アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・17

ユダヤ人は、たしかに何千年にもわたってひどい迫害を受けつづけてきた人たちです。
しかし迫害してしまう者たちもまた、悲劇を演じさせられている当事者であったのではないでしょうか。
僕はその行為や思考を、「私家版・ユダヤ文化論」の著者である内田樹氏のように、人間の「凶悪さ」や「愚鈍さ」と解釈してしまうことはできない。それを「凶悪さ」や「愚鈍さ」というのなら、同じ要素が、迫害されるがわにもある。ユダヤ的知性そのものが、ある種の「凶悪さ」や「愚鈍さ」や図々しさを秘めている。
「凡愚」という言葉には、深い意味がある。それは、知性を解体することのできるさらに聡明な知性なのだ。そしてそれは、なにも悟りを開いた僧侶だけの専売特許でもない。誰の中にもある心のはたらきにほかならない。凡庸にならなければ誰も愛せないし、誰もが凡庸になって誰かを愛している。そうやって世の中が動いている。
あんなあほが東大で俺がどうして三流私大なんだ、と思っている若者がいるとすれば、その不満はもしかしたら正しい。知性は、学力だけでは測れない。相対性理論をとうとうと解説しているときと、空の青さが目にしみて泣きそうになっているときと、どちらが知性的に頭がはたらいているときだろうか。
空の青さが目にしみて泣きそうになるなんて、人間にしかできないことだ。そのとき彼は、人類の歴史を背負って空の青さと向き合っているのかもしれない。気取っていえば、「知の構築」とは、そういう方向に向かって下りてゆく運動のことだ。
ユダヤ的知性はイノベーションである」などと言って浮れている場合ではないのだ。それこそ、とても「凶悪」で「愚鈍」で「恥知らず」な知性であるのかもしれない。
また、反ユダヤ主義者の「凶悪」で「愚鈍」で「恥知らず」な言説が人々の心を動かすとき、知性を解体しながら伝統の中に溶けてゆこうとしている人びとがどれほど追いつめられているかという「情況」がある。たとえその言説が「凶悪」で「愚鈍」で「恥知らず」であっても、説得される人々も同じだとはかぎらない。とても知的な女性が無学で軽薄な結婚詐欺師にころりと騙されてしまうこともあるように、人びとの心が説得されてしまうくらい弱っているからかもしれない。ヒットラーの扇動がドイツを席巻したとき、そんな情況があったのではないかと僕は想像する。
そのときむりやりユダヤ人を生贄に仕立て上げたのだ・・・・・・という解釈は。正確ではない。むりやりのこじつけだけなら、誰も乗ってこない。内田氏は、「ユダヤ人差別は幻想である」という。その通りだと思う。「イノベーション(革新)」の知性が闊歩する幻想情況というのは、民衆にとって、ときに耐えがたいものがある。そういう「幻想情況」をいったい誰がつくっているのかと考えたとき、ユダヤ人が名指しされるのだ。
たとえその状況をユダヤ人だけがつくっているわけではないにせよ、なんといってもユダヤ人はそのトップランナーだし、幻想としての象徴でもあるのだ。
人類の歴史において、イノベーターが生贄にされることはしばしば起きる。それは、この生がそうした進歩的革新的な知性を解体して人間の本性を取り戻そうとする衝動を含んでいるからだ。
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絶世の美女のアイドルスターよりも、そばにいる彼女を大事にしようとするしおらしい気持は、誰だって起きてくるでしょう。まあ、そんなようなことです。
そしてそういうことを、世の識者たちは、アイドルを彼女にすることは不可能だからしかたなくそうするのだ、といい、当人もそんなふうに思いがちです。しかしそれは、彼らの観念が、そう思い込んでしまうほどに近代合理主義に侵されているからだ。
