アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・13

「私家版・ユダヤ文化論」の著者である内田樹氏は、「端的に人間的であることを目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである」と言っています。ほんとうにすべてのユダヤ人が「人間的であろうとする」存在であるのかどうかよくわからないが、そんなものは、いやらしいスケベ根性に過ぎない。
われわれは、「すでに人間的である」から、いまさら「人間的であろう」となんかしない。というか、「すでに人間的である」ことにおいてしか「人間的である」ことはできないと思っている。
べつにむずかしいことじゃない。他者との出会いに思わずときめいてしまうこと。それが「人間性」だと思っている。ときめこうとしてときめくのではない。思わずときめいてしまうのだ。そしてそれこそが、直立二足歩行というどうしようもなく危険で不安定な姿勢によってもたらされた唯一の果実にほかならない。
ユダヤ人が「選ばれた民」であると自覚しているとき、他の民族を「他者」と見る視線を喪失している。そのとき彼らは、「自分は人間的であるか」と問いながら自分との関係に入り込み、他の民族など「こいつは自分の利益になるか」という物差しではかっているにすぎない。ユダヤ人にあっては、まず自分が先にあって、他者はそのあとにあらわれる。そのとき、内田氏がユダヤ人の特性として言う「始原の遅れ」などという心性は、どこにもない。それはたしかに「主体的」ではあるが、「人間的」だとはいえない。
そうやってたえず「自分」を問い続けること、すなわち主体的に「人間的であろうとする」ことが、ほんとうに「人間的」なのですか。「自分」を問い続けることは、「始原の遅れ」ではない。
直立二足歩行は、「自分」を喪失することによって「他者」を発見する姿勢です。自分を喪失して他者を発見することが、「人間的である」ことなのではないだろうか。「人間的であろうとする」主体性を喪失しているとき、われわれは「すでに人間的である」のではないだろうか。
であれば、子供を「間引き」した母親が「自分は罪を犯した」と問う必要はないし、異常や奇形のある子を育てる村の長者が主体的に自分は「人間的である」と確認することなんか人間的でもなんでもない、ということになる。
しかしだからといって、異常や奇形のある子を「間引き」してもかまわないと言うつもりはないですよ。そりゃあ、そういう子を誰もが当たり前のように育てられる「状況」こそがベストであるに決まっている。そういう子を育てている「自分」を励ます必要などなく、ただもうおだやかに微笑みながら子供を見つめていられるような「状況」になればよい、と僕だって思っている。つまり、主体的に「自分」を問い続けながら「育てよう」とするのでなく、受動的に「すでに育てている」自分と子供に気づいてゆける暮らしになればよい。たぶん現在の障害児の親たちだって、そういうかたちで問題を解決していっているのだろうと思えます。
同様に、ユダヤ人の「人間的であろうとする」主体性は、彼らの不幸を意味するが、彼らが「人間的である」ことの証明にはならない。ユダヤ人は「人間的であることができない」不幸を背負っているから、「人間的であろうとする」のだ。
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われわれは、会社帰りに飲み屋に立ち寄るプライベートな時間においては、会社や国の愚痴や悪口をぶちまけあう。われわれにとって会社や国は、しかたなく受け入れている社会の制度性にほかならない。飲み屋で愚痴をぶちまけあうなんて、それはある意味でみずからの人格を解体してしまうとても愚かな「身振り」であるのかもかもしれないが、とても人間的なことでもある。われわれは、「すでに人間的である」から社会の制度性が鬱陶しいのだ。
ただ、そんなふうに人間的であっては生きてゆけないから、しかたなく昼間は、会社や国に奉仕して「非人間的」であろうとする。それは、中世の貧しい民衆が子供を「間引き」する行為に似て、とてもストレスフルな暮らしである。
