「すでに見られている」ものである。
人類は、直立二足歩行の姿勢に移行することによって、それまで隠れていたペニスが外にさらされてしまった。その瞬間から男は、「すでに見られている」存在になった。
それに対して女は、その姿勢になることによって、それまで外にさらされていた性器が、うまい具合にすっかり隠れた。
原初、男のほうが「すでに見られている」ことの居心地の悪さを多く抱えて存在していた。
その居心地の悪さは、ペニスにたまっていた。だから「ペニスケース」でそれを覆った。
その「ペニスケース」は、最初は、見せるためのものではなかった。
隠すものでもなかった。
隠すためなら、布で覆う。アダムのように、葉っぱで隠す。
しかしペニスケースは、もうひとつのペニスとして、「すでに見られている」ことに耐えている。そのときペニスは、隠されつつ、隠されていない。あくまで、見られることに耐えている。
それはまさしく、現代のもっとも高度な「おしゃれ」と同じように、「すでに見られている」ことに耐える、というコンセプトを持って生まれてきたのだ。
女のほうがおしゃれに熱心になってきたのは、「乳房」がペニス以上に「すでに見られている」存在になり、さらには体そのものが「すでに見られている」存在になってきたからだろう。
人類の体毛は、見られていることのストレスによって抜け落ちた。
人間は、「見る」存在であるのではない、「見られている」存在なのだ。
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吉本隆明氏は、「裸(ヌード)は、衣装の始まりであると同時に究極でもある」といっておられるが、そうじゃないのですよ。そんなことは、鈍くさい身体オンチのいうせりふだ。
「すでに見られている」存在である人間は、裸から逸脱することによってそのことに耐えようとする。衣装のはじまりは、裸(ヌード)から逸脱することにあった。そうして究極の衣装としての「おしゃれ」は、「裸(ヌード)=身体」でありつつ「裸(ヌード)=身体」を消去してゆくことにある。消去するとは、身体を「空間」として扱う、ということだ。
「おしゃれ」の真骨頂は、身体を「空間」として扱っていることの鮮やかさにある。そしてその、身体でありつつ身体から逸脱していることの鮮やかさは、ペニスケースにもある。
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ペニスケースは、ペニスとケースとのあいだに「空間」がある。けっしてペニスにぴったり張り付いたかたちをしているわけではない。それは、ペニスでありつつ、ペニスから逸脱している。そうやって「すでに見られている」他者の視線を処理し、その「空間」がペニスをなだめている。
「おしゃれ」とは、「すでに見られている」他者の視線を処理する技法のことである。
現代の「パリ・コレ」のモードが原始人のペニスケースより高度なおしゃれだなんて、ダサいイモの考えることだ。
ペニスケースのほうが、ずっと純粋で鮮やかな「おしゃれ」のコンセプトを持っている。
「パリ・コレ」のモードは、時代を処理する技法として高度なだけであって、「おしゃれ」の技法としてペニスケースより高度であるわけではない。
ペニスケースは、もっとも原始的な「おしゃれ」であると同時に、究極の「おしゃれ」でもある。
衣装は、ペニスケースに始まり、ペニスケースに尽きる。誰かのいうように「裸で始まり裸に尽きる」のではない。
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したがって、「パリ・コレ」のモードが「辻が花」よりも高度で究極的な「おしゃれ」であるということもいえない。
辻が花は、それはそれで、日本列島における「おしゃれ」のひとつの達成だった。
だからそれは、古代から近世中期までの約千年のあいだ、この国のもっとも高度なおしゃれの衣装として認知され続けてきたのだ。
辻が花の「空白の花」は、他者に向かわない。見せるための花ではない。そこだけ染め残してあるということは、そこだけ見えない、ということでもある。見えているけど、見せるための「色」が隠されている。だから、見えているけど、見えない。
見られることは、隠すことによってしか耐えられない。それは、見られることに耐えるための衣装であって、見られないためでも見せるためでもない。
それが、直立二足歩行する人間存在のかたちなのだ。
人間であるかぎり、身体に視線が張り付いてくることのうっとうしさから逃れることはできない。それはもう、耐えるしかない。そういうコンセプトで、人類は衣装を着ることをはじめた。
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古代において男のほうがおしゃれに熱心だったのは、戦争がひとつの仕事だったから、ということもあるのかもしれない。戦いのときほど、相手に身体をさらしてしまうことの不安やうっとうしさが募る場面もない。
だから、いつの時代も、軍人は過剰におしゃれをしたがる。たくさんの勲章をじゃらじゃら胸にぶら下げて写真に写りたがるなんて、大の男がよくあんなグロテスクな姿をさらせるものだと思う。彼らは、それほどに相手に身体をさらしてしまうことの不安というか強迫観念を強く抱えている存在であり、それほどにごてごて飾り立てないと身体から逸脱できないらしい。
しかし辻が花の「空白の花」は、その逆のコンセプトで、身体からの逸脱をもたらしてくれる。飾り立てることによって身体を隠すのではなく、衣装それじたいに、すでに「隠す」というコンセプトが備わっている。
辻が花を着れば、身体は「物性」を忘れて「空間」になれる。そうやって、戦に向かう武士が鎧の下の胴着として身にまとうようになっていったのだ。
身体の「物性」を意識しているかぎり、ごてごて飾り立てないことには、身体を隠し、身体を忘れることはできない。
しかし身体が「空間」と意識されれば、すでに身体の「物性」は忘れられている。それが、辻が花のコンセプトなのだ。
