アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・5

反ユダヤ主義者だって、人と仲良くして生きていきたいからこそ、仲良くできそうもないユダヤ人が邪魔だという。差別したり迫害したり戦争をしたりする行為も、元をただせば、そういう他者との関係をスムーズにしたいという本性的な衝動から生まれてきている。
ヨーロッパ人は、なぜユダヤ人との関係に失敗するのか。「ユダヤ人が優秀だからである」という「私家版・ユダヤ文化論」の著者である内田樹氏の説明は、それはたしかにそうなのだけれど、どんなふうに優秀なのかという説明は、いまいち物足りない。それに、迫害するがわは「悪」で、されるがわは「善」だという図式も、やっぱりステレオタイプに過ぎるのではないかと思えます。
上げ足取りみたいだけど・・・・・・内田氏が賛辞を送るレヴィナスは、ユダヤ教徒は「善」なる存在として甘んじて迫害を引き受けなければならない、というのだが、それは、迫害するがわを「悪」とみなしている、ということです。しかし「悪」とみなしてしまったら、その迫害を甘んじて引き受けることはできない。そうではなく、選ばれた民に試練を与えようとする神に遣わされた存在なのだとみなすことによって、はじめて引き受けることができる。みずからを「善」と自覚することも相手を「悪」とみなすことも、その決定的な不可能性に身を置くことが、「迫害を引き受ける」という態度なのではないでしょうか。
つまり、「善」とか「悪」と認識する「知性」を解体してしまうこと、それがユダヤ教徒のとるべき受難の態度である、ということではないでしょうか。
じっさい、ナチスに連行されてゆくユダヤ人たちは、ナチスを悪だともみずからを善だとも思っていなかったでしょう。「これは、自分が神に選ばれた民であることを証明するための試練である」と思っていただけでしょう。
ユダヤ人は、「神に選ばれた民である」のではない、「神に選ばれた民になる」のだ。生きることは、「神に選ばれた民」になるいとなみである。そういう思考の流儀が、彼らを従順にしてしまったのでしょう。彼らは、そういうプレッシャーをみずからに課して生きているから、限りなく知性を上昇させることもできるし、深く知性を解体してゆくこともできる。深く知性を解体して、ナチスを悪だとみなすこともみずからを善だと認識することも放棄した。
だからといって僕は、ユダヤ人を賛美しようというつもりもないですよ。善も悪も解体してしまうから、えげつない金貸しにもなれるわけで。
人間は、何ものかになろうとする存在である。ユダヤ人が「神に選ばれた民」になろうとするなら、迫害するがわのドイツ人だって、たぶん同じような衝動にひたされ、善も悪も解体していった。彼らだって、このままの自分でいたくなかった。確かなドイツ人になりたかった。現在の自分にたいする不快感とか苦悩ということでいうなら、ドイツ人こそ、第一次大戦後の疲労と不況の中で、ヨーロッパでいちばん深くそれが身にしみている国民だったのだ。
自分を懐疑することは、ユダヤ人だけの専売特許ではない。内田氏だって「これは程度の問題だ」といいながら、反ユダヤ主義者は「自分に充足している人間である」などともいう。そんなのうてんきな人間がいるものか。人間であるということは、自分を懐疑するということだ。
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人間は、直立二足歩行する生き物です。二本の足で立って歩くことは、生き物として嘘の自分になることだし、そういう姿勢の不安定さや、胸、腹、性器等の急所を外に晒してしまっていることの不安や不快はつねにつきまとっている。であれば、誰だってまず自分を疑うし、自分が自分であることの不快さはつねに疼いている。
しかし他者との出会いにおいて、他者に反応しているとき、そうした自分にたいするこだわりは消えている。この体験の醍醐味こそ、直立二足歩行という不安定な姿勢を常態にすることを成り立たせているのであり、自分にたいするこだわりを消してしまおうとすることは、人間の本性なのだ。直立二足歩行すれば、視界は一挙に開けるし、他者と抱きしめあうこともできる。自分にたいするこだわりをより深く抱きつつ、よりダイナミックにそれを消してしまえること、それが直立二足歩行の醍醐味なのだ。
現象学者は「意識はつねに何かについての意識である」と言っているが、それは、「つねに何かの意識」になってしまって、「何か」以外の意識を同時にもつことができない、すなわち他者と自分を同時に意識することはできない、ということです。他者に反応しているときの意識は、自分のことは忘れてしまっている。鬱陶しい自分が消えてしまうことのカタルシス。そういう他者との関係の体験が蓄積されてゆくことが、人間の歴史であり「伝統」なのだ。
