アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・12

反ユダヤ主義者のユダヤ人に対する殺意は、彼らが「あまりに激しくユダヤ人を欲望しているから」生まれてくる・・・・・・と「私家版。ユダヤ文化論」の著者である内田樹氏は語っています。
つまり、もっともっと愛そうとして、それが抑えきれない殺意に変わっていったのだ、と。反ユダヤ主義者のユダヤ人に対するの殺意は「もっと愛そうとする欲望」から生まれてくるのだ、と内田氏は言う。
しかし、人の心に「もっと愛そうとする欲望」などというものがあるでしょうか。
人は、出会いのときめきとともに「愛する」ということはしても、「愛している」というかたちで関係に閉じ込められてしまえば、それがだんだん鬱陶しくなってくる生き物です。そうやって親族殺人や恋人殺しが起きる。
反ユダヤ主義者のユダヤ人に対する殺意だって、そういう鬱陶しさであり、いらだちであるはずです。
まあ内田氏としては、ユダヤ人は愛されずにいられないくらい優秀で魅力的で人間的な存在であると言いたいのだろうが、それほど優秀で魅力的で人間的な存在であっても、関係がこじれてくれば鬱陶しがられるのです。腹の底から「ユダヤ人なんてげすな人種だ」と思われるのだ。もっと愛されようとしたからだなんて、そんなおためごかしのへりくつを言ってもしょうがない。腹の底から「げすな人種だ」と思われたのだ。また、そう思われても仕方のないような一面がユダヤ人にないともいえない。
ただそれは、ユダヤ人が憎かったというよりも、ユダヤ人との「関係」が鬱陶しかっただけだ、ともいえる。ヨーロッパ人とユダヤ人とのあいだには、そういう「関係」が生まれてくる「状況」がある。
しかしすくなくとも、内田氏の言うような「もっと愛そうとするがゆえに殺意を帯同し、その殺意に対する有責感がしまいに爆発して凶暴な大量虐殺の行為になる」などというばかなことがあるはずない。「有責感を帯同した殺意」などたかが知れている。有責感(=愛)を帯同しているかぎり、その殺意が有責感(=愛)を超えることはない。有責感がなくなったときに、その殺意が実行に移されるのだ。ナチスが「有責感」など持っていたら、大量虐殺なんかできるはずないじゃないですか。しんそこ「有責感」などなかったのだ。問題は、なぜしんそこなくなってしまうか、ということにある。関係に閉じ込められて「愛しつづける」ことなど鬱陶しいばかりだし、「もっと愛そうとする」制度的な観念行為など、エスカレートすればするほどますますその不可能性があらわになってゆくからだ。
「もっと愛そうとする」ことの主体性。しかし人間は、内田氏が考えるほど主体的な存在でもない。ときどきそうやって「人間性」から逸脱しながら自分も他者もコントロール(支配)して生きてゆくのが上手ないやらしいやつがいる、というだけのことだ。
「関係=絆」というのは鬱陶しくなってゆくものだから、「もっと愛そうとする」観念のはたらきなど起こるはずがないのです。
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「愛する」ことは、「今ここ」においてしか成り立たない。それは、「今ここ」において一瞬一瞬生起する。
だから人は、今ここにおいて「愛している」ことを確認しようとする。一瞬一瞬確認しつづけようとする。それが、人間の愛するという観念行為のかたちであるはずです。したがって、「もっと愛そうとする」ことは、論理的に起こり得ない。
われわれの観念は、「もっと愛する」ことの不可能性を負っている。
旅行の計画を立てているうちにもう行った気になって行きたい気持が薄れてしまった、というようなことはよくある。まあ、そんなようなことです。「愛」とか「欲望」といったものは、一瞬一瞬生起するのであって、伸びた飴の棒のようなかたちで持続されてゆくものではない。
「もっと愛する」などということは、誰にもできない。
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犬や猫でも子供をかわいがる。だから、親子の「絆=愛」は根源的である、という意見も世の中にはある。
しかし、「愛」などというわけのわからない感情が、犬や猫にもあるのでしょうか。彼らが子供を育て、子供をかばったりするのは、そういう「状況」がそこに生まれたから、それを受け入れているからでしょう。
生き物は、「状況」を受け入れる存在である。これは、根源的であると思えます。青空を見て「青空だ」とわかるのは、意識が状況を受け入れるからだ。その見え方に逆らって「曇り空」だとは知覚しない。状況を受け入れる意識のはたらきがなければ、青空を青空だと知覚することはできない。