しかし「間引き」をする民衆のストレス(罪責感)よりも、「間引き」をしない村の長者の「選民意識」において、多くの精神異常が発生する。つまり、会社帰りの飲み屋でえらそげに「会社をどうする」「国をどうする」と語り合っているその高邁な人格の「人間的であろうとする」身振りのほうがよほど「非人間的」であり、現代的な病理であるEDとか鬱病といったものも、あんがいそういうところから生まれてくる場合が多い。
ユダヤ人の、まさに「人間的であろうとする」その「選民意識」こそが、病理的な制度性・非人間性にほかならない。
愚かであることは、かならずしも「非人間的」であるとはいえない。
たとえば20世紀のナチスドイツのような、あれほど狂信的で愚かな反ユダヤ主義がなぜドイツの民衆に受け入れられてしまったのかといえば、あれほど狂信的で愚かでも受け入れられてしまうほどに、ユダヤ人の選民意識の非人間性に対する無意識の嫌悪が民衆じしんにあったからかもしれない。
中世日本の村の長者やユダヤ人の「選ばれた民」であるという自覚の身振りは、民衆にけっして小さくはないストレスを与え、そこから村の長者が「異人殺し」をしたという根拠のない説話や、狂信的な「反ユダヤ主義」が生まれてくる。
ユダヤ人だって、いかにもユダヤ的なスケールの大きな富豪や学者になる人もいれば、ユダヤ人だからこそギャングやホームレスになるほかない者もいる。ユダヤ人は、その「選民意識」によって、非人間的に、どこまでも上昇しつづけられる栄光と、どこまでも深くみずからを解体してしまう不幸とに引き裂かれている。
ユダヤ人は「人間的である」とか「優秀である」とか、そんなかんたんな問題ではないでしょう。日本の部落民からたくさんの有名な歌手や野球選手が生まれるのは、彼らが「優秀である」ことではなく、それほどに深く理不尽に「差別されている」ことを意味している。もちろん部落差別とユダヤ人差別とでは、その「状況」のさまはかなり違うのだろうが、いずれにせよそういう「状況」の問題なのだ。
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「シオン賢者の議定書」という反ユダヤ主義に対する挑発的な本を書いたノーマン・コーンは、「狂信的な反ユダヤ主義者の目には、ユダヤ人は、近代そのものの、より正確には時代のもっとも不安で壊乱的な側面の象徴でもあった」と言っているのだとか。
それを受けて「私家版・ユダヤ文化論」の内田樹氏は、次のように補足している。
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しかし、じっさいに近代文明を作り上げ、都市化を選び、田園的ゲマインシャフトを棄てたのはユダヤ人ではなく、ヨーロッパ人自身である。自分自身がしたことを否認し、その加害者を外部に投影し、自身をその被害者に擬するというのは精神分析的にはよく知られた機制である。
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ようするに、自分で撒いた種なのにすぐ人のせいにしたがるのは人間の悪いくせだ、ということ、逆ギレ、というやつです。反ユダヤ主義者のユダヤ人に対する差別=殺意は、そういうところから生まれてくる、といいたいらしい。
たしかにそのような「不安で壊乱的な側面」を持った近代文明をつくり上げたのは、ヨーロッパ人自身でしょう。しかしそれは、「ヨーロッパは、共同体の中枢に入り込んでくるユダヤ人を抱えている」という「状況」にあおられた結果でもあります。
ユダヤ人のいない社会がつくり上げたのではない。ユダヤ人だって、ヨーロッパ人の一部じゃないですか。
産業革命以後の資本主義の発展とともにユダヤ人の地位はおおいに上がってきた。彼らは、資本主義の発展におおいに貢献した。そのときヨーロッパは彼らの資本力を必要としたし、そのネットワークづくりの巧みなメンタリティは、いかにも資本主義的だった。ヨーロッパの共同体が海外に拠点をつくろうとするときは、たいていユダヤ人が派遣された。彼らの交渉や調整の能力は、群を抜いていた。
資本主義は「競争」の原理で成り立っている。競争が活発になることによって発展する。そしてヨーロッパがユダヤ人を抱えているかぎり、もはやそうした苛烈な競争に突入してゆくしかなかったのであり、そのエネルギーが近代文明を華やかにし、「不安で壊乱的な側面」をつくりもした。
ユダヤ人だけは無罪だ、というわけにもいかないでしょう。
