アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・9

「私家版・ユダヤ文化論」の締めくくりとして、最後にちょっと難解な書き方をしている部分があります。たぶん、著者である内田樹氏のいちばん言いたかったことなのだろうから、そこのところをちょいとつついてみます。
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ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において(レヴィナスの述語を借りていえば「始原の遅れ」を引きずって)はじめて歴史に登場する。
そのつどすでに遅れて登場するもの
 この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(というより端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
(・・・中略・・・)
 ユダヤ人は、自分たちが「遅れてこの世界に到来した」という自覚によって、他の諸国民と差別化を果たした。私はそう考えている。
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少なくともユダヤ人の歴史的な出発において「他の諸国民と差別化を果たしている」のは、「すでにこの世界に存在している」という先住民としての自覚なのだ、と僕は思っている。彼らは、国家の共同性に先んじてすでに完成された原始的宗教的な共同性を持ってしまった民族である、と前回と前々回に書いたつもりです。
それは、まあいい。ここで言われていることは、もっと哲学的なことだ。
「遅れてこの世界に到来した」という自覚は、レヴィナスの言う通り、たしかに他者=世界との関係の本質であろうと思います。
原初的な「意識」は、世界を見ようとして見るのではなく、見えてしまったものにたいする「反応」として発生し、しかるのちに「私」が生起する。意識より先に、まず脳との目の機能が世界をとらえてしまっている。だから意識はつねに「遅れてこの世界に到来した」という自覚とともに発生するほかない宿命を負っている。
しかし本質だからこそ、それは、「他の諸国民と差別化を果たした」ものではなく、誰の中にもある意識であるはずです。
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地元民がよそ者であるユダヤ人にいらだち怖れるのは、よそ者のくせに「すでにこの世界に存在している」者のような顔をして地元民を置き去りにしていってしまうところです。一部のユダヤ人の、カネとか地位とか名誉とか、そういう世俗的な野心の強さは尋常ではない。それをどう説明するのか。
彼らは、そういう両極端の二面性を持っている。何かにつけて両義的なのだ。ユダヤ人ほど外部的な存在もいないと同時に、彼らはどの民族よりも内部的制度的なメンタリティも持っていて、まるでガン細胞のように共同体の中枢に巣食って増殖してゆく。
反ユダヤ主義者は、ユダヤ人ほど賄賂を贈ることが上手でその行為になんの後ろめたさもおぼえない民族もない、と言っていらだつ。それは、おそらく的外れな言いがかりともいえないでしょう。
「遅れてこの世界に到来した」と自覚している者であるのなら、地元民を置き去りにして特権階級に入り込んでいったりはしない。だから地元民は、遅れてきた者なら遅れてきた者らしく受難を受け入れよ、と迫る。
地元民だって、「遅れてこの世界に到来した」者として、他者(隣人)との関係にこだわりながら生きているわけで、この本質においてユダヤ人だけを特権化することはできない。「愚かさ」だろうと「凶悪さ」だろうと、人は「遅れてこの世界に到来した」者として世界に反応している。「反応する」ということじたいが、そういう「始原の遅れ」の上に成り立っているのだ。
つまり、このような「意識」の普遍的で根源的なはたらきであろうことをユダヤ人の特質だと言ってしまえるということは、このことを内田氏じしんは言うだけであまり骨身にしみて自覚していないのではないか、と勘ぐりたくもなる。
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内田氏は、こう続けます。
