やまとことばという日本語・「すきま」2

承前。
「すきま」の語源は、「そま」。
山の中の「そま道」の「そま」、木と木の間の「すきま」がゆったりしているところに「道」ができてゆく。そこを吹き抜けてゆく風に導かれるようにして「道」ができてゆく。それを「そま道」という。
「そま」とは、「すきま」のこと。
「そ」は、「そおっと」の「そ」。存在の気配がないこと。「削(そ)ぐ」の「そ」。そおっと「そぐ」。木を「そぐ」とき、木の本体とそいでゆく破片とのあいだに「すきま=裂け目」が生まれてゆく。「そぐ」ことは、そういう「すきま」をつくり出しながら木を削ってゆくこと。そして、そがれた破片は「反(そ)る」。
「そま」が「すきま」に転化した。
「髪を梳(す)く」といえば、櫛の歯で髪と髪のあいだに「すきま」を入れてゆくこと。
そのとき日本列島の住民は、「そ」という音声より「すき」という音声のほうが、その「空間」をあらわすのにしっくり来るようになっていった。
「そ」と発声するより「すき」といったほうが、何か自覚的積極的な感じがする。
おそらくそのとき日本列島の住民は、「そ」なる貴重な空間が失われてゆく時代を嘆いたのだ。人口が増え、都市に人がひしめくようになってきた。共同体の制度が発達して、人々の暮らしにきつくまとわりついてくるようになった。
「すきま」ということばは、たぶん都市から生まれてきた。
そんなに人と人が監視しあうようなきついことはやめようよ、という気分。充実していればいいってものでもないだろう、むしろ「そま」を感じさせる「いいかげんさ」「わびしさ」のほうが安らげるんじゃないの、という気分。
都市に集まってきた人々の閉塞感、そんなところから「すきま」ということばが生まれてきたのではないだろうか。
「数寄屋造り」といったりするように、中世以降の「わび・さび」とならぶ美の概念である「数奇(すき)」のコンセプトは、余分なものを「削ぎ落とす」ことにある。そのとき都市に集まってきた人々は、そういう美意識を必要としていたのだ。
「あなたが好き」というときの「すき」は、日常の意識の「すきま(裂け目)」の中に入ってゆく非日常感覚のこと。
日常生活とは、非日常を見出してゆく暮らしのことである。日常生活がすてきなのではない。うっとうしい日常の中にあるからこそ、その「すきま」から非日常を見出してゆくカタルシスが生まれる。
生きることがすばらしいのではない。生きることはうっとうしいことであるからこそ、その「すきま=裂け目」の向こうからカタルシスを掬い上げてゆくことができる。
生きることはうっとうしいことだ、くだらないことだ、という嘆きを手放したとき、人は堕落する。横着な生き物になる。カタルシスを知らない空虚な生き物になる。そうして、つねに「クレーム」をつけていないと生きられない生き物になる。鬱病になる。認知症になる。パニック症候群になる。EDになる。強迫神経症になる。もはや彼らは「すきま」を見失った。つまりわれわれ現代人は、そういう瀬戸際を生きているということだ。
生きてあることの「嘆き」を手離さなかった人びとは、そこから「数寄(すき)」という美意識を育てていった。
「嘆き」を手離したわれわれ現代人は、つまらない空虚な生き物になってしまっただけじゃないか。……かもしれない。
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日本列島の住民は、「すきま」に対する意識がことのほか鋭敏です。
西洋人は、抱き合って挨拶する。
日本列島の住民は、深くお辞儀をする。それは、他者とのあいだに「すきま」をつくる行為だ。
原初の人類は、他者の体とのあいだに「すきま」をつくろうとして、二本の足で立ち上がった。
人間は、他者の体とのあいだに「すきま」があるかどうかということを、とても気にする生きものです。
電車の座席で、見知らぬ人の体とくっついてしまうのはいやでしょう。だから、みんなで少しづつ「すきま」をつくりあって座っている。
それは、人間であることの根源的な意識なのだ。
さらに、生き物とは動くものだとすれば、生き物が動くためには他者の身体とのあいだに「すきま=空間」が保たれていなければならない。
われわれが「すきま」という空間に魅せられる意識は、そこまでさかのぼることができる。
人間は、群れる生き物である。他者とのあいだの空間が広すぎれば不安になる。しかしくっついてしまえば動きを阻まれてうっとうしい。群れることのできるちょうどいい空間、それが「すきま」である。
人間は、「すきま」を止揚(祝福)してゆく生き物である。(つづく)