ほんとうは誰だって、遠くのバーチャルな存在より、目の前にいる確かな存在に心を動かされてしまう原始的本性的な衝動を持っている。ブスとぶ男がくっつけば、しょうがなくそうしているだけだともいえない。目の前にいる相手が女(男)のすべてだと思ってしまう心がどこかではたらいているからだ。そういう心のはたらきを誰もがどこかしらに持っているから、この世の中では誰もがカップルになるのであり、そういう本性的な心のはたらきを否定する近代合理主義という思想がはびこっているから、結婚しない男女が増えてくるのだ。
ブスやぶ男だから結婚しないのではない。たとえ美男美女であっても、バーチャルな存在に対するイメージが先走りして、そういうイメージを追いかけようとする欲望が強すぎるから、結婚できなくなってゆくのだ。
そして、ユダヤ人は、そういうもっとも原始的本性的な衝動と、もっとも近代合理主義的なバーチャルな他者(=幻想)とのネットワークをつくってゆこうとする衝動との両方を抱えているのであり、その社会においてユダヤ人による後者の観念性や行動性が目立ってきたとき、地元民の原始的本性的な衝動が彼らを迫害しようとする動きに結びついてゆくのだ。
ただ、現代社会はだれもがバーチャルな他者とのネットワークをつくってゆこうとする欲望をみなぎらせているから、ユダヤ人のそうした一面をうらやむことはあっても、非難しようとする感情は起きてこない。
そうして、ナチスの大虐殺を思い出すとき、ヒットラーだけでなくドイツ人すべてが極悪人であったかのような言説が生まれてくる。たぶん、そういう言説は、もっとも近代合理主義的な観念に染まったアメリカが主導している。そう言ってアメリカ人は、自分たちだけが清廉潔白なような顔をしている。近代合理主義のせいかどうかは知らないが、現代人の知性は、なんだかひどく中途半端に上昇するだけで、解体してゆくことにまでたどり着けない。
たしかにそれは、極悪非道な行為だったかもしれないが、誰が犯人かとか、ドイツ人がそのとき「凶悪」な人間になってしまっていたとか、そんなことを言ってもしょうがないのだ。それは、どうしようもない歴史の「運命」だったのだ。大量虐殺することは極悪非道にちがいないが、それをしてしまった人びとの心が極悪非道だったかということなどわからない。粛々とユダヤ人の死体の山を処理していた人は、そのとき頭が麻痺していただけだったのかもしれない。麻痺しなければできることじゃない、と思う。
「凶悪」で「愚鈍」な心とは、どんな心なのか。内田氏は、それは自分の心がサンプルだから誰よりもよくわかっているというが、僕にはさっぱりわからない。
それをそういう心がしたことにして、人の心を善だ悪だと決めつける心だって、けっこうひどいもんだと思う。善や悪で人を選別するなんて、あまり知性的な思考だとも思えない。そうやって善だの悪だのをどこまでも追求してゆくことのできる知性というのも、けっこう「凶悪」で「愚鈍」なのではないかと思える。
そのときドイツ人は、善も悪も解体してしまったのです。そういう知性を解体してしまう知性のはたらきは、因果なことに知性そのものの本性なのだ。未開の地の原住民がそういうことをしたのではない。マルクスやカントを生んだもっとも知性的哲学的な国民が、そんなことをしてしまったのです。それは、知性の運動の法則として、善や悪を考える知性そのものを解体してしまうはたらきを持っているからでしょう。20世紀のもっとも知性的な国民だからこそ、ヒットラーにしてやられたのだ。馬鹿だったら、あんな荒唐無稽の話を受け入れるだけの知性はない。
そして、ユダヤ人もまた、みずからの知性を解体してしまい、その暴挙に抵抗することができなかった。つまり、生きようとする世俗的な知性を解体し、選ばれた民として受難は甘んじて受け入れよと説く神との関係に入っていってしまった。
そのときナチスは、それまでの権力者のようにユダヤ人であることをやめよと命令したのではなく、ユダヤ人であれ、と迫ったのです。抵抗できなかったわけは、そんなところにもあるのかもしれない。近世において狭苦しい「ゲットー」に詰め込まれたときにせよ、ユダヤ人であれと迫られることには、彼らはわりと従順だった。
彼らにとってそれは、神の命令でもあった。