やまとことばという日本語・「すきま」と「そまつ」

杉山巡さん、拙文を引用していただき、ほんとにありがとうございました。「すきま」の語義が、そこまで拡張して考えることができるとは気づきませんでした。
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「そまつ」の語源は「そま(=すきま)」。
日本列島の住民は、贈りものを差し出すとき、「粗末(そまつ)なものですが」という。
食事のあとに「ごちそうさま」といえば、差し出した人は「おそまつさま」という。
外国人は、そこまで自分を卑下する気持ちがわからないというが、それは、「この贈りもののお返しには及びません」とか「あなたの心に負担をかけたくありません」というニュアンスであって、べつに卑下しているのではない。
贈りものの「お返し」をすることが美徳なのではない。「お返し」なんかしちゃいけない。それは、「粗末なものですが」といって差し出した相手の気持ちを無にすることだ。もう、ありがとうございますといって深くお辞儀をするだけだ。そうしていつかこちらもまた、「今ここがこの生のすべてだ」という感慨とともに贈りものを差し出すことができればよい。
お返しの習慣ほど愚劣なものはない。
その贈り物は、そこで「完結」しているのだ。「完結」しているという感慨で、「そまつなものですが」という。
祝儀袋には「みづひき」という赤と白の結び紐がついている。それは、「ここで完結しています、お返しには及びません」という表現なのだ。
「そまつ」の「つ」は、「到着」「接続」「完了」の語義。「つ」と発声するとき、息も声も外に出ていかない。口の中が行き止まりになっている。
「そまつ」とは、このすきまにおいて世界は完結しているという感慨のこと。
古代人は、そのことばを「つまらないもの」というような意味には使っていなかった。
たとえば、竹を編んでつくった竹篭は、たくさんの「そま=すきま」を持った愛らしい品物である。水で練った団子を焼けば、「そま=すきま」を持ったクッキーやせんべいになる。そういう「そま=すきま」を持った品物を「そまつなもの」と呼んだのだ。
われわれは、その何もない空間である「すきま=そま」を見出すことによって、「この生はここで完結している」という感慨(カタルシス)を抱く。他者の身体とのあいだに「すきま=そま」を確認すれば、身体が動くことのできる空間があるという生きものとしての安堵がある。それが、「贈りもの」という儀礼の根源的なコンセプトなのだ。
人は、人と人の関係のちょうどよい「そま=すきま」を止揚(祝福)してゆくために贈りものをする。
古代人は、なれなれしい関係になるために贈りものをしたのではない。「そまつなものですが」という物言いの習慣は、そういううっとうしい関係にならないためのものとして贈り物をしていたことを物語っている。
人と人の関係にちょうどよい「そま=すきま」を入れること、それが贈りものをすることであり、深くお辞儀をすることだった。
日本列島の住民は、「そまつなものですが」ということにカタルシスをおぼえる。
また、「そまつなものですが」といわれれば、ほっとする。
それは、敵意を持たないことの表現であり、相手に心の負担を与えまいという配慮でもある。
僕は先日、とても心にしみる「おそまつでございます」ということばと出会った。