アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・11

子供にとっては、「父」も「母」も存在しない。親のがわの「私が父(母)である」という自覚が存在するだけだ・・・・・・と、前回に書きました。
このことを象徴的に語る歴史のエピソードを、あるブログで見つけました。
考えるきっかけを与えてくれたこのブログの管理人に感謝しています。
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奈良時代に、漂泊を続けながら日本各地で説法をしつつ溜池や道路などをつくる社会事業を展開していった「行基」という聖(ひじり)僧が、あるところでの路上説法を行ったとき、聴衆の中にひどくうるさく泣きわめきつづける異形の子供を抱いた母親がいた。その母親は、子供の普段からのそうした異常ともいえる猛々しさにほとほと手を焼き、その絶望からの救済を求めて行基の説法にすがろうとしていたのだった。
そこで、行基は言った。その子を川に投げ捨ててしまえ、と。
もちろん母親は、そんなことはできない、と拒んだ。しかし、何度説法を聞きに来てもそうやって荒れ狂うことをやめない子供のあまりの猛々しさと、まわりの聴衆からの圧力にも負けて、ついにやむなく川に投げ込んでしまう。すると、溺れながらその子は鬼の姿に変わり、「前世の悪霊に使わされた俺は、おまえをもっともっと呪ってやるつもりだったのに、悔しい」と言って水中に沈んでいったのだとか。
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つまり行基は、その子が母親のほんとうの子ではなく、母親の体に侵入した悪霊だということを、その奇跡的な霊感で見抜いたのだ、というエピソードです。
まあ、水に沈んでゆく子供が鬼の正体をあらわしたことも、行基が投げ捨てよと言ったことも、母親がそれに従ったことも、ぜんぶ嘘でしょう。たんなる比喩です。
しかし、中世の「無常観」を先取りしたような、母と子の絆などというものはないのだという意識は、きっと行基という漂泊の聖にはあったのでしょう。
子供は、母親の胎内を借りて生まれてくるだけで、べつに母親の「分身」ではないのだ、ということ。それは、生物学的にもそうでしょう。そのときの卵子などというものは、親の食ったものと体調との関係でつくられるのであれば、それは親のものというより、「状況」の所有である。「前世の因縁」もまた、ひとつの「状況」なのだ。
親と子の絆、などというものはない。われわれはそういう「状況」に置かれて生きているだけだ。
この時代、なぜ行基がそんなにもがんばって社会事業を展開していったかといえば、それが衆生を救うことであると思えるほどに衆生の暮らしがひどいものだったからでしょう。
つまり、異常や奇形のある子供は将来生きていけないから、生まれたら「間引き」をしてしまうのがそのころの一般的な民衆の習俗だった。しかしその母親は、それでもなんとか育てようとした。それがいいことか悪いことか、その時代の衆生の置かれた状況においては、誰にも決められないことだった。「間引き」をしてしまった母親は、一生罪悪感を引きずって生きねばならないのか。そんな必要はないはずだ。母と子の絆などというものは、けっして根源的なものではない。それはもう、前世の因縁による悪霊だったのだ、と思うしかないではないか。そう思え、と行基は諭(さと)した。
上記のエピソードは、そこに登場した母親だけの問題ではないのです。あの時代の民衆全体の問題であり、このあと日本列島に定着してゆく仏教的無常観でもあったはずです。
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人間の「絆」とは、いったいなんなのか。
人は、関係につなぎとめられることを嫌う生き物です。したがって、人間の本性にしたがっていえば、「絆」にたいする根源的な責任など誰にもない。
われわれは、親しい関係の中においてではなく、出会いのときめきとともに抱きしめあう。だから、近親相姦なんてめったに起きるものではなく、誰もが家の外の異性との「出会い」の体験において心をときめかせる。
僕は、親しい人のことを、ふだんから思ったりはしない。電話がかかってきたり会ったりしたときにときめくだけです。誰だってそうでしょう。そんなものだ。
