やまとことばという日本語・「すきま」3

万葉学の権威である中西進氏によれば、「(花が)咲く」ということばの語源は「さかり」ということばからきているのだそうです。
花が「さく」ことは「さかり」が現出することである、と。
そんなことあるものか。
はじめに「さかり」という概念的なことばがあって、そのあとに「さく」という具体的な現象に対することばが生まれてきたなんて、話があべこべじゃないですか。
「咲く」から、「さかり」という言葉が生まれてきたのだ。
したがって、「咲く」の語源」が「さかり」にある、ということは成り立つはずがない。
「咲くあり」が「さかり」になったのでしょう。「さかり」とは、「咲き満ちてあり」ということ。
「咲く」といっても、「咲く」「裂く」「柵」「策」「朔」……といろいろある。しかし、これらのことばには、すべて「裂ける」という意味が隠されている。
「柵」は、敷地の内側と外側の裂け目につくられたもの。
「策」は、困難な状況を解決する(=裂く)アイデアのこと。
「朔日(ついたち)」といえば、月と月の裂け目の日のこと。
つまり、つぼみが裂けて花になるから、「裂く=咲く」というようになったのだ。それだけのことさ。
それだけのことだがしかし、古代人は、どうしてそのような現象にことばが生まれてくるほどの感慨を覚えたのか。それを問うことが、語源に推参することだ。
つぼみが裂けるとは、つぼみという物体が解体されることです。そうして、花びらがつくる愛らしい「空間」が生まれ出る。その感動が「咲く(さく)」ということばになってこぼれ出た。
物性が解体されて「空間」があらわれることのときめき(=カタルシス)、それが「咲く」ということばになった。
ものが裂けるとき、そこに「すきま」という空間があらわれる。古代人は、この「すきま」という空間にときめいた。そこから「裂く=咲く」ということばが生まれてきた。
ほとんどの「さ」がつくことばには、「裂く」という意味が隠されている。
「咲く」は、古代人の、「すきま」という空間に対するときめきから発せられたことばなのだ。