アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・3

僕は、以前から、自分はユダヤ人的な人間だろうと思って生きてきた。
小学校のときは転校することが多く、そのたびに自分は「よそ者」だという自覚を確認していた。そしてその後も、今にいたるまで、自分が参加するどんな集団にたいしても、自分はよそ者であるという思いがいつもあった。
僕は一時期テニススクールに通ったことがあるのだが、そこでのレッスンで、同じ動きを繰り返すルーティンワークの練習に、どうしてもついてゆけなかった。いつも途中で間違えてしまい、この程度のことがなぜできないのかと、みんなに笑われていた。運動神経ならおまえらに負けないとけっこう自惚れていたしみんなも認めてくれていたのだが、最後までその練習にフィットすることができなかった。
そしてこういう傾向がユダヤ的なものであるということが、「私家版・ユダヤ文化論」を読んでよくわかりました。
たとえばユダヤ人の思考様式として、「自分が現在用いている判断の枠組みそのものを懐疑する傾向がある」、と内田氏は語っています。これだな、と思いました。この傾向の泥沼にはまって、僕はルーティンワークができなくなってしまう。
まあ僕はみんなに笑われるだけの存在だが、特権的な立場のユダヤ人は、そんな傾向を「知性」としてどこまでも高度なレベルに上昇させてゆく能力を持っている。
ユダヤ人ほど学問が好きな民族もいない。
そして彼らのそんな知的努力は、はたから見ている地元民にある種の脅威を与える。内田氏によれば、それはもう「おのれを懐疑せよ、生き方を改めよ、秩序を壊乱せよ、今あるものを否定せよ、という威圧的教化的なメッセージのように聞こえて、耳をふさぎたくなるのかもしれない」のだとか。
そこで内田氏は、地元民の一部の者にしか持てないそうしたイノベーティブ(革新的)な「知性」を、ユダヤ人は集団の属性として持っている、といいます。だから、世界を支配する立場の人物がつぎつぎあらわれてくるのだ、と。
たしかにそうでしょう。しかしその傾向が地元民をいらだたせることも、ゆえなきことではない。共同体は、そんな傾向を持たせるような構造にはなっていない。むしろ持たせないような仕組みになっている。それにたいして「よそ者」は、どうしてもそういう傾向を持ってしまう。それもまた、仕方のないことだ。しかしそのようなよそ者が共同体の内部に入り込んでくれば、まちがいなく「異物」になってしまう。そうして僕のように物笑いの種になっているぶんにはまだいいが、特権的な立場に立たれると、そりゃあ怖くもなるしいらだちもするでしょう。
いや、僕だって、けっこう人をいらだたせる存在になってしまっている。
僕のようなおばかな存在でもそうなのだから、一部のユダヤ人のように、よそ者のくせに共同体の内部に入り込んでしかも特権的な立場を獲得してゆかれたら、そりゃあ地元民はいらだつでしょう。スラム街に住んでいる黒人や、辺境に追いやられていた日本の熊襲やサンカとはわけがちがうし、15世紀ころからはじまったユダヤ人隔離政策によって「ゲットー」といわれるユダヤ人だけの狭苦しい団地のようなところに押し込められていた人たちともちょっと立場が違う。
いや、ゲットーの住民だって、限られた条件の中で、地元民にはない商才や知性を発揮して生きていた。ただ彼らの多くは、そこで許されているユダヤ教の信仰生活に沈潜し充足してゆくことも知っていた。
しかし一方には、すでに特権階級の地位を与えられているゲットーの外のユダヤ人もいたわけで、そんな状況を眺める一般の地元民の意識は、陶然、コンプレックスと侮蔑の両極を往還することになってゆく。
特権階級のユダヤ人がそなえている高潔な知性、それじたいが、地元民というか人間そのものの意識をいらだたせる何かがある。人間なんて高潔な知性だけでは生きられない存在なのに、ユダヤ教の選民意識に支えられたユダヤ人は、それだけの存在になりきってしまうこともできる。で、そのときそれを「気味が悪い」と反応することは、たんなる「凶悪さ」や「愚鈍さ」だろうか。人間は、なぜそんなふうに反応してしまうのだろうか。
ユダヤ人は確かに優秀であるが、そんなところに人間の目指す未来があるのではないのかもしれない。
人の心は、いつもどこかしらに、凡庸になってみんなと仲良くやっていこう、という思いが疼いている。永遠の命を生きて完全な人間になることなんか、誰もできない。この限られた命を生きるためには、目の前にいる相手が完全であろうとあるまいと、美しい心や姿を持っていようといるまいと、とりあえず「他者」であることそれじたいにときめくことこそ希望になりうる。なのに、高潔な人や美しい人は、それではだめだと、存在そのものが語っている。