ユダヤ人の際限のない知識欲や金銭欲や権力欲との競争に身を置いてしまったヨーロッパ人は、そりゃあ大変です。われわれはユダヤ人に振り回されてここまできてしまった、という思いが彼らに芽生えたとしても、それはまったく根拠のないことだともいえない。
ほとんどの「逆ギレ」は、「逆ギレする」のではなく、「逆ギレさせられる」のです。たとえ本人の責任であっても、そういう「状況=関係」に追いつめられた結果です。
とにかくユダヤ人は、反ユダヤ主義者に逆ギレさせてしまうというか、他人の神経をいらだたせる何かを持っているのです。
そしてそのいらだちの原因が、反ユダヤ主義者の愚かで凶悪な心に対して、ユダヤ人は深い「人間性」や「善性」をそなえている、という図式で片付くのでしょうか。ユダヤ人の存在は、「自然を破壊する近代文明を棄てよ」「金銭欲を持つな」「ホワイトハウスと関わるのはやめよ」とわれわれに迫っているでしょうか。むしろそうした衝動をあおってくる存在として機能し、それが資本主義の発展のエネルギーになっている。
しかしそうした存在の者たちに、おまえたちは能力がないから俺に負けるのもしょうがないんだ、と言われれば、逆ギレしてしまうこともあるでしょう。こんな「競争」はもうたくさんだ、という主張(あるいは悲鳴)だって生まれてくるでしょう。
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たしかに、反ユダヤ主義者によるユダヤ人対する殺意は、「父殺し」という側面もあるのでしょう。そのことを前出のコーンは、「この種の反ユダヤ主義において、ユダヤ人は無意識の水準では<悪しき父>、子供を折檻し、処罰し、殺害する父を表象している」と言っています。
冗談じゃない。ユダヤ人は、ヨーロッパ人を折檻しないし、処罰もしないし、ましてや殺害もしない。ヨーロッパ人に、そんな恐れなどたぶんないのだ。折檻し処罰し殺害するのは、いつだって反ユダヤ主義者のほうだったじゃないですか。
もし彼らに「父殺し」の衝動があるとすれば、たとえばそれは、自分の恋人を親父に金の力と大人の手練手管でかっさらわれてしまった、というような感情でしょう。ヨーロッパ人が描く典型的なユダヤ人は、たいてい白いひげを生やしたいかにもずるそうな老人としてあらわされるのだとか。つまり、恋人をとられる心配のないじじいとしてイメージしたがる、ということであり、そういうかたちでヨーロッパ人のユダヤ人に対するコンプレックスが表象されている。
父は息子の前に立ちはだかり、息子は、父を乗り越えようとする。しかし同じ資本主義の原理で競争するかぎり、けっして父であるユダヤ人には勝てない。その絶望が、狂信的な反ユダヤ主義を生む。絶望のあまり、もうこんな競争はごめんだ、われわれはもっと人間的に生きたいのだ、と居直って(逆ギレして)狂信的になる。そのヒステリーを、あなたは否定できるか。僕は、ようしない。
ヨーロッパ人は、みずからが人間的であることから逸脱してゆこうとするとき、その前に立ちはだかっているユダヤ人という「父」の能力におびえる。そしてその絶望から、ユダヤ人を呪いつつ、人間的であることに立ち返ろうとする。
「父」とは良くも悪くも人間性から逸脱した存在であり、いつだってそのとき「息子」は、父を追いかけるか、父を追い払って人間性に立ち返るかの岐路に立たされる。
人間的であることを禁じられたユダヤ人の悲しみと、人間的であることから逸脱したユダヤ人のえげつなさ。われわれのユダヤ人考察は、そこから始まる。
ヨーロッパ人は、自分たちの競争の場にユダヤ人は出てきてほしくないし、ほかの国と競争するときはユダヤ人の助けを求める。
ドイツのユダヤ人であるアインシュタインはこう言った。「もしも自分の相対性原理が世界に認められれば、ドイツ人はドイツの栄光だといい、フランス人はユダヤ人の手柄だというだろう。そして認められなくて軽蔑されたときには、ドイツ人はユダヤ人がやったことだといい、フランス人はドイツの恥だというだろう」と。
相対性原理を考え出したことがえらいのかどうかよくわからないが、その思考はたしかにユダヤ人であることの「状況」から生まれてきたのでしょう。その行き着くところまで行ってしまった思考は、アインシュタインにとっては、ヨーロッパ人から、そしてみずからがユダヤ人であることからの絶えざる逃走であったのかもしれない。
ユダヤ人のその行き着くところまで行ききってしまうメンタリティのすごみが、近代文明の「不安で壊乱的な側面」とまったく無縁であったとは思えない。