アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・10

前回の続きです。
「人類の原初の群れは父が支配する社会だった」とか「父殺しこそ人間の根源的な罪責性である」とか、そういうヨーロッパ人のドメスティックな物語や思想を普遍化して語ろうなんて、まったくいやらしい男根主義です。いやらしい男のナルシズム。
ユダヤ人の割礼(赤ん坊のうちにペニスの包皮を切り取ってしまう儀式)の習俗だって、もしかしたらそういう思想から生まれてきたのかもしれない。
乱婚状態だった原初の人間の群れに、「父親」など存在しなかったのだ。
「私家版・ユダヤ文化論」からの引用を続けます。
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レヴィナスは、ユダヤ教の時間意識を「アナクロニズム」(時間錯誤)という語で言い表している。アナクロニズムとは「罪深い行為をなしたがゆえに有責意識をもつ」という因果・前後の関係を否定する。
「重要なのは、罪深い行為がまず行われたという観念に先行する有責性の観念です」
 驚くべきことだが、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。レヴィナスはたしかにそう言っている。
 私はこの「アナクロニズム」(順序を反転したかたちで「時間」を意識し、「主体」を構築し、「神」を導出する思考の仕方)のうちにユダヤ人の思考の根源的な特異性があると考えている。
 この逆転のうちに私たち非ユダヤ人は自分には真似のできない種類の知性の運動を感知し、それが私たちのユダヤ人に対する激しい欲望を喚起し、その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意が道具的に要請される。
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ここでいわれている「罪深い行為」とは、父殺し、すなわち神を追放した、ということだと解釈できる文脈になっています。
人間は「父殺し」を犯すよりも先にすでに「父殺し」について有責なのである・・・・・・と内田氏もレヴィナス先生もいいたいらしい。
しかし、はじめに言ったように、原初の社会に「父」など存在しなかったのです。
哲学者は、歴史家という存在を、ただの「おたく」か何かのようにみなしてあなどっているのだろうか。だから彼らの歴史認識は、ときにひどく大雑把であったりする。
いや哲学的に言っても、根源的には、われわれは、父親も母親も、それが誰であるかを知らないのです。子供にとっての父や母など存在しない。親のがわの「私は父親である」、「私が母親である」、という自覚が存在するだけです。人類の歴史は、まず「私が母親である」という自覚だけが存在し、そのあとの時代になって「私は父親である」という自覚が生まれてきた。
コウノトリの赤ん坊は、卵からかえって最初に出会ったのがロボットなら、そのロボットを母親だと思ってしまう。根源的には母親も父親も知らないからです。
たとえ胎内にいたことや産道を通って出てきた記憶があったとしても、その体験が目の前にいるその人の体の中で起こったことだと知る手がかりなど、なにもない。生まれてきてから「私が母親である」と知らされ、ああそうか、と事後的に了解しているだけです。
根源的には、「私」には「父」も「母」も存在しない。
したがって、「私」には、先験的根源的な父殺しの衝動も母殺しの衝動もない。それは、育ってゆく過程で事後的に起こってくるだけです。したがって「私」には、「父殺し」のいかなる「先験的な有責性」もない。
にもかかわらず「ユダヤ教キリスト教」の物語は、「私」が先験的に「父殺し」に対して「有責」であるかのように迫ってくる。それをユダヤ教徒はすすんで受け入れるのに対して、キリスト教徒は納得いかないかたちで強迫されている。
その先験的な「有責性」をユダヤ教徒は負っていて、キリスト教徒は負っていない、という問題ではない。同じ物語を、進んで受け入れているか、いやいや受け入れているかの違いだけです。
根源的には、私には「父」も「母」も存在しない。にもかかわらず存在するかのように迫ってくる物語がこの世の中に溢れている。それが共同性=制度性です。生まれてきた子供は、ひとまず父と母の囲いの中にいれて訓致し、共同性=制度性をしみ込ませる。原始社会が国家的共同性に拡大してゆくときに、その混乱を収拾してゆくためにそういうシステムが生まれてきた。
「私」に「父」と「母」が存在することは、先験的な事実ではなく、生まれたあとに承認させられる制度的な観念に過ぎない。
