やまとことばという日本語・「もの」と「こと」

やまとことばの「もの」と「こと」は、語源の解明が非常に難しく、そして研究者にとっては、やまとことばの本質に関わるとても大きなテーマでもあるらしい。
でも、あまり持って回った解釈に走ると、かえって嘘っぽくなってしまう。
語源に関しては、できるだけシンプルに問うたほうがいい。
意識は、この世界の「物性」に気づくことのストレスとして発生する……これが、「もの」という言葉が生まれてきた契機であろうと思えます。
「ものものしい」というように、「もの」の物性は、人の心に圧迫感をもたらす。
体が痛いとか腹が減ったとか息苦しいとか、そういう意識は、身体の物性に対する嘆きとして起きてくる。これが、意識のはたらきの基本であり、「もの」という言葉が生まれてきた契機であろうと思えます。
身体を「もの=物体」として感じることは、ひとつのストレスです。それを忘れて身体がただの空っぽの「空間」のように感じられているときこそ、身体が健康に機能している状態にほかならない。
意識は、身体を「空間」としてとらえるタッチを持っている。身体が「物体」から「空間」になってゆくように感じられることが、痛みや空腹や息苦しさが解消されるという事態です。
身体の物性が「もの」であるなら、空間性は「こと」です。
花という存在はとりあえず「もの」であるが、「花が咲いている」という事態は「こと」です。
われわれは、花という「もの」にいやされるのではない。「咲いている」という「こと」にいやされるのだ。
「花が咲いている」という空間性、それは、花びらという平面が折り重なってひとつの空間をつくっているという事態であり、その「咲いている」という「事態=事件」が「こと」です。
そして、そういう「こと」に気づく感慨から「ことば」が生まれてくる。
「ことば」の古語は、「ことのは」。「は」は、心もとない感慨という意味。その心もとない感慨という「空間性」からことばが生まれてくるから「ことのは」という。
「こと」に気づくことの心もとなさ、「こと」の空間性、そこから「ことば=ことのは」が生まれてくる。
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先日までのこのブログの「内田樹という迷惑」という看板を下ろしたのは、自分の中で「物性と空間性」という問題がこのごろとくに大きくなってきたからです。
仏教でいえば、「色(しき)と空(くう)」の問題です。
それで、この問題を今のうちに考えておかないといけない。もう内田批判どころじゃない、と思えてきたからです。
それは、意識のはたらきの根源に関わる問題だと思う。
われわれの心は、「空=空間性」に向かっていやされてゆく。空間性に向かってことばが生まれてくる。空間性に向かって知性がはたらく。空間性に向かって体は高度な動きをする。まあ、そんなようなことを考えてみたい、と思ったわけです。
なぜそうなるかといえば、意識は「もの=物性」に対するストレスとして発生するからだ。その状態が起点になって心が動いてゆく。
ストレスを引き起こす「物性」を、「もの」という。
そこで中西進氏は、「もの」には具体的な見たり触ったりできる「もの」と抽象的な対象としての「もの」がある、という。
いかにも学者らしい物言いでなんとなくもっともらしいが、こういう思考を、やまとことばで、余計な「さかしら」という。「小ざかしい」ともいう。
「物性」といっておけばいいだけなのです。
たとえば、「お化け」という「もの(のけ)」は見えない存在だ、という。
そうじゃない、本居宣長じゃないが、むかしの人にはお化けが見えたのです。見えたから「もののけ」といったのだ。
また、「ものさびしい」とか「ものがなしい」ということばは、なんとなくさびしいとかかなしいという気持ちを表していると中西氏はいうのだが、そうじゃないでしょう。それは、自分の気持ちではなく、人や景色の様子をそう形容しているだけのことばでしょう。自分がさびしいのではなく、人の姿や景色そのものがさびしい様子だから「ものさびしい」という。自分の心ではなく、目に見える「もの」の様子だから、「ものさびしい」というのだ。
「ものしずかな人」といえば、その人の振る舞いや姿かたちである「もの」が静かな様子を漂わせている、ということでしょう。
「もの=物」だから。「もの」といっているまでだ。
「物見遊山」というときの「もの」はなんとなく見ているだけの抽象的な「もの」だ、と中西氏はいうのだが、「抽象的」だろうと「なんとなく」だろうと、見ている対象は具体的な「もの=物」に違いはない。
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もののけ」の「もの」も「け」も見えないものだ、と中西氏はいう。
だからそれはさっきも言ったように古代においては見えるものだったし、今でもお化けやUFOを見たという人はいくらでもいるじゃないですか。その人たちにとっては、あくまで具体的な「もの」なのです。
中西氏だけじゃなく、たいていの研究者も一般人も、「もののけ」の「け」は「気」のことだと思っている。