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鎧の下の衣装は、避けがたく身体にぴったり張り付いてしまう。汗をかけば、なおさらそうだろう。鎧などつけて動いていたら、なおさらそうだろう。
鎧をまとって戦う武士は、衣装が身体にぴったり張り付いてしまううっとうしさに悩まされていた。それはもう、戦争の歴史が始まって以来の悩みだ。
衣装が身体にぴったり張り付いていれば、衣装そのものが身体になってしまって、衣装の役目を果たせない。濡れたシャツを着ているときのうっとうしさは、誰もが身に覚えがあることで、それは、裸でいることと同じなのだ。
われわれは、衣装と身体のあいだに「空間」を隠し持つことによって、はじめて「見られている」ことに耐えることができる。身体を隠すのではない、「空間」を隠しているのだ。身体を隠すためなら、濡れたシャツでもかまわない。アダムとイヴの葉っぱでもかまわない。しかし、「空間」を隠し持つためには、「ペニスケース」でなければならない。
人間であるかぎり、身体は「すでに見られている」のだ。たとえ衣装を着ても、心理的には、「すでに見られている」のだ。
身体を隠すことはできない。それが、人間存在の与件なのだ。
辻が花の衣装は、身体を「空間」にしてくれる。だから、汗をかいて身体に張り付いても、そのうっとうしさに耐えさせてくれる。
その「空白の花」が、身体を「空間」にしてくれる。
そのとき戦に向かう武士は、鎧の下に辻が花を着れば、なんとなく落ち着くことができた。
衣装が身体にぴったり張り付いてくれば、いやおうなく身体を意識してしまう。身体を意識すれば、「死」を意識してしまう。
また、鎧をまとうことは、身体を守るためであると同時に、だからこそいやおうなく「身体=死」を意識してしまうことでもあった。
辻が花の衣装は、そういう意識から解放してくれる。これがたぶん、鎧の下の胴着として辻が花が定着していったことの理由だろう。
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そして女が、身体のうっとうしさ(物性)を強く意識する存在であるのなら、辻が花の「空白=空間」は、より切実に親愛なものとなる。
この時代になればもう、女の身体のほうが「すでに見られている」存在になっていたのだ。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、「すでに見られている」ことの不安やうっとうしさに耐えながら他者との関係をつくっていった。そうして、そのうっとうしさ・不安からの解放として二本の足で立って歩き続けるということを覚えていった。
この身体は「すでに見られている」という自覚、これが直立二足歩行する人間であることの与件なのだ。
衣装で隠せばもう見られていない、というようなものではない。直立二足歩行する生きものであるかぎり、われわれの身体は、先験的に「すでに見られている」のだ。衣装で隠しても、心理的無意識的には「すでに見られている」と自覚されている。
だから人は「おしゃれ」をするのであり、ことばを話すようになったのだ。それらもまた、「すでに見られている」ことからの解放として他者と関係してゆく行為にほかならない。
原初、「すでに見られている」身体のうっとうしさ・不安から逃れるようにしてことばが発せられたのだ。べつに、何か伝えるべきものがあったのではない。
たがいの身体のあいだにことば(=音声)を置くことによって、たがいの意識はその音声に向き、「すでに見られている」ことのうっとうしさ・不安から逃れ、関係をスムーズにしてゆくことができる。そうやってことばが生まれてきたのだ。
衣装だってもちろん、「防傷防寒」の道具なんかではなく、そうやって他者との関係をやりくりしてゆくアイテムとして生まれてきたのだ。
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ともあれ身体の物性にこだわっているかぎり、「すでに見られている」という人間としての先験的な意識からは逃れられない。身体を「空間の輪郭」として自覚すること、そのために人は衣装を着るのだ。
身体と衣装のあいだには「空間」が隠されている。その「空間」が身体の「輪郭」になっている。だから衣装は、身体にくっついてしまうことも、身体から遠く離れることもできない。その按配を決定するのは、時代であり、個人的な事情であり、その按配を「おしゃれ」という。
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直立二足歩行からさらにもう一段ステップアップした体の動きとして、「舞う」という行為がある。
「舞う」の「ま」は、「まったり」の「ま」、「充足」「昂揚」の語義。「すでに見られている」身体のうっとうしさ・不安から解放される充足・昂揚をもたらす行為だから、「まう」という。
またそれは、この世界と身体の「間(ま)」の空間に入ってゆく行為でもある。この世界と身体のあいだになにか「チューブ」のような空間がイメージされ、そこに入ってゆくのが、「舞う」という行為なのだ。
辻が花は、「舞」の衣装でもあった。
舞うことは、身体を意識しつつ身体を忘れる行為である。すなわちそのとき身体は、「空間の輪郭」として意識されている。身体が「空間」になることによって、はじめて美しい舞になる。
辻が花の「空白の花」は、身体が空間になってゆくことを助けてくれる。
舞うことの醍醐味は、いったん「すでに見られている」という状態に立ち、そこからより鮮やかに解き放たれてゆくことにある。
舞えば、身体の物性は忘れてしまう。そうやって「上の空」になっている姿が美しいのだ。
おしゃれな着こなしとは、見られながら、見られていることから解き放たれている気配のことだ。それは、人間存在における身体との関係、そして他者との関係の根源の問題であり、べつに現代人の特権でもなんでもない。
古代人のほうが、もっと高度に切実に「おしゃれ」をしていたのだ。