アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・7

歴史的に言えば、ユダヤ人は、内田氏のいうように、始原において「遅れてきた民族」であるのかどうかはわからない。
ユダヤ人の歴史的な起源を語るとき、いちおう常識的には、彼らはもともと遊牧民族で、遅れて共同体にやってくることを宿命づけられた存在なのだ、ということになっています。
そうだろうか。原始時代において、家畜を飼うという習俗は、定住の生活から生まれてきたはずです。最初から遊牧をしていた民族など、どこにもいない。まず定住農耕をおぼえ、その生活の中から家畜を飼うという習俗が生まれてきた。
アフリカのサバンナの民が遊牧生活を覚えたのは、ヨーロッパや西アジアの人々よりずっと遅い。たぶん彼らはみずからその習俗を覚えたのではなく、エジプトや西アジアから伝播してきた情報として知ったのだろう。
人類の歴史は、遊牧民が農耕定住に参加していったのではなく、農耕定住の生活から遊牧生活が派生してきた。
動物を飼育すること、おそらくそれはまず、そこそこ大きな群れをつくって定住生活をして人を支配することを覚えたあとに見つけ出された。動物の群れを統御することは、集団生活をして群れを統御する経験を持った者だからできる。
ユダヤ人の祖先は古代メソポタミア文明の担い手だった、といわれているのだが、その地こそ人類最初の農耕生活が生まれたところだったのです。
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彼らの先祖は、メソポタミア文明が生まれた地域の「セム族」であったということになっている。
ユダヤ教は、原始的な宗教です。つまりそれは、国家が発生する以前に成立していた宗教だということです。であれば、彼らがそういう宗教をもっているということは、最初はまとまった集団として定住していた先住民だったのではないか、ということを想像させる。
紀元前2千年3千年も前の時代に、「セム族」が世界のあちこちにいたわけではない。たぶん、そこにしかいなかった。最初からユダヤ人のネットワークがあったわけではない。ネットワークをつくってうまくやってゆけるような民族なら、その後のユダヤ人の歴史が示すように、すでにそこで特権的な地位を獲得していったにちがいない。
その地で共同体が発展してゆくとき、特権階級になってゆくのは、だいたいあとからやって来た者たちです。あとからやって来た者は、よけいな地域のしがらみがないから、どんどん人を追い落としてゆくことができる。土地を持っていないから、そうしないと生き延びることができない。
チグリス・ユーフラテス川に囲まれたメソポタミアの平原は低地だから、まわりの山岳地帯からどんどん人が流れ込んで来る。そうして大きな国家になっていったのだが、そのとき特権階級にのし上がってゆくのはいつだって「よそ者」であり、先住民であるユダヤ人の祖先たちは、孤立していった。孤立するほかない結束力を、彼らは先住民としてすでに持っていた。
国家を成り立たせている結束力は支配と被支配の関係の上に成り立っているが、先住民である彼らのそれは、もっと原始的で宗教的だった。だから彼らは、メソポタミアの共同体が国家のレベルに膨らんでゆくある段階から、その中心的な存在であることをやめて孤立していったのかもしれない。そうして追放された。
旧約聖書は、ユダヤ人の祖先のことを記した物語です。それによれば、ユダヤ人が世界に散っていったきっかけは「ノアの洪水」にあるということになっているのだが、じっさいふたつの大河にはさまれたメソポタミア平原は、とても洪水が多かったらしい。しかし洪水は必ず引くし、そのあと土地が肥沃になって作物がよく育つようになる。メソポタミアの平原は、原始的な農業であるにもかかわらず、現在の世界のどの地域よりも高い効率で小麦が収穫できるくらい肥沃であったのだとか。したがってユダヤ人の祖先だって、洪水がかならず引くことやそのあと土地が肥沃になることは、経験的に知っていたはずです。ノアの洪水伝説は、まあそういう環境から生まれてきたにちがいないのだが、洪水に見舞われたからその地を去るということは、ちょっと考えられない。世界の四大文明といわれている、ナイルでも、インダスでも、黄河でも、洪水のあとの肥沃な土地を耕しながら文明へと発展していったのです。
旧約聖書でいう洪水は、侵略者が押し寄せてきたことの比喩でしょう。
