アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・4

E・レヴィナス先生が、深い知性とともに比類なき高潔さをそなえた哲学者であるのはたしかにそうなのでしょうが、ただその書きざまが妙にナルシスティックで、いまいちついてゆけないものを感じていました。
そのわけを、内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」が教えてくれました。
ユダヤ人であるレヴィナスは、誰よりも深く豊かにユダヤ的知性をそなえた人であるらしい。
で、そのユダヤ的知性のもっとも本質的なエッセンスとは、執拗に「自分」にこだわる、ということであり、そのへんのところをこう解説してくれています。
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自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること・・・(中略)・・・自分が自分であることという平明な事実のうちに安らぐことはユダヤ人にはけっして許されない。彼らは「自分は何者であるのか、どのような社会的機能を果たしているのか、他者とどのように関わっているのか、どのような歴史的使命が託されているのか・・・・・・」といったことに、ほとんどそのことだけに思念を集中させなければならない。
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彼らのこうした傾向こそ、彼らを「知性的」にも「実存的」にもしているのだ、と内田氏はいいます。
たしかにそうでしょう。ユダヤ人は、差別され迫害されつづけてきたその歴史上の立場と、選民としてつねに神との関係にさらされながら「自分」を問いつづけねばならないという思考習慣によって、「自分のユダヤ性の重荷から逃れたい激しい欲求」を持っている。つまり、その「自己嫌悪」の閉塞感を信仰生活として持続することによって、よきにつけあしきにつけときに途方もない「知性」を持った者を生み出す。
そして内田氏は、これがユダヤ人にあって反ユダヤ主義者にはない思考の傾向であり、反ユダヤ主義者はそういうことをなにも考えていないし、実存的であることも喪失した存在である、というのだが、それだけですませてもらっては困る。
そんなことは、人間なら、ひとまず誰だって考えるのだ。ただ地元民は、そういう知性を解体してしまう「父祖の叡智=伝統」を持っている。そうやって他者との関係に浸りながら自分にこだわる知性を解体してゆくことのカタルシスこそが、彼らの「実存」であり、ユダヤ人のそのような自分へのこだわりは、むしろそういう「実存」を喪失した状態であるともいえる。
ユダヤ人だって、そういう自分へのこだわりを解体しようとして「自分を疑う」のだ。
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人はなぜ、自分にこだわるのだろう。
たぶん、自分との関係を喪失しているからだ。
よい家族や妻や恋人は空気のような存在だといったりするように、自分との関係が緊密であれば、自分もまたやはり空気のように感じられている。自分との関係を忘れて他者(隣人)との関係にひたっているときこそ、自分との関係が緊密になっている、すなわち「実存的な」状態である、ということです。
ユダヤ教徒であるユダヤ人が、キリスト教徒のヨーロッパ共同体に入ってゆくとき、そういう「実存」があらかじめ奪われてある。だから、自分にこだわる。
自分にこだわるから実存的だとか、そんな単純なものじゃない。
そしてヨーロッパ人は、そういう「自分へのこだわり」を、ユダヤ人から学んだ。彼らはともに、「神」と「自分」との関係にひたされている。その部分においては、たいした違いはない。ただ、そういう関係からいっとき解放される隣人との関係を、ユダヤ人はあらかじめ奪われてある。
しかしユダヤ人にしても、みずからを懐疑しつつ「自分のユダヤ性から逃れようとする激しい欲求」を持っているのだとしたら、それはみずからの知性を解体しようとする衝動を持っているということでもあり、もしかしたらユダヤ人こそもっとその衝動を強く抱いているのかもしれない。
であれば、解体するわけにいかない生き方をしているユダヤ人と、解体せずにいらないユダヤ人がいる、ということでしょうか。
