アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・6

人類の歴史として、反ユダヤ主義を考えてみます
よそ者として共同体に入り込んできたユダヤ人は、隣人の存在にときめいたり煩わされたりはしない。彼らは、世界中に散らばっているユダヤ人どうしのネットワークで活動している。
地域ごとが都市国家としてたがいに自立してゆく歴史を歩んできたヨーロッパ人にとってそれは、まったく異質なメンタリティを感じさせる行動様式でしょう。
ユダヤ人は、地域共同体に対する忠誠心も愛着もない。
たとえば、ドイツを愛するドイツ(アーリア)民族の目に、そんな感情などさらさらなくヨーロッパや世界をまたにかけて活動するドイツ国籍のユダヤ人は、どのように映ったでしょう。
キリスト教徒とユダヤ教徒では、庶民どうしの日常感覚も、ずいぶん違ったものであったのかもしれない。
ユダヤ人のメンタリティをつくっていた一番のものはユダヤ教であろうし、次に、ユダヤ人どうしのネットワークが緊密で、すでにそれじたいが地域共同体のような機能を持っていた。ヨーロッパのユダヤ人が離ればなれに暮らしながら、それでも色濃くユダヤ的な文化やメンタリティを長く共有しつづけてきたということは、彼らがそれほどにネットワークを大切にし、それほどに地域の隣人に対する感情が希薄だったということを意味する。
彼らは、近くの他人より遠くの親戚、という流儀だった。
彼らのネットワークが緊密であるのは、ユダヤ教という共通の絆の上に成り立っているからだろう。
ユダヤ教ユダヤ人をつくっている。
彼らが地域の隣人に冷淡であるのは、「ユダヤ教徒は神に選ばれた民である」という選民意識があるからだ。だから彼らは神に忠実で、神のためには、平気で、隣人もせっかく住み着いた共同体も捨てることができる。
彼らは、神との関係で生きている。神と自分との関係で生きている。隣人なんかどうでもいい、神が隣人なのだ。
彼らは、「隣人という他者」を喪失するほかない状況を負って存在している。彼らの生きる流儀は、地元民のそれとは、かなり矛盾している。第三者から見れば、そりゃあ殺し合いになるだろうな、と思わざるを得ない対立の構造がある。まあ「一部のユダヤ人」に関して言えば、ですけどね。ユダヤ教は、そういう人間をつくってしまう側面も持っている。
ガン細胞のように共同体に入り込んで特権階級に登りつめてゆく一部のユダヤ人は、人間の本性を喪失している。キリスト教徒であるヨーロッパ地元民が人間の本性に立ち返ろうとする存在であるとすれば、彼らは、人間の本性から逸脱しようとしている。そして因果なことに人間は、本性に立ち返ろうとする存在であると同時に、本性から逸脱しようとする存在でもある。
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キリスト教は、ユダヤ教から派生してきた宗教です。すなわちユダヤ人であるキリストは、ユダヤ教のそうした傾向にうんざりし、人間の本性に立ち返ろうとした。派生してきたからといって、両者は同類だともいえない。決定的な対立がある。内田氏は、キリスト教徒である反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎む構造をフロイトの説を引用しながら「父殺し」の衝動として説明してくれるが、まあそういうニュアンスがあるとしても、それだけの論理でユダヤ人の「優秀さ」が免責され、反ユダヤ主義者のいらだちや怖れのわけを説明しきれるというものでもないでしょう。
ユダヤ人を抹殺しようとする動きは、キリスト教が生まれる1000年以上前から何度もあったのです。つまり、キリスト教が生まれるずっと前からユダヤ教があり、そのときからすでにユダヤ人はユダヤ人として憎まれることがあったのです。それは、「父殺し」の衝動では説明がつかないことであるはずです。
とくに古代ギリシア人は、ひどくユダヤ人を嫌っていたらしい。なぜならギリシア人は、都市国家として狭い地域で結束して自立し、都市国家うしのネットワークを拒否してゆくことをアイデンティティとしていたから、ネットワークを優先して隣人を愛そうとしないユダヤ人が許せなかった。
そして古代ギリシアがその結束の強さ(隣人愛)ゆえに没落してゆき、それと入れ替わるようにネットワーク主義のユダヤ人が、やがてローマ帝国によって支配されてゆくヨーロッパに散らばるようにして進出していった。とすればユダヤ人はまさに、そのヨーロッパ的弱点(あるいは美質)を凌駕する新しい思想集団としてヨーロッパの歴史に登場し、現在にいたっているのです。
ユダヤ人は、ローマ時代の最初のころは、特権階級だったのです。それが、キリスト教が普及してゆくにつれ、しだいに迫害されてゆくようになる。キリストは、ユダヤ人であるがゆえに、誰よりもユダヤ人の暗い部分をよく知っていた。キリスト教が、ユダヤ人=ユダヤ教を告発する宗教として生まれてきたのは周知の通りです。
人間の本性から逸脱しようとする衝動と、人間の本性に立ち返ろうとする衝動。このアンビバレントな衝動を併せ持つことによって、人間は人間たり得ている。そこに、ユダヤ人と反ユダヤ主義者との対立がある。単純に、「父殺し」の衝動なんて言ってもらいたくない。