生き物がものを食っていかないと生きてゆけないことは、犬や猫でもわかる。生き物がものを食うという行為は、ものを食わないと生きてゆけない「状況」を受け入れる行為です。
生まれたばかりの赤ん坊が自分で食い物を調達する能力がないことは、鳥だってわかっている。だから、せっせと運んできてやる。しかしそれは、「愛」というほどのものではなく、そこで発生したみずからの「子供を育てるという状況」を受け入れてゆく行為でしょう。それはたぶん、自分自身の、腹が減って「食い物を調達しなければならなくなった状況」に対処する(受け入れる)ことと、そう違わない衝動であるはずです。
親鳥は、子供が食いたがっていることを知っている。そして、食わせればピーチクパーチク鳴かれる鬱陶しさから解放されることも知っている。それは、親と子の「絆=関係」をつくる行為ではなく、「絆=関係」を解体する行為なのだ。彼らは「絆=関係」を解体しながら子供を育てている。だから、そのいとなみが、「巣立ち」として完結するのだ。
鳥にとって子供を育てるということは、ずいぶん理不尽な状況であるはずです。いいことなんか、何もない。かわいいさえずりに心が和むとか、そんなことがあろうはずもない。それでも、受け入れてしまう。受け入れなければ、「絆=関係」を解体できないからだ。解体しなければ、「個体」として存在できないからだ。
すべての生き物は、みずからの身体の輪郭と外界との関係で生きている。「個体として存在する」とは、みずからの身体の輪郭をクリアーに感じながら生きてゆく、ということです。そのためには、「関係」は解体しなければならない。
生き物にとって「関係」に閉じ込められることは、生命の危機なのだ。
狭い巣の中で子供の身体が大きくなれば、みずからの身体の輪郭がおびやかされる。だから、追い払って巣立ちをさせる。けっきょく、子供を育てることも、追い払って巣立ちをさせることも、「絆=関係」に閉じ込められることの拒否反応によってなされている。
生き物は、「状況」を受け入れるが、「関係=絆」に閉じ込められることに対する拒否反応を持っている。だから、「巣立ち」として完結する。そのとき、親も子も、たがいにみずからの身体の輪郭を守ろうとしている。生き物は、身体の輪郭を守るために「関係」をつくり、身体の輪郭を守るために「関係」を解体する。
すなわちそれは、個体として存在しているという「状況」を受け入れる行為なのだ。
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昨日のブログで書いた奈良時代のひじり僧である行基は、もしも異常や奇形の子が生まれて育てられないのなら育てなくてもいいんだよ、と民衆に説いた。生き物は、愛や絆で育てるのではない。育てることのできる状況を持っているから、そういう状況を受け入れて育ててゆくのだ。奈良時代の貧しい民衆は、異常や奇形の子を育てられるだけの「状況」を持っていなかった。
そして、特権階級の者たちは、状況的に育てることのできる能力を持っていたから、民衆のように「間引き」をしないで育てていった。村の長者の家では前世の「たたり」で異常や奇形の子が多く生まれるという民俗説話は、そういう状況にも由来している。で、彼らは、そういう子さえも育てながら、絆に対するみずからの愛の深さを確認しようとする。「座敷わらし」は家に富をもたらし、長者の家には必ず住み着いている、という話は、そのような社会構造から生まれてきた。彼らはその異形の子を、「福子」と呼んだりしていた。
村の長者は、絆に対する愛が深い。そういう子さえも育てているのだから、とうぜん深くなる。しかし、「絆に対する愛」は、ほんとうの人間性だろうか。そういう「絆=関係」に閉じ込められるから、彼らの家では「狐つき」などの精神異常者が多く発生する。それは、人間の本性が「関係」に閉じ込められることに対する拒否反応を持っているからではないのか。彼らのそういう不自然な観念空間が、そういう精神異常を引き起こすのではないのか。
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そこでわれわれは、「人間性」とはいったいなんだろう、と考えます。
「絆」に対する愛は、人間性だろうか。
自分たちのことを「神に選ばれた民」であると自覚しているユダヤ人ほど、「絆」に対する愛が深く、結束力の強い民族もいない。
そうしたユダヤ人の愛の深さは、「人間性」だろうか。
ユダヤ人であるレヴィナス先生は、自分たちが「選ばれた民」であることは、「特権」ではなく、受難を引き受ける「責任」としてあるのだ、と語っています。