そうじゃない。
「もの」の「気配」だから、「もののけ」というのではない。
この場合の「け」は、「化ける」という意味です。「もの」が「化ける」から、「もののけ」です。
「け」は、「蹴る」の「け」。「分裂」「変化」の語義。
人間や動物の身体という「もの」は、怒りや恨みをため込むと醜くゆがんでくる。それが「けがれ」という状態です。この場合の「け」は、空間性(こと)に向かう浄化作用のことで、そういう「変化」を失っている(枯れている、あるいは涸れている)から、「けがれ」という。
そうしてその「けがれ」を浄化することができないまま「お化け」に変身してしまう、あるいはお化けの世界にいってしまうから、「もののけ」という。
「け」、すなわち変化していくことのみずみずしさが「枯れる(涸れる)」ことを「けがれ」という。とすれば、「け」は「けがれ」ではない。これは、自明のことだ。
「け」ということばを、かんたんに「気(き)」が転化したかたちだと解釈してしまうべきではない。
やまとことばは、一音一音がことばとしての独立性を持っている。その一音一音の解釈はもっと丁寧にするべきだ。
「気配」の「け」だって、ほんらいは「気」ではなく「変化」という意味の「け」であるはずです。「気配」の古語は「けはひ=けはふ」。つまり、「け」が「這う」こと。「這う=はふ」という言葉自体が、漂うとか気配という意味を持っている。違う気配が漂っているから「けはい」というのだ。
「化粧」のことも「けはひ」といった。それは、違う気配に変身することでしょう。
したがって「もののけ」の「け」は、「変身=化ける」という意味であって、「気」ではない。
身体がけがれてきて、そのまま向こうの世界にいってしまうか、浄化されるか。それは、「こと=空間性」のいやし(浄化作用=変化)がはたらくか否かだ。
「ほとけ」の「け」は、浄土という「別世界」を意味する。浄土という「別世界」に存在するありがたい神もしくは人のことを、「ほとけ」という。
「け」というだけで「けがれ」を意味するのではない。「気=け」でもない。よどんだ「気」が充満して停滞することだから、それならそのあとの「かれる」という言葉と矛盾してしまう。「けがれ」の「け」は、変化してゆく新鮮な状態のこと。それが枯れるから「けがれ」というのであって、「気」が枯れるのではない。「気」が枯れてさっぱりと無心になれるのなら、それは清らかな状態でしょう。「けがれ」は、よどんだ「気」が充満することだ。
この世界や身体それ自体の「物性=もの」に対するストレスが身体に充満することを「けがれ」という。
「けがれ」とは、「物性=もの」に閉じ込められて「空間性=こと」を失うこと。たとえば、空腹とか怪我とか疲労とか月経等によって、身体の物性にわずらわされ、身体を忘れた身軽な状態(空間性=新鮮さ)を持てなくなっている状態のこと。「変化」を失って重くよどんでくることを、「けがれ」という。「気(け)」を失うのではない。
もののけ」の「け」は、「別世界」という意味。「け(=別世界)のもの」の倒置した言い方。
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「もの」の「も」は、「藻」の「も」、「持つ」「盛る」の「も」でもある。
「藻」は、水の中のゆらめくカオス。重いものを「持つ」のはしんどいし、「盛る」状態もひとつのカオスでしょう。
「も」という発声には、体中によどんだ気が滞留して重苦しい心地がともなう。
「の」は、「私のペン」というように、「接続」「所有」の語義。「乗(の)る」は「接続」することであり、「飲(の)む」は「所有」してしまうこと。「の」と発声するとき、声が口の中にまとわり付く心地がする。
「もの」とは、重苦しくまとわりつくもの。そういう感慨をともなって「もの」と発声される。
古代人は、自然(世界)の物性に親しみをこめて「もの」といったのではない。その物性にストレスを感じていたから「もの」ということばになったのだ。
現代人のストレスだって、「物性」に対するものだ。人と人の関係が近すぎることの「物性」に対するストレス。現代社会は、人間がひしめき合って暮らしている。電車の中の満員状態は、「物性」に対するストレスを引き起こす。だましたりだまされたり、命令したり命令されたり、仲良くなれなれしくすることが愛だなどという物性の思想、そうやって「コミュニケーション」という物性に幽閉されてしまっていることのストレスが、認知症だの鬱病だのパニック症候群だのEDだのという現代病を引き起こしている。
車だの家だのその他もろもろの「商品」という名の物性。快適な暮らしをすることは、「物性」に閉じ込められることだ。ストレスは、快適な暮らしそのものからももたらされる。
現代人は、「もの」に執着して「もの」を支配しつつ、「もの」からしっぺ返しを受けてもいる。
世界の「物性」は、人間の意識にストレスをもたらす。現代人だろうと古代(原始)人だろうとストレスをもたらす。だから、重苦しくまとわりつくような響きを持った「もの」ということばが今日まで引き継がれてきたのでしょう。