イノベーション」とは、「革新」というような意味でしょうか。この知性を持ったことによって人類の文明は進化してきた。それは、人間の本性から逸脱しようとする衝動であり、この知性を、ユダヤ人は民族の属性としてそなえている。そしてそれを、内田氏や一般の人びとがユダヤ人の「優秀さ」として擁護するのは勝手だが、反ユダヤ者主義者が「だからこそユダヤ人は醜いのだ」と憎悪することも、僕はよう否定しない。
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ユダヤ人は、ユダヤ教を否定されることには、徹底的に抵抗する。共同体の掟=法よりも、ユダヤ教の律法を優先する。彼らはローマ帝政時代に故国イスラエルを放逐されたのだが、それは、ローマ市民でありながら、ユダヤ教の律法と矛盾するローマの法律に従うことを拒んで徹底抗戦を挑んでいったからだった。それは、帝政ローマ時代の、もっとも大きな戦争のひとつだった。100万近いイスラエル国民はほとんど皆殺しで、生き残った者もみな奴隷として売り飛ばされた(もっともそのころすでにユダヤ人は「ディアスポラ(離散者)」としてヨーロッパ中に拡散していたから、その数は全ユダヤ人の1割くらいにすぎないだろうといわれている)。
それにたいして現代のヒットラーは、ユダヤ教を否定しなかった。宗教の問題ではなく、あくまで人種の問題としてユダヤ人を否定した。そしてユダヤ人じしんも、みずからがユダヤ人であることを否定しつつ神の民たらんとしている。彼らは、何千年も、みずからがユダヤ人であることを懐疑し否定して生きてきたのです。
ユダヤ人とは、ユダヤ教徒のことです。身体形質のことではない。その部分では、彼らは、ヨーロッパ人そのものです。そうしてナチスは、ユダヤ人がユダヤ教を捨てることを許さなかった。現在はキリスト教徒でも、先祖がユダヤ教徒であったというだけで、ユダヤ人の烙印を押された。
ユダヤ人は、みずからがユダヤ人であることを否定する習性をもっているが、ユダヤ教徒であることを否定できない宿命もまた負っている。そのダブルバインドの中で、彼らは、ナチスに抵抗する気力を失っていった。
そのとき彼らは、「殉教者」として、ヒットラーに指名され、神から選ばれたのです。だから、あれほどかたくなな民族が、たいして抵抗することなく、600万人もむざむざと殺されてしまった。
古代の支配者は、「ユダヤ教」を否定した。だから、頑強な抵抗にあった。しかしヒットラーは、「ユダヤ人」を否定しつつ、ユダヤ教徒を選別していった。
ユダヤ人じしんだって、みずからがユダヤ人であることを否定している。彼らは、自分たちがそんな地球上の一人種ではなく、神に選ばれた民だと思っている。神は、人種で選んだりはしない。どれだけ敬虔にユダヤ教の神エホバを信仰しているかというその態度や知性で選ぶ。だから彼らだって、隣人か否かで人づき合いはしない。利益になるか否か、もしくはエホバの神に選ばれているか否かで付き合う。利益になる人間は、選ばれた民がこの地球上で生き延びるためにエホバの神が遣わしてくれたのだ。彼らは、人種や民族そのものを否定する。だから利益になれば誰とだって付き合えるのだし、世界平和を願う気持にもなれる。
とにかく「選別する」という観念行為は、ユダヤ的知性の大きな属性のひとつです。彼らの知性は「選別する」ことにある、と言ってもいいくらいでしょう。あらゆる知識を吸収し選別しながら彼らは、共同体の特権的な立場に登りつめてゆく。選別することができるから、たくさんの知識を吸収することができるのです。10の知識を学んで10の知識を得たからと満足している人間は偉い学者にはなれない。そこから何かを選別できたものだけが、次のステップに進むことができるのです。10の知識で頭をいっぱいにしてしまったらもう、それ以上の知識を吸収できなくなってしまう。
彼らは、人間だって選別する。利益になる人間か、同じユダヤ教徒か、と。われわれのように、単純に目の前にいるからとか隣人だからという理由で心を動かされたりはしない。たくさん友達がいるから偉くなれるというものではない。その中には、足を引っ張る者だっている。利益になる友達だけを選別して付き合っていける者が出世するのです。
おまえたちは、神に選ばれた民だ・・・・・・ヒットラーは、そう言ってユダヤ人たちを捕まえにきたのです。それが、彼らに、身動きできなくさせる呪文として作用していった。ヒットラーは、エホバの神をなんにも否定していない。エホバの神の教えの通り、すすんで受難を引き受けよ、と迫ってきたのです。
ヒットラーは、ヨーロッパ人に溶けてゆこうとしているユダヤ人の中から、ユダヤ人=ユダヤ教徒を選別していったのです。そしてユダヤ教徒として選別されることに、彼らが抵抗できるはずもなかった。
ユダヤ教徒の中にある選民意識、それが彼らを身動きできなくさせていった。
そういう「選別する」という観念行為を、あなたはもろ手を挙げて止揚してゆくことができますか。一部のユダヤ人は、できるらしい。いや、ユダヤ人でなくても、この世の中には、それができる人とできない人はいるわけで。
「私家版・ユダヤ文化論」ではそういう能力のことを「イノベーション」といって賛辞を送っているのだが、その言葉に僕は、立ち止まって頭を抱えてしまった。