やまとことばという日本語・「すきま」

サッカーの話をします。
パスがうまい選手の専売特許のように言われている「スルーパス」というプレーがあります。
何人もの相手選手のあいだを縫うように通り抜けて味方に渡すパスのことです。
誰もそんなところにパスコースがあると気づかなかったし、そんな狭いところを通せるはずがないと思えるのに通してしまったとき、観客席から「うおー」というどよめきが起きる。
こういうプレーを解説するのに、よく、「その選手は真上からグラウンドを見下ろす鳥瞰図の視線を持っている」などという。
しかしこんな解説など、そういう才能がないものの言うせりふです。
当の本人は、たぶんそんなふうには見ていない。「すきま」があったから、そこに蹴っただけです。まわりの人間には見えなくても、本人の目に前には、ちゃんとそういう「すきま」ができていたはずです。
ただ、そこを通す正確なキックの技術と、その「すきま」に魅せられる心の動きがあるかどうか、ということだけです。
そういう技術を持った選手でなければ、その「隙間」に魅せられることはない。
「上から見下ろす」だなんて、そんなふうに神になったよう気分でプレーしていたら、味方の息使いや心の動きや体の動きに鈍感になってしまう。その選手はたぶん、そういう味方との関係に神経を集中しながらプレーしているはずですよ。鳥瞰図を感じながらプレーしているのではない、あくまで味方や相手のようすを、同じ立場で感じながらプレーしているのだ。そのプレーに必要なのは、そういう「気配」にたいする鋭敏な感覚であって、「神の視線」ではない。
サッカーのようにめまぐるしく動いて不確定要素ばかりのスポーツでは、上から見下ろしていたら、間に合わないのです。そんな視線でプレーしていたら、ちょっとづつ判断が遅れてしまう。
大切なのは、人に対する鋭敏な感受性であり、「すきま」に魅せられるセンスなのだ。
このタッチは、運動神経の鈍いやつにはわからない。運動神経の鈍いやつほど、そうやって上からの視線でプレーしたがるのだ。そうして、いつも判断が遅れてしまう。
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キックの技術が中途半端なパサーは、強く蹴ってその「すきま」を通そうとする。相手や味方の選手の気配に対する神経が行き届いていない。だから、味方が受けそこなったり、そこに走りこむのが間に合わなかったりすることが多い。
上手な選手、たとえば小野伸二などは、自分がそこに蹴ろうとする気配を隠したり、相手の注意をほかのスペースに向けるという工夫をしながら、できるだけ味方が受けやすい勢いに調節してその「すきま」を通してしまう。
たとえば、わざと利き足ではないほうの足の、しかもアウトサイドキックで、さらにわざとよそのほうを見ながらその「すきま」に蹴りこんだりする。
だから、そう早い弾道でもないのに、おやおや、という感じでその狭い「すきま」をボールが通り抜けてしまう。
そのとき彼は、敵味方の選手の「気配」に神経を研ぎ澄ましているのであって、「上から」なんか見ていない。
華麗なスルーパスは、上から見下ろす「神の視線」によってではなく、平行の視線のままの、「すきま」という「空間」に魅せられるセンスによって実現する。
そのとき彼は、「神」になるのではなく、「神の声」を聞く。あるいは、「すきま」という「神」と出会う。「すきま」という「空間」には、「神」が宿っている。
「すきま」という「空間」に魅せられるとは、たとえば、林の中を吹き抜けてゆく風を感じることです。そのようにしてスルーパスが実現しているのであって、天上からの「神の裁き」が下されているのではない。
小野伸二ほど繊細なスルーパスを出せる選手は、世界中のどこにもいない。彼ほど「すきま」という空間に魅せられている選手もいない。なぜなら彼は、日本列島の住民だからです。そのパスは、林の中を音もなく吹き抜けてゆく風のようだ。
日本列島の住民ほど、「すきま」という「空間」に魅せられている民族もいない。
「すきま」という「空間」には、「神」が宿っている。そう気づいたところから、日本列島の歴史がはじまっている。(つづく)