人間に残された時間なんて、ほんのわずかだ。いつ実現するかもわからない「高潔」だの「美」だの「善」をあてにして生きてゆく余裕なんかない。そう思うとき、われわれの胸のどこかで、進歩する歴史を押しとどめようとする衝動がひそかに疼いている。われわれは、死に向かって生きているのだ。時間よとまれ、という思いは、いつもどこかしらで疼いている。民衆のなかのそういう疼きが、愚劣で凶悪な反ユダヤ主義的言説に、つい加担してしまうことになる。
神に選ばれた民として、「人間の全き成熟(レヴィナス)」をめざすその知性は、果たして「善」であり人間の「普遍性」であるのか。なにもめざさないで、いま目の前にいる他者や世界に全身で反応したい、そう思ったらいけないのか。ユダヤ人差別には、そういう問題が隠されている。
ユダヤ人だって、そういう問題を抱えている。だから彼らは、とても「自己嫌悪」が強い。自己嫌悪が強いから、ゲットーに閉じ込められてしまうようなひどい仕打ちも、受け入れてしまうのだ。彼らは、その自己嫌悪の知性によってよそ者のくせにたちまち特権階級になってしまうような人物も生み出すが、その自己嫌悪ゆえに、みずからの知性を解体して酷い差別に甘んじてしまう従順さも持っている。
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同じ「異人」でも、ユダヤ人のようにその特権的な「知性」を駆使しながら共同体の中枢に入り込んでゆく者に対して、現在のフリーターという「異人」の若者は、あくまで非知性的に「好きな女の子とエッチして暮らせればそれでいい」という生き方を選択する。もしかしたら彼は、非知性的なのではなく、知性を解体する知性を持っているのかもしれない。知性には、そういうはたらきもある。
古代バビロンの時代から現代のヒットラーまで、ユダヤ人は迫害の歴史を生きてきた。その迫害に耐えて生き延びるために、彼ら特有の「知性」が育ってきた。それにたいして共同社会は、たえず知性を解体して歴史(伝統)に溶け込んでゆこうとしている。その極端な成果として、上記のようなフリーターの若者が現れてきたのかもしれない。
どちらも、否定するべきではない。われわれは、その両義性において存在している。迫害するがわも迫害されるがわも、「善」であると同時に「善」ではないのだ。
そして僕は、日本人であるがゆえに、ユダヤ的であると同時にユダヤ的ではないというその狭間で、途方に暮れながら生きている。
現在の世界を支配しているのはユダヤ人であるのかもしれないが、ユダヤ人の知性が世界の未来を指し示しているとも思えない。なんといってもこの世界は、知性を解体して目の前の者と仲良くやってゆこうとする人間のほうが多数派だし、そういう衝動は誰の中にもあるにちがいない。
現在のグローバル資本主義は、見えないバーチャルな他者とのネットワークをつくってゆく非共同体的な運動であり、それはたしかにとてもユダヤ的であるのかもしれないが、この世界の動きがそれだけですむわけがない。ユダヤ人が迫害されつづけてきたということは、知性を解体してゆかないことには他者との関係はうまくいかない、ということを証明しているのではないでしょうか。彼らは、地元民の知性を解体してゆこうとすることの存在証明として、迫害されつづけたのかもしれない。
ある時代のスペインで、彼らは、ユダヤ教を信仰することをやめないのなら財産を捨てて国を出て行けと国王から迫られ、迷うことなくその通りにしてスペインから出て行ったのだとか。これは、たんなる信仰心の問題ではない。彼らは、スペイン人としてみんなと仲良くやってゆくことより、ユダヤ教という「知性」を解体しないことを選んだのであり、解体できなかったのだ。
しかし彼らは、同時に、富を追及するという「知性」を解体してみせた。このへんが、ユダヤ人の複雑なところであろうと思えます。
で、われわれの資本主義という信仰も、将来、ある岐路に立たされたとき、凡庸になってみんなと仲良くやってゆくことよりも、資本主義的知性を解体しないことを選ぶだろうか。
僕は、そうは思わない。なんのかのといっても人間は、あのフリーターの若者のように人と仲良くやって生きてゆければそれでいいという面も持っているわけで、たとえ衣食足ってもそれがなければ生きてゆけないのだ。
われわれは、この生に知性を必要としているのではない。知性を解体する知性を必要としているのであり、それこそが歴史(伝統)という装置の本質にほかならない。
人類の歴史がかくも執拗にユダヤ人迫害を繰り返してきたという事実は、人類における知性=観念を解体しようとする無意識的な衝動が、いかに切実で普遍的であるかを物語っている。
ユダヤ人の知性を無限に上昇させようとするエネルギーもすごいが、あんなひどい迫害を甘んじて受け入れてしまうほどの「知性を解体してゆく知性のはたらき」にこそ、人間の本性が表現されているのかもしれない・・・・・・なあんて言うと、けっきょくレヴィナス先生の受け売りのようになってしまうのだが、とにかく、このレポートのテーマは「知性の解体」ということかなと、なんとなく思い始めています。