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19世紀ころ、東欧からロシアにかけてユダヤ人だけの千人から二千人くらいの小さな集落がたくさんあったのだとか。そういうところでは、自分たちがすでに地元民で、他のキリスト教徒と競争する必要がないから、むしろ競争する知性を解体して誰もが生きてゆける観念空間をつくろうとする傾向が生まれてくる。みずからを懐疑するユダヤ人だからこそ、そうやって他者(隣人)との関係を安定させようとする思考傾向も、じつはより深く切実に持っている。
次の引用文は、あの有名な「屋根の上のバイオリン引き」の原作者でありイスラエルの国民的な作家であるショレイム・アレイへムの家族に宛てた遺言の一部です。
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お母さんを大事にしてあげておくれ。お母さんの年齢を若く見せてあげておくれ。つらい人生を甘いものにしてあげておくれ。傷ついた心をいやしてあげておくれ。反対に、私のために泣かないでおくれ。反対に、喜びをもって覚えておいておくれ。そしてもっとも大事なことだが、みんな仲良くしておくれ。他人に憎しみを抱かないでおくれ。つらいときには、助け合っておくれ。ときどき、家族の他の人たちのことを思い出しておくれ。かわいそうな人をいたわっておくれ。・・・・・・
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知性を解体するとは、こんなようなことだろうと思います。人生なんて、人と仲良くやっていければ何とかなるものさ、それだけでいいんだ、と知性的なユダヤ人がいっている。知性を解体すれば、けっきょくそこにたどり着く。そういう知性の運動の法則がある。
知性は、知性を解体してしまう。われわれの観念は、つまるところ、他者との関係をどうやりくりしてゆくか、ということの上にはたらいている。そのために知性が、さまざまな方向に上昇し、最後にはそこに帰ってくる。自分がもうすぐ死ぬと悟ったとき、問題はけっきょくそれだけだったな、と優れた知性が納得した。そういう書き様であるように思えます。
「よそ者」としてのユダヤ人は、共同体(国家)への帰属意識キリスト教徒である隣人との関係意識は希薄であり、あくまで個人の才覚とユダヤ人どうしのネットワークで生きてゆこうとする。だが、ひとたびユダヤ人どうしが集まる集落が生まれれば、彼らは、他の民族よりももっとラディカルに「知性を解体した他者との親密な関係」をつくることができる。たぶん、そういう民族なのだ。だからこそ、ナチスによる「ホロコースト」の嵐にも無抵抗に従ってしまった。
サルトルが、知性を解体する人間性として、「ニ千年の伝統に養われ、父祖の叡智を豊かに受け継ぎ、風雪に耐えた慣習に導かれて生きる真のフランス人は知性など必要としないのである」というそのままの思考を、ユダヤ人だって、一ヶ所に集まって暮らしてゆくことができれば、もっとラディカルにそなえているのです。
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ヨーロッパのキリスト教徒の観念は、「知性の上昇」においても「知性の解体」においても、ユダヤ人を超えることができない。だから、ヒステリーを起こして虐殺してしまうのかもしれない。
内田氏は、このことについて、フロイトの理論を援用して「父殺し」の衝動である、と語っています。たしかにそんなようなことであるのだろうが、ユダヤ人がヨーロッパ人の父であることの理由として、「キリスト教ユダヤ教から生まれてきた」というだけのことで説明できるものでもないはずです。世界宗教であるはずのキリスト教が、なぜ一民族の宗教に過ぎないユダヤ教を超えることができないのかといういらだち。この世からユダヤ教を殲滅してしまいたいという衝動と、なんのかのといってもヨーロッパの文明はユダヤ人の助けを借りて発展してきたのだという事実。
ヨーロッパはやがてユダヤ人にのっとられるかもしれない、という不安こそ、ナチスがもっとも強くあおり立てたものであった。
ユダヤ人が「遅れてやってきた民族」であるというのなら、彼らが「父」であるとはいえないでしょう。「父」とは、この世界において「すでに存在している」他者の象徴なのだ。