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彼らは、しだいに発展してゆく共同体に同化してゆくことができなかった。日本史でいえば、大和朝廷に追い払われた東北の在来種である熊襲のような、先住者としての「まつろわぬ者」たちであったのではないか。だから、新しく生まれてくる「共同体(国家)」というシステムになじむことができなかったのではないだろうか。ユダヤ人が共同体になじまない習俗を持っているということは、彼らの祖先がさすらう民だったことを意味するのではなく、まわりから孤立して共同体(国家)が生まれる以前の原始的な集団の結束力や世界観に執着していた、ということを意味するのではないだろうか。
メソポタミアの平原は、そのころの西アジアでもっとも肥沃な地域だった。だから、まわりのさまざまな民族が流れ込んできて、国家のレベルまでふくらんでいった。ユダヤ人だけがよそ者だったということは、ありえないのです。孤立していたとしたら、むしろ逆に先住民族だったからでしょう。そうして彼らは、民族の純血を守ろうとした。
もしもさすらう民が住み着こうとしてやってきたのなら、住み着いたことがないのだから、そういうものかと思って受け入れる。そのとき彼らが孤立主義の道を選んだということは、誰よりも先にそこに住み着いていた、ということを意味する。
彼らは、自分たちは選ばれた民だ、という自覚を持っていた。追い払われたことをトラウマに持っている人間が、自分は選ばれた人間だと思うことは不可能です。僕のように、ひがみ根性は、一生消えない。そうではなく彼らは、誰よりも先に、そのメソポタミアという栄光の地に住み着いていたからこそ、自分たちは選ばれた民だ、という自覚を共有できたのでしょう。ユダヤ人の選民意識は、彼らがもともと先住民族だったことを意味する。
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メソポタミア文明の地域は、チグリス・ユーフラテス川の流域にあった。
チグリス・ユーフラテス川は、トルコ寄りの北西から南東のペルシア湾に向かって斜めに流れています。ユダヤ人の祖先は、正確には「西セム族」というのだそうです。つまり彼らは、細長く斜めに伸びるメソポタミア平原の北西のほうに住んでいたわけです。
そのあたりは、花を供えて埋葬していたということで有名になった、ネアンデルタールのシャニダールの洞窟があるところです。
であれば、もしかしたらユダヤ人は、シャニダールのネアンデルタールの末裔であるのかもしれない。
そしてそのあたりは、メソポタミア平原でもっともヨーロッパに近い地域であり、メソポタミアの中心は、逆に南東のペルシア湾近くにあった。おそらく両方の地域では、気候も気質も、かなり違っていたでしょう。
首都あたりは、下流域だから、土地も肥沃で穀倉地帯であり、人もたくさん集まってきたにちがいない。それにたいして「西セム族」のシャニダールあたりは、文化的な後進地域であったはずだが、古くから住んでいる住民がいて、独自の文化とプライドと宗教を持っていた。彼らは、メソポタミアに従わなかった。
おそらく「西セム族」は、メソポタミアの中でも、北の土地柄でヨーロッパ的な気質が濃かったのだろうと思えます。ヨーロッパ的な気質とは、広い地域のネットワークを拒否して、狭い地域内の結束で自立してゆこうとする傾向です。自分たちが「選ばれた民」であるという自覚は、そういう原始的な結束力が強いあまりに孤立していったという状況から生まれてきたのではないだろうか。最初から追い払われてさすらってばかりいた民族なら、そんな自覚は生まれてこない。彼らは、追い払われてばかりいたから「選ばれた民」だと自覚していったのではなく、「選ばれた民」だと自覚していたから、追い払われたのだ。
「選ばれた民」だと自覚している民族は、けっして強大な国家をつくることはできないが、世界中にネットワークをつくってゆくときには、逆にその自覚が有効に機能していつまでもほころびが出ない。
彼らは、さまよえる民だったのではなく、古代メソポタミアの地で、もっとも古くからそこに住み着いて、もっとも深く原始社会の結束を体にしみ込ませている民族だったのではないだろうか。その原始的な共同体は、すでにそれ自体として完成されてしまっていたために、国家になることに失敗した。しかしだからこそ、その後の歴史において、もっとも広範な世界ネットワークを築いてゆくことができた。