関係につなぎとめられるなんて、鬱陶しいだけだ。だから、殺人事件のほとんどは、家庭内や恋人や友人どうしのあいだで起きる。
「私家版・ユダヤ文化論」の内田樹氏は、反ユダヤ主義者はユダヤ人を「激しく欲望している(愛している・うらやましがっている・ねたんでいる)」からこそ殺意を抱いてしまうのだ、といいます。
「私たちは愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請するのである。葛藤があるほうが、葛藤がないときよりも欲望が亢進するから」と。
ようするに、非ユダヤ人は知性的なユダヤ人がうらやましくてしょうがないのだ、だからその気持をもっと募らせようとして殺意を抱いてしまうのだ、というわけです。
そうだろうか。
単純にいって、殺意を抱くのは、その相手によって困難な状況に置かれてしまうからでしょう。殺意を抱くから、困難な状況になるのではない。困難な状況になるから殺意を抱くのだ。
人間が、「もっと愛したい」なんて思うはずがないじゃないですか。「愛している」と自覚している人間は、「愛している」と確認したいだけです。もっと「愛してくれ」と相手に望むことはあっても、「もっと愛する」なんて、そんな不可能なことを、誰が望むものか。誰だって、「自分」以上にはなれないのです。そういうことは、誰だって知っている。だいいち、内田氏がいうように反ユダヤ主義者が「自分に満足している」人種であるなら、なおさらそんなことは思わないでしょう。
自分がどれだけ深く愛しているかは、相手との関係によって決定されている。自分だけで勝手に「もっともっと」愛してゆくことなんて不可能だ。そういうことは、誰だって自覚している。だから、相手に「もっと愛してくれ」と要求するのだ。
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人はなぜ、「愛している」と確認したいのか。「愛している」ことなんか不可能だからです。だから、確認せずにいられなくなる。
われわれにできることは、「出会いのときめき」とともに「愛する」ことだけです。そういう一瞬一瞬のつらなりが、「愛している」という状態であり、それは、厳密には「愛している」ことではない。愛なんて、いつでもたちまち消えてしまうものなのだ。その事実に対する認識を誰もが不安として抱えているから、それを確認せずにいられないのだ。
つまり内田氏は、もっと愛するために、まず殺意を抱き、それを絶えず打ち消してゆくことによって、「もっと愛している」状態が獲得されてゆくのだ、といいたいらしいのだが、こんなものただのへりくつです。じゃあ、殺意を抱くということは、必ずその上に「もっと愛している」という状態が乗っかっていることではないか。殺意それじたいが愛を培養するというのなら、殺意がそれじしんで暴走することなんか永久に不可能だ、ということになります。
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われわれが親しい者に殺意を抱くのは、「愛している=絆」という関係につなぎ止められることが鬱陶しくなるからだ。
ヨーロッパ地元民にとってのユダヤ人は、ほんらい「出会いのときめき」をもたらす「来訪者=異人」としての存在です。
ところがたちまち権力の中枢に入り込んで、共同体の制度性の加担者の地位を獲得してゆく。地元民にとって共同体の制度は、しかたなく受け入れているものです。なのにいつの間にか、自分たちとユダヤ人の関係が、共同体の制度との関係にシンクロナイズしてしまっている。自分たちの共同体との関係ならまだしも、なにが悲しくてユダヤ人との関係までも同じようにして受け入れてゆかねばならないのか。われわれのユダヤ人との関係は、そんなものではなかったはずだ・・・・・・なまじユダヤ人が「よそ者」であるだけに、関係につなぎとめられることの鬱陶しさは倍加する。しかも、ふだんからもっとも鬱陶しいと感じている共同体の制度との関係においてユダヤ人が登場してくるから、なおさらに倍加する。鬱陶しさはもう、比較級数的に膨らんでゆく。ユダヤ人をもっと「欲望」するのではない。逆に、ユダヤ人との関係につなぎとめられてしまうから殺意が芽生えるのであり、早い話が目障りでしょうがないからでしょう。
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人間は、可能なものしか欲望しない。ノーベル賞をとった学者はそりゃあすごいけど、自分もとりたいとは思わない。なぜなら、とれるはずがないからだ。ノーベル賞をとる知性など、誰も欲望していない。
