やまとことばという日本語・「やまとことば」というタッチ

やまとことばは、「感慨」から生まれてきた言葉です。意味作用よりも先に、まず感慨がある。そのことの功罪あいなかばするところは、たしかにある。
それは、感慨を他者と共有したり、嘆きの感慨をととのえて(沈静化させて)ゆくためには有効であるが、意味を伝達して共同体を運営発展させてゆく機能においては、いささか心もとないところがある。だから日本人は、漢語や英語などの多くの外来語を受け入れてそれを補ってきたのだし、また、近ごろの若者がつくり出すことばのほとんどがやまとことばのタッチを持っているのは、感慨を共有しようとする彼らの生態から来ている。そういう願いにおいて彼らは、大人たちよりもずっと切実なのだ。
大人たちは、共同体の合意という制度性にどっぷりはまって、人と人が最初からつながりあっているつもりでいる。
しかし若者たちは、そういう合意という制度性からひとまず離れて、たえず感慨の共有を模索しつづけている。模索しつづけているから新しいことばを生み出しつづけているのであって、軽薄だからではない。
大人たちが、「とこ」というやまとことばは「永遠」という意味である、というような俗っぽくも制度的な合意にことばを押し込めて居座っているから、彼らだけの新しいことばが必要になってしまうのだ。
やまとことばの伝統を残したいと思うのなら、まずあなたたちの制度的な意識でことばのほんらいの姿かたちを封じ込めてしまっているその思考停止した態度を捨てるべきだ。
何が「やまとことばは美しい」だ。あなたたちがそんな思考停止に居直っているから、新しい若者ことばが生まれつづけているのだ。
「たおやか」といえば、それでいいというものではない。あなたたちの言う「たおやか」の意味などくだらない。「たおやか」という感慨もないくせに、「たおやか」といえば「美しい日本人」になったつもりでいやがる。
「美しい」かどうかなんか、どうでもいいのだ。ことばが生まれてくる契機としての感慨は、「美しい」という価値意識なんか関係ないのですよ。
あなたたちより現在の若者のほうが、ずっと「やまとことばが生まれてくる契機としての感慨」を持って生きている。
「咲く」は「頂点」という意味である、とのたまうおえらい学者先生の説明より、「さくっと」ということばを生みだした若者たちのほうが、ずっとやまとことばほんらいの感慨を自分のものにしている。
「咲く」とは、つぼみが裂けて花が開くこと。「咲く」=「裂く」。裂けるようにすっきりと新しい事態があらわれることを「さくっと」という。みごとに、やまとことばのタッチではないか。
美しいからやまとことばを使うのではない。「感慨」を表出せざるを得ないような存在の仕方をしているからやまとことばが使われるのだ。
「やまとことばは美しい」という合意だけでやまとことばを守ろうなんて、安直なのだ。
そんな合意のない不安定な生き方をしていたら、自然にやまとことばのタッチになってくる。そういうことを、現在の若者たちが教えてくれている。
中西進氏は、やまとことばの「とこ」は「永遠」という意味だと説明してくれるが、それは納得できない。
「とこ」とは、「ここが世界のすべてだ」という感慨の表出であり、「永遠」とは反対の感慨なのだ。そうでなければ、「とこ」ということばの説明はつかない。
電話で「今、めし食ってるとこ」というときの「とこ」には、「今ここが私の世界のすべてです」という感慨がメッセージされている。そしてそれは、縄文人が自分たちの住居の床土のことを「とこ」といったのと同じ表現のタッチなのだ。
「とこ」とは、区切られたスペースのこと、すなわち「ここが世界のすべてだ」という感慨。
「床(とこ)屋」というのは、江戸時代には、そこにいろんな階層の人々が集まってきてことばを交わしあい、世界や人間存在の縮図のようになっているところだったからだ。「床屋談義」というじゃないですか。
中西氏のいうように「そこで髪や髭という人間の命を扱い、人間の命の<とこ=永遠>を止揚するところだったから」ではない。
お願いだから、そんな安直でもったいぶったこじ付けでわれわれをたぶらかすのはやめていただきたい。
そんなていどの低い語源解釈で、どうして「目からうろこです」というような感想がもてよう。
とりあえずこのシリーズのスタートのはずみをつけるために、ちょいと毒づいてみました。
やまとことばの語源解釈を、辞典や研究者の説明に挑戦して、根底から問い直してみたいのです。