「特権」だろうと「責任」だろうと、同じことです。ようするに、何様のつもりかというエリート意識です。
この自意識は、まさしく、異常や奇形として生まれた子供を育ててゆく村の長者のそれと同じではないでしょうか。村の長者だって、「選ばれた民」として、そうした「受難」を引き受けているのです。
もちろんレヴィナス先生の弟子である内田樹氏も、ユダヤ人こそもっとも人間性の豊かな民族であると力説している。
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(・・・・・・)ユダヤ人はその歴史的状況ゆえに端的に人間的であることを宿命づけられている(・・・・・・)
 個別的・歴史的なエスニシティナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間的であること」を目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、ユダヤ人は「端的に人間的であろうとする」まさにそのみぶりによって、彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。
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たとえば中世の受難時代、ユダヤ人はあらゆる職業から締め出されて、もう強欲で孤独な「金貸し」になるしかなかった。
つまりユダヤ人は、人間的であることを禁じられている民族です。彼らは、人間的であることをかなぐり捨てて、ヨーロッパで生き延びてきた。またユダヤ教の律法によって、いかにも非人間的で不自然に、「父殺し」というありもしない罪をあらかじめ負わされている民族です。だからこそ彼らは、激しく自己否定して「人間的であろうとする」。
したがって、ユダヤ人が「人間的であろうとする」からといって、そのまま彼らが「人間的である」ことの証明にはならない。
ユダヤ人こそ、「ユダヤ教」という「個別的・歴史的なエスニシティ(辺境性)やナショナリティ」を色濃く抱えた民族なのです。
「人間的であろうとする」なんて、「人間的ではない」証拠なのです。
サルトルは、ユダヤ人のそうしたメンタリティが、彼らの置かれた「状況」からもたらされている、という。それにたいして内田氏は、サルトルユダヤ人の「主体性」を認めていない、と抗議する。
「主体性」て、いったいなんなのですか。人間のメンタリティが、他者が存在するという先験的な「状況」から自立したみずからの意志だけで勝手につくり上げることができるのですか。そうやって「他者」を喪失したメンタリティが、「人間的」なのですか。
人間は、内田氏がユダヤ人の本質として力説する「遅れてこの世界に到来した存在」とは、人間そのものの在りようのことです。
われわれの意識は他者に「反応」するところからはじまるのであって、他者に向かうところからではない。遅れてこの世界に到来したわれわれは、「他者を知っている」のではなく、「他者を発見する」のです。したがって、「他者に向かう」という主体性などというものは持っていない。「他者に反応する」ことができるだけです。
同様に、われわれは先験的に「自分」を持っているのではなく、自分を発見するだけです。まず、脳と身体が世界をとらえ、一瞬遅れて「意識」がその世界像に気づく。ものを見るという行為は、脳と目がとらえた世界に気づく、という行為です。「意識=自分」は、「世界に向かう」のではなく、「世界を発見する」のです。そうして、「世界を発見している自分」を発見する。したがって根源的には、「主体的な自分」などというものはない。
まず、この世界とこの身体とこの脳によって生起した「状況」があり、しかるのちに「自分」が生起する。だからわれわれは、「遅れてこの世界に到来した」存在なのです。
「主体性」などというものは、この社会で生きてゆくための身すぎ世すぎの身振りにすぎない。「人間的であろうとする」ユダヤ人の主体性は、「人間的であることができない」ユダヤ人の「状況」から生まれてくる。
われわれのメンタリティは、われわれ自身の「状況」によってつくられている。だからその部分においては、サルトルになんの不満もない。
たしかにユダヤ人は、主体的に何かをなそうとする傾向の強い民族です。しかしその「主体性」じたいが、ユダヤ人の置かれた状況から生まれてくるのだ。
根源的には、われわれは「主体的に他者を愛する」ことなんかできない。他者の存在に「反応する」こと、すなわち驚きときめくことができるだけです。そこにおいて、「関係」が生まれ、「関係」が解体される。