特権階級になったユダヤ人との関係が鬱陶しいのは、自分も特権階級になりたいからとかねたんでいるとか欲望しているとか、そんな次元の問題ではない。
特権(支配)階級との関係の鬱陶しさは、「監視される」立場に置かれることにある。
よりによってわれわれがなぜユダヤ人に「監視=支配」されねばならならないのか、といういらだち。
関係につなぎとめられることの鬱陶しさは「監視される」ことにあり、「監視される」ことの苦痛は、じつはきわめて実存的な苦痛であり、人間の根源と関わっている。
人間の直立二足歩行は、胸・腹・性器等の急所を外部に晒している。すなわちそれは、弱みを晒している姿勢なのです。だから、「監視される」ことは、そうした弱みを見つめられることとして、生存の根底を侵略される不安というか恐怖を引き起こす。
日本人がお辞儀をしたり、ヨーロッパ人が抱き合って挨拶したりするのは、「あなたを監視しない」という表現なのです。監視することの不可能性に身を置くこと、それが挨拶という礼儀の本質です。
抱きしめあうことは、相手の「姿」が視界から消えることです。したがってそれは、関係につなぎ止められることではない。われわれが鬱陶しいのは、少し離れてみずからの「姿」を相手に晒しつづけることです。それが、「関係につなぎ止められること=監視されること」です。
すなわち、地元民どうしの関係が抱きしめ合う関係だとすれば、ほんらいよそ者であるユダヤ人との関係は、どうしても少し離れた「監視される」関係になってしまう。けっして抱きしめあうことのない関係こそ、もっとも鬱陶しいのです。ヨーロッパにおけるユダヤ人は、ユダヤ教を固守して、つねに抱きしめあうことのない距離に立ちつづけている。
自分よりも上に立たれることの不愉快さは、「監視される」ことの不安=恐怖なのだ。ただねたんでいる(ユダヤ人の優秀さを欲望している)だけのことじゃない。
反ユダヤ主義者の「ユダヤ人が世界を支配している」という被害妄想は、たんなるねたみなんかじゃない。たとえ愚かな被害妄想だとしても、まぎれもなくそれは「ユダヤ人に監視されている」という根源的な恐怖なのだ。
「愛」とか「欲望」がどうとかという問題ではない。
われわれは、何が悲しくてユダヤ人から監視されなければならないのか・・・・・・反ユダヤ主義者は、そう思ってユダヤ人に殺意を抱く。この怒りと鬱陶しさは、因果なことに根源的なのだ。
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「愛している=絆」、それじたいが殺意なのだ。「殺意を打ち消しながらもっと愛している状態を獲得してゆく」なんて、そんな心理学など、ただの言葉遊びにすぎない。それは、殺意の自立の不可能性を意味しているのだ。
反ユダヤ主義者のユダヤ人に対する殺意は、愛していること、すなわち関係につなぎとめられることのうっとうしさを、もっとも過激にいやおうなく思い知らされる体験として起きてきている。
つまるところそれは、人間にとって「愛している=絆」という関係が、いかに人間の本性から逸脱した状態であるかということを指し示している。「愛している」とは、「監視している」ことなのだ。
母と子の絆だって、制度的に仮構された関係に過ぎないのです。
制度的な関係がいかに人間に恐怖と殺意を引き起こすか、ユダヤ人迫害は、悲しいことにそういう問題でもあるのだ。
言っちゃ悪いけど、一部のユダヤ人は、ものすごく「制度的」な傾向をもった人たちですよ。そういう意味で、内田氏やレヴィナスが言うように「ユダヤ人が反ユダヤ主義者を生み出している」のかもしれない。
ヨーロッパ地元民にとってのユダヤ人は、歴史的に、どうしても制度的な「監視される関係」になってしまう。「殺意」は、そこで生まれるのだ。
出会いのときめきとともに「愛する」ことと、関係に閉じ込められて「愛している」こととは、ちょいと違う。
そのとき反ユダヤ主義者は、ユダヤ人との関係を、彼らが貧しく愛すべき「よそ者」であった状態、すなわち「出会い」の状態にまで歴史を押し戻そうとしている。そのときこそ、抱きしめあうことができる。「もっと愛したい(欲望したい)」のではない。ひとまず「愛している=愛されている」関係を解消して、愛し合う関係を取り戻したいのだ。いらだったり殺意を抱いたりするということは、まだ関係に絶望はしていない、ということかもしれない。