たとえば、王がみずからの地位を守るために、後継者の候補をたとえ息子であろうとかたっぱしから殺してしまう、ということはどこの国の歴史にもしばしば起きたことです。であれば、ヨーロッパ人によるユダヤ人殺しの衝動は、「王による後継者殺し」の衝動とか「息子殺し」の衝動として説明することだってできるはずです。ナチスの「ホロコースト」などまさにこのパターンであり、ヨーロッパ人こそ「息子の前に立ちはだかる父」であるのかもしれない。いかにもステレオタイプに「父殺し」の衝動といって、その心理のあやをどうこうつついてみせるだけですむ問題でもないのだ。
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中世の十字軍の遠征は、そのままヨーロッパのユダヤ人迫害の歴史でもあった。聖地エルサレム奪還を目指して組織された十字軍は、しかし物資や資金が不足していた。その調達のために、彼らは、遠征の前にヨーロッパ中のユダヤ人地区を襲撃して略奪のかぎりを尽くした。
ユダヤ人の富はキリスト教徒から巻き上げたものだ、われわれはユダヤ人の同胞であるアラブ人と戦いに行くのだから、ユダヤ人もまた敵である・・・・・・そういう論理だったらしい。十字軍が組織されたのは、つまるところ停滞しているヨーロッパ経済を活性化しようとする衝動だったとも言われています。そんな時節に、ヨーロッパ人よりもユダヤ人のほうが裕福であるというような傾向があれば、そりゃあそんな気にもなるでしょう。中世初期は、権力と結託して特権階級にのし上がっていったユダヤ人をたくさん生み出した時代でした。そんな象徴的な存在がいれば、ユダヤ人にたいする妬みや苛立ちが貧しい地元民から生まれてくるのは仕方のないことだともいえる。十字軍による襲撃略奪はもう、王や教皇でも止められなかった。
いいとか悪いといってもしょうがない。それが、人間の歴史なのだ。略奪するのが悪くて、法に守られて貧しい者たちから搾取することはいいことなのか。たとえ貧しい者を相手にしていなくても、そうやって富をひとり占めしてどうして平気でいられるのか。そんな気分はもうどうしようもなく起きてくる。まあ「よそ者」であるユダヤ人ならそんな理不尽な情況にも耐えられるけど、ヨーロッパ地元民は耐えられない。貧しさに耐えられる者たちが裕福で、耐えられない者たちが貧しいという、その皮肉というか不条理に、ヨーロッパ地元民はいつだっていらだってしまうのだ。
ヨーロッパの歴史を通じて、異教徒であるユダヤ人は貧しくあってしかるべきだという「情況」が、どうしてもある。その情況が、十字軍による略奪を生んだのだし、ナチズムを台頭させもした。
ヨーロッパ人は、貧しいユダヤ人としか仲良くできない。しかしほおって置けば、いつの間にかユダヤ人は裕福になってしまう。ユダヤ人と仲良くやってゆきたいからこそ、彼らは、なんとかユダヤ人を貧しいままにしておこうとする方法をあれこれ模索してきた。その果てに彼らは、ユダヤ人を迫害する。それは、ひとつの「絶望」なのだ。
知性は、最終的には知性を解体してゆく。そういう解体された知性のかたちとして「貧しさ」がある。だから人は、貧しい者を尊敬しいたわること、いわゆるボランティアとやらに喜びを見出す。そしてユダヤ人は、知性を解体することにも長けた民族であるということを、ヨーロッパ人は直感的経験的に気付いているし、尊敬もしている。だから彼らは、ユダヤ人が貧しくあることを要求する。知性を上昇させることばかりしているユダヤ人なんて、目障りなだけだ。たしかにそれは虫のいい感情にはちがいないが、それでもその中に、追いつめられた者の一片のせつなさは潜んでいる。
ユダヤ人は、キリスト教の真理を明かすためのみじめな存在としてヨーロッパにとどめ置かれたのだ、とよくいわれる。キリスト教会の、民衆に対するそういう意識操作がつねにあった。ユダヤ人は、共同体に入り込んで暮らし振りがよくなるたびに、繰り返し迫害されてきた。
ユダヤ人にとって受難に遭うことは、みずからが神に選ばれた民であることを認識する体験でもある。そういう意味でヨーロッパ人は、ユダヤ人が「神に選ばれた民」であることを証明しつづけてきたのだ。両者の関係は、とてもややこしい。犬も食わない夫婦喧嘩のような側面がある。SM趣味のカップルを、他人がどうこう言ってもしょうがない。サディズムマゾヒズムは、ヨーロッパにおいて発達してきた。サディストがマゾヒストをつくる。マゾヒストが、サディストを生む。内田氏も「父殺し」なんて安直なことを言ってないで、こちらの問題ももっと研究していただきたいものだ。
ヨーロッパ人とユダヤ人の「絆」というのは、やっぱりあると思う。やつらには、「肉体関係」がある。