祝福論(やまとことばの語源)・閑話休題

のりをさま
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あなたの大切な時間をわずらわせたことは申し訳なく、そしてかくも丁寧で示唆に富んだコメントをいただき、感謝し切れません。
指摘していただいてはじめて気づいたことが、たくさんありました。
こういうことは、自分で考えることはできません。自分で自分を考えても正確であるはずがないし、だいいち、めんどくさい。
自分の思考のスタンスとかスタイルというようなことは、よくわからないまま書き続けてきました。
ただもう、中西進氏をはじめとする研究者の説明に対する「そんなことあるものか」という思いばかりで書いてきました。
あなたは、「この先は国文学の先生方に考えていただきたい」とおっしゃっていましたが、僕は「その先は俺が考えてやる、おまえらなんぞ、もう当てにはしない」という思いがあります。
どうして自分がこんなあつかましい思考態度になってしまったのか、やっぱりよくわかりません。
悪態をつくな、といわれれば、まったくそうだとも思うのだが、彼らに対する幻滅抜きでは、自分の思考も持続できません。
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やまとことばの両義性・重層性、それはそのままあなたのいわれる「万葉集の重層性」であり、僕もたしかにそうだと思いました。
そして、そこのところの学者先生たちの店先は、「意味」や「概念」をつまみ食いしているばかりで、見苦しくとっちらかっているように思えます。
まったく「履き心地のいい靴のかたち」になっていない。
履き心地のいいところにおさめようと思うのなら、もうあの連中は当てにできない。
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僕にとっての辻が花の縫い締め絞りは、「つぼみ」をつくることだろうと思っています。職人が辻が花をつくることは、そのつぼみが裂けて花が開くというこの世の不思議を追体験してゆくことだろうかと考えました。
で、このあと、「花」というこの国の美意識と「おしゃれ」と「衣装の起源」などを絡め合わせながら、今回の辻が花論の締めくくりにしようか、と計画しています。
少しメモを書いても見ましたが、いかんせん知識が足りないから中途半端に終わるしかないようです。でも、やつらの知識だけで完璧を装ったすっからかんの論考を尊敬しなければならない理由は何もない、とも思います。
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英語とやまとことばのあいだにも、発声の感慨の「共時性」というのはたしかにあると思います。
ただ僕は、一音一音に完結した姿を持っているのがやまとことばだと思っているから、子音でまとめてしまうことには少し違和感があります。
たとえば、「メジャー」は、もしかしたら語源的には「ミージュア」というような発声だったのかもしれないわけで、それは「め」だったのだろうか「み」だったのだろうか、と考えてしまいます。この違いは、僕にとっては、「とっちらかす」わけにはいかない。
「み」と「め」と「ま」は、それぞれにそれぞれのことばとしての姿かたちがあるのではないか。
「ネイチャー(自然)」は、「ナーチュア」だったのかもしれない。
やまとことばの「な」は、「なれる」「なかよし」「なじむ」の「な」で、「親愛」の語義。それはもう大昔の英語でもたぶん同じで、日本列島の「自然(じねん)」とは自然の森羅万象というより「あるがまま」というような意味だったらしいが、英語圏でも、語源においてはそういうニュアンスだったのではないだろうか。
「ネイム(名前)」も「ナーム」だったのかもしれない。
英語の「ナイス」にも、ネパール語の「ナマステ」にも、「な=親愛」のニュアンスがあるのではないか。
「ナース(看護婦)」の「ナ」は「親愛」、「ス」は「擦り寄る」の「す」、したがってその語源は、「親しみを込めてやさしくする」ということだったのだろうか。
そんなことを考えてゆくと、きりがないような、おもしろいような、ばかばかしいような……。
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「メシア(救世主)」というユダヤ人のことばは、英語とアラビア語の中間のことばだろうか。
でも「メシア」というなら、やまとことばにだって「めしや(飯屋)」ということばがある。これはたぶん同じ意味だ。
「メシア」の「メ」…… やまとことばの「め」は「出現」の語義。「めっ」と怒るのは、怒る気持ちが出現すること。いや、べつに怒っているというほどのことでもないが、明かりがついたようにぱっと気持ちがわき起こることの表出。「めくるめく」の「め」。「夏めく」とは、夏があらわれてくること。閉じていた目を開ければ、世界の画像が出現する。だから「目(め)」という。
「シ=し」は、「孤独」「固有」「静寂」の語義。「しーん」の「し」。
「ア」は、「あ」と気づくこと。「逢う」の「あ」。
「メシア」とは、この世に出現したただ一人の人。ちゃんとやまとことばのニュアンスで解釈がつく。であれば、「めしや」だって、そう大差はないはずです。
「めし」とは、硬い米粒がおいしくやわらかい食い物として出現してきたもの。
「赤子泣いてもふた取るな」というように、最後にふたを取ったときに、もわーっと湯気が湧き上がって、そのむこうから「めし」が出現してくることのときめきは、たしかにある。それは、ユダヤ人が「メシア」と出逢ったときのときめき以上でも以下でもないはずです。
したがって「屋=や」ということばも、ただ「店」という意味だけでなく、その奥に「や=矢」、すなわち遠くにたどり着くこと、すなわち「おいしい<めし>の出現にたどり着く場所」というような、庶民の切実な感慨が込められているのではないだろうか。
「や」の語源は、「遠いところにたどり着く安堵の感慨」にある。だから、「矢(や)」というのであり、「山(やま)」ともいうし、ようやく事が終われば「やれやれ」ともいう。
「めしや」は「メシア」に負けないくらい厳粛なことばだ、と僕は思っている。
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べつに「メシア」ということばが伝わってきて「めし」になったわけでもないだろうが、たぶんそこでユダヤ人と日本列島の住民は、時空を超えて同じ言語体験をしているのだろうと思う。
そういう語源における「共時性」は、きっとあるのだと思います。
同じ人間なのだから、数万年前に同じような語源体験があり、そこからそれぞれの地域の風土性や人間関係に洗われながら、それぞれ違うことばになっていった。
原初の時代に同じような語源体験があったにもかかわらず、それぞれの地域や国や民族でことばが違うということは、言語や文化が「伝わる」ということは、歴史家や言語学者が考えるほどオールマイティにスムーズなことではなかったと思う。
人は、住み着こうとする生きものなのだ。そのことの喜びやつらさや切なさを思えば、僕は彼らのようにそうかんたんには「伝わった」ということばは使いたくない。
ことにやまとことばは、異文化との交流や衝突が盛んだったほかの大陸地域と違って、「伝達」の手段としてどんどん変質してゆくということがあまりなく、原初のかたちがそのまま純粋培養され、洗練していったことばだろう、と思っています。
ともあれ、僕が書いたものを読んで「頭の中がぐるぐる回る」と反応してくれる人がいるなんて、とてもうれしいことです。そこまで敏感に反応できるなんて誰にでもできることじゃないし、そんなふうに反応してもらえたら、ほんとに書いたかいがあった、と思えます。