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もちろん「造物主」が世界を造り、それに遅れて「被造物」が到来したというシーケンシャルな創造説話はどのような宗教にも共通している。だが、ユダヤ人の被造意識はそのようなものとは違う。ユダヤ人はむしろ、私たちが「被造物」としてこの世界に現に到来したという原事実から出発して、「造物主」が世界を創造したという「一度として現実になったことのない過去」を事後的に構築しようとしたのである。
(・・・中略・・・)
宗教、あるいは端的に「神」という概念がどのように生まれたのかについては広く承認されている理論がある。罪深い行為がまず行われ、それが無意識に抑圧されるとき、その有責感が外部に投影され、「強力な迫害者」の形象をとって戻ってくる。フロイトはこれを「原父殺害」というシナリオに則して論じた。
(・・・中略・・・)
私たちが確認しておかなければならないのは、「原父殺害」は宗教の起源であると同時に反ユダヤ主義者の起源でもあったということである。
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「起源論」については、僕もおおいに興味があるところです。しかし、こんなふうに語られても、納得できない。
ここでいわれていることは、ようするにユダヤ人は、人間が醜く罪深い存在であることに対する「神」のアリバイを証明してみせた、ということでしょう。つまり、言い訳を取り繕って自分を正当化するのがめちゃめちゃ上手な民族だ、ということです。弁護士をたのむなら、ユダヤ人にかぎる。
われわれは、神に造られた存在として、「一度として現実になったことのない過去」を負って存在している・・・・・・つまり、われわれは「父殺し」などしたことはないが、すでに「父殺し」をした者として存在している。そういう他者にたいする根源的な「後ろめたさ」、あるいは他者よりも「遅れてこの世界に到来した」という負い目は、誰もが「すでに父殺しを犯してしまっている存在」であることからきている。そういう「自覚」をもてというのが、ユダヤ教の教えであり、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人によって誰もが負っているそういう「原罪」を突きつけられるから、それにいらだちそれをもみ消そうとしてユダヤ人を迫害するのだ。そういう原罪を進んで受け入れているのはユダヤ人あるいはユダヤ教特有のものだ、と内田氏は言っている。
共同体(国家)はそういう物語を拒否する論理の上に成り立っている。だからユダヤ人は国家をもたない不安に耐えて生きてゆけるし、反ユダヤ主義者は国家に組み込まれてのうのうと生きている、両者の違いはそういうところにある、というわけです。
そうでしょうか。まず、その「原父殺害」という説明が、なにやらいかがわしい。
ユダヤ教の創造説話である「旧約聖書」では、人類史のもっとも原初的な集団は、父が支配する社会だった、それを息子たちが力を合わせて父を殺し「兄弟社会」を実現させた、となっている。だからわれわれは「すでに父殺しの罪を負っている存在である」というわけです。
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しかし、チンパンジーの群れの例からもわかるように、もっとも原初的な社会ではおそらく乱婚状態だったのであり、父が誰であるかなんて知りようもなかったはずです。
氷河期であった5万年前、アフリカのサバンナの人々は家族的小集団で移動生活をしていたから、それは、父が支配する社会だったといえます。それにたいして西アジアからヨーロッパにかけての地域では、寒さのために大きな群れ社会としてまとまり、乱婚の母系社会をつくっていた。乱婚=フリーセックスだから、父親が誰であるかなどわかりようもなかった。
父殺しの説話は、アフリカから伝わってきたのでしょうか。一夫多妻の集団で、父が女を独占していれば、息子たちが結束して父を殺してしまうことも起きていたかもしれない。