したがって地元民である反ユダヤ主義者は、自分にたいするこだわりが消えてしまう体験をたくさんしているし、こだわりを消してしまえる他者との関係の「作法」を持っている。
すなわち、そういう作法=伝統を捨ててかかって共同体に入り込んでくるのがユダヤ人であり、いつの間にか持たないことのアドバンテージによって特権的な地位におさまってしまうから、地元民がいらだち怖れるのだ。
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他者との競争を勝ち抜くためには、自分を強く持つことです。しかし、他者と抱きしめ合って得られる醍醐味は、自分の身体にたいする意識が消えて相手の身体ばかりを感じてしまうことにある。それが、抱きしめ合うことの「実存」です。
であれば、内田氏が擁護するユダヤ人の「自分にたいするこだわり」こそ、じつはきわめて非実存的で制度的な態度であり生き方なのです。
彼らは、そういう態度を持たなければ、共同体に入り込んでゆけない。
ユダヤ人にとって他者=隣人は排除するべき競争相手であり、そのとき彼はけんめいに自分と共同体との関係をはかっている。自分がどれだけ共同体の制度を活用し得ているか、そんなことばかり考えているのが、特権的な立場を獲得してゆくユダヤ人の態度です。内田氏のいう、ユダヤ人が自問する「どのような社会的機能を果たしているか、他者とどのように関わっているのか、どのような歴史的使命が託されているのか」というようなことは、ようするにそういう他者を喪失した制度的な態度のことです。「どのように歴史的使命が託されているか」ということを考えながら、隣人を押しのけてのし上がってゆく自分を正当化してゆく。僕はそんな人間とお友達にはなりたくないし、のし上がってそのような理屈を振りかざしてくるから、地元民はいらだち怖れるのだ。また、「他者とどのように関わっているか」だなんて、関わっている自分のことばかり考えて、他者のことなんかなんにも考えていない。「意識はつねに何かについての意識」であり、そこまで自分のことにこだわってばかりいれば、他者(隣人)が存在することの感触なんか、味わえるはずがない。
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レヴィナス先生だって、「私は根源的に他者にたいする責務を負っている」とか「私は他者に従属している」とか、けっきょく「私」を語るための材料としてしか他者を語っていない。それが、ユダヤ人の特権的な「知性」らしい。
共同体の中で生きてきた地元民と、よそからやって来たユダヤ人。どちらが制度的な存在かといえば、じつはユダヤ人のほうであり、地元民のほうがずっと制度性から離れた本性的な生き方をしているのです。制度性の鬱陶しさは地元民にしかわからない。ユダヤ人は、それを利用しようとするばかりで、なんにもそんなことは感じていない。だから、のうのうと「どのように歴史的使命が託されているか」などという傲慢なことを考えることができるのだ。
人間は、歴史に溶けていっている存在であって、人間が歴史をつくっているわけではない。誰もが、歴史の「結果」として存在しているのであって、「歴史的使命」を託されている人間などいないのだ。まあ、内田氏がこんな書き方をしたのは、彼のたんなる言葉の趣味かもしれないのだが。
いずれにせよ、執拗に「自分」にこだわるユダヤ的知性を特権化しようなんて、あんまりいい趣味だとは思えない。それこそが地元民との間の根源的な齟齬になっていること、そして人間の本性に根ざした思考は地元民のほうにあるということ、しかし人間はみずからの本性から逸脱してゆこうとする存在でもあるということ、そうやって問題は、ますますややこしくなってくる。
とりあえず僕がここで言いたかったのは、地元民=反ユダヤ主義者は制度的な思考の持ち主で優秀なユダヤ人は人間の本性を体現しているのだというような図式は成り立たない、それはむしろ逆なのだ、ということです。彼らは、地元民よりももっと制度的だからこそ、地元民を凌駕して特権的な地位を獲得していけるわけで、単純にそうした階級を獲得したユダヤ人が優れているとか、そんなことじゃない。
ノーベル賞をとったユダヤ人がたくさんいるとか、偉い芸術家や映画監督がたくさんいるとか、世界を支配するような大金持ちがいるとか、そんなことでユダヤ人の優秀さを語ろうなんてくだらない。考えることが安直すぎる。
けっきょく「情況」の問題なのだ。「情況」さえ与えられれば、ユダヤ人は、ヨーロッパ地元民よりももっと「地元民」になりきって知性を解体してゆくことができる。
ただ彼らは、国家というような大きな規模の共同体の「地元民」にはなれないようなところがあって、彼らにちょうどよい集団の単位はもっと小さな原始的村落的な規模であるらしい。だから、世界中に四散してしまう。