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たしかにそういう先験的な「有責性」で観念を縛ってしまえば、そのストレスを克服しようとして「知性」は上昇するでしょう。そうしてユダヤ人は、特権階級に登りつめてゆく。
反ユダヤ主義者がそこまで徹底できないのは、どこかでその「有責性=父殺し」が不当であると感じているからだ。それでも、キリスト教徒であるかぎり、受け入れなければならない。彼らにはそういう混乱があるから、ユダヤ人に負けてしまう。
そりゃあ、後天的にせよ「父殺し」の衝動を持ってしまい、そういう物語を与えられているのだから、進んでその「有責性」を受け入れたいとも思うでしょう。彼らは、ユダヤ人を「欲望」しつつ、どこかで「欲望」を持つことに対する拒否反応も抱いている。「欲望を維持」したいのではない、欲望を維持することの不可能性にいらだっているのだ。
「私家版・ユダヤ文化論」が言う「その激しい欲望を維持するために無意識的な殺意が道具的に用意される」なんて、いかにもかっこつけた知識人が使いそうなへりくつ(レトリック)だ。
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一般的な反ユダヤ主義者に、あらかじめ殺意が用意されているのではない。「いらだち」があるだけだ。それが「殺意」に変わるか否かは「情況」しだいでしょう。
ナチス政権下のドイツ人に、ユダヤ人に対する「いらだち」はあったが、殺意があったわけではないにちがいない。しかし「いらだち」があれば、支配者の殺意を許してしまう。
ヒットラーは、権力を握ったことによって、ユダヤ人を殺すことのできる立場になった。そして、殺すことのできる立場になったことによって、はじめて「殺意」を抱いた。いや、それ以前から殺意を抱いていたのだ、というのなら、それは、すでに殺すことのできる立場になることをイメージしていたからだ。
そのときドイツは、権力者にユダヤ人抹殺のイメージが生まれてくるくらい、経済的にも国際関係的にも追いつめられていたし、民衆もまた、その暴走を許してしまうくらい何かに追いつめられていた。
そしてユダヤ人が、「先験的な有責性」を強く意識し「受難」を受け入れることをアイデンティティとする民族であることを知ったとき、ヒットラーはもう大量虐殺のイメージから逃れられなくなってしまった。
そのときドイツ人とユダヤ人のあいだには、そういう「情況」が生まれてくるような関係が濃密に存在していたのだ。
レヴィナスや内田氏が、ユダヤ人のそういうメンタリティをユダヤ人だけのものとして特権化しようとするのなら、われわれだって、ユダヤ人のそういうメンタリティがヒットラーに大量虐殺をイメージさせたのだ、という憎まれ口のひとつも吐きたくなってしまう。
「殺意」なんて、「用意」するものではなく、「情況」から持たされるものだ。人間は、可能なことしか願わないのです。大量虐殺することのできる情況があったから、大量虐殺がイメージされていったのです。殺意が「用意」されていたのではない、殺意が生まれたのだ。
すなわち、「先験的な殺意の有責性」などというものはない、ということです。
ようするにレヴィナスは、先験的に人間は殺意を抱く存在である、と言っているわけだが、われわれは、殺意は「情況」から事後的に生まれてくるのだ、といいたい。
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ドストエフスキーだって、「すべては許されている」と言っている。
つまり「知性」そのものの運動として、いずれはそういう「先験的な殺意の有責性」などと考えるナルシスティックな知性を解体してしまうはたらきがある、ということです。
われわれは、「先験的な有責性」など何も負っていない。根源的には、われわれは、たったいまこの世界に出現した存在として存在しているのです。根源的には、そういう瞬間瞬間のつらなりとして生きていっているのです。生まれたばかりの赤ん坊のような状態、とでもいうのでしょうか。知性は、そういう方向にみずからを解体してゆく運動を持っている。そうして、「すべては許されている」という地平に降り立つ。
追いつめられて知性が解体されてゆくとき、人は、「先験的な殺意の有責性」などという無限に上昇してゆこうとするナルシスティックなユダヤ的知性にいらだつ。ヨーロッパの地元民の反ユダヤ主義に、そういう側面がないとはいえない。
内田氏は、反ユダヤ主義の思想を持つことの「凶悪さ」や「愚鈍さ」をあげつらうが、そんなふうにステレオタイプに決めつけてもらっては困る。彼らだって、馬鹿でも悪人でもないのだ。