しかしヨーロッパは、レディファーストの母系社会として始まっている。父親が誰であるかなどわからない伝統を持った地域で、「ユダヤ教キリスト教」という父殺しの物語を持った宗教で暮らしていることの矛盾。ヨーロッパ人の「父殺し」の原罪意識は、彼らの社会が旧約聖書のそうした物語によってつくられた観念空間になっていることから生まれてくるのかもしれない。たぶんそんな物語は、原初のヨーロッパにはなかったのです。もちろん、きわめてヨーロッパ的であったユダヤ人の起源においても、おそらく似たような社会形態であったはずです。
ヨーロッパ人は、父殺しの原罪意識を抱きつつ、その物語の理不尽さにいらだってもいる。ヨーロッパの男たちが家のことを妻に任せきりにしないでわりとこまめに協力してゆくのは、そうしないと息子に殺されるかもしれないという強迫観念があるからでしょう。そして、そのよけいな態度が、息子に「父殺し」の衝動を抱かせる。この悪循環に、彼らは縛られている。
ユダヤ教キリスト教の物語がヨーロッパ人の観念を混乱させ、その混乱を収拾してゆこうとするかたちで彼らの学問や思想が発達してきた。そしてそういう観念的混乱をユダヤ人はすすんで引き受けているが、ヨーロッパ地元民は無意識的な強迫観念として抱かされており、それが顕在化するとき、反ユダヤ主義になる。
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原初のヨーロッパ的乱婚集団が共同体へと発展してゆくとき、その混乱を収拾するために「家族」という単位を挿入した。そこではじめて彼らは「父」という存在を知ったのであり、「父殺し」の衝動こそ、原初の群れのかたちではなく、国家的共同体の成立とともに起きてきた衝動にほかならない。
もしも人類が国家の成立以前に「神」という概念をすでに持っていたのだとしたら、「父殺し」の衝動は、内田氏の言うような「宗教の起源」でもなんでもないことになる。
2万年前のヨーロッパ・クロマニヨンは、頭がライオンで体は人間という半獣半人の彫刻をつくっている。この伝統がギリシア神話の「ケンタウロス」などのイメージを生んだのだとしたら、彼らは2万年前の国家をもたないその時点ですでに「神」という概念を持っていたことになります。
宗教の起源は、あくまで人間と自然との関係から生まれてきたのであり、「人殺し=父殺し」をおぼえたからではない。人殺しをおぼえるずっと前から、すでに宗教はあったのだ。
この章で内田氏は、フロイトの「神とは要するに高められた父にほかならない」という理論を援用して説明しているのだが、そんなものは人間の根源でもなんでもないし、したがって「父殺し」の物語がユダヤ教の「根源性」を証明するものにもならないはずです。ヨーロッパ人(反ユダヤ主義者)は、ユダヤ教の根源性に強迫されているのではない。「父不在」のヨーロッパの伝統に矛盾した「父殺し」という制度性をヨーロッパに持ち込んだ張本人として、つまり人間性の根源から逸脱したその下品な「俗物根性」に強迫されているのだ。
「父殺し」が人間の起源だなんて、ずいぶん俗っぽい宗教だ。「父殺し」が生まれてくるのは、共同体の制度性の問題であって、人間性の問題ではない。ユダヤ教がなぜ「父殺し」を問題にしなければならなかったのか。それは、ユダヤ教の成立が、共同体の発生と関わっているからだ。「父殺し」は、共同体の問題であって、根源的な宗教の問題ではない。「父殺し」をあたかも人間性の根源の問題だと考えねばならならないところに、ヨーロッパの不幸がある。いったい、誰がそう考えさせているのか。
この世に、「父」などという存在が、はたして存在するのか。まず、そのことが問われねばならない。反ユダヤ主義は、そういう問いとして生まれてくるのだ。
ユダヤ人の一夫多妻の習俗は、「父殺し」を生む。一夫多妻の社会では、女は、恋をするよりも生活力で男を選ぶ。そこで生活力のない若者は、そういう制度の壁を前にして、いらだち絶望する。
それにたいして、女も恋をするヨーロッパ的乱婚社会においては、「父」は存在しない。
「レディファースト」とは、「父不在」の文化なのだ。ヨーロッパの真の伝統は、おそらくそういう文化の上に成り立っている。だから「ユダヤ教キリスト教」が彼らを苦しめるのであり、その苦しみを処理しようとして彼らの「知性」が育ってきた。ヨーロッパの栄光と不幸の一部は、ユダヤ人が持ち込んだ宗教(思想)から発している。
ヨーロッパで反ユダヤ主義が生まれてくるのは、単なる「ねたみ」からだけではない。