アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・2

内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」は、次のように最終章を締めくくっています。
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「わたしたちがユダヤ人について語る言葉から学ぶのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人についてそれ以上語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである。」
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つまり、後ろめたさと無知をともなわない反ユダヤ論などありえない、優れた反ユダヤ論などあったためしがない、反ユダヤ主義に一片の正義も必然性もないのだ、ということらしい。まあ、内田氏のようにユダヤ人との関係をじっさいに持っている人にとっては、そう結論して彼らとの友情を再確認したいのだろうが、そういう言い方をされると、強引な反ユダヤ論と同じくらい党派的なものを感じてしまう。
僕は、ユダヤ人と会ったことも話したこともないが、この本を読んで自分もユダヤ人についての何かを語りたくなった。そしてがんばって考えたら、語ることは無限にありそうな気がした。そこには、人間存在や人間の歴史の普遍的な問題がたくさん隠されているような気がした。
だから、こうして書き始めている。
理路は破綻しっぱなしかも知れないが、自分から絶句なんかしない。
僕は、ユダヤ人が差別されたり攻撃されたりすることは、内田氏やレヴィナスの言うように、「善」が受難にあっている、とは思わない。そんなことがあっていいとはけっして思わないが、それは「善」ではなく、ある「人間のかたち」なのだと思う。べつに、ユダヤ人こそ人間としてもっとも本性的な存在なのだとは思わない。内田氏の言うようなことが、人間の本性だとも思わない。
この本を読みながら僕は、差別したり攻撃したりするがわの、ユダヤ人にたいするその「なんともたまらない気持」はいったいどこにあるのだろうといつも考えていた。
ぶちまけていってしまえば、ユダヤ人には、人間の本性や人間の歴史から逸脱している部分がある。それはもう、歴史的にそういう存在であることを余儀なくされている、ということかもしれない。そうして、人間の本性や人間の歴史に立ち帰ろうとする者とのあいだに、ある摩擦が起きる。どちらがいいとか悪いという問題ではない。人間は、人間の本性や人間の歴史から逸脱しようとする存在であると同時に、そこに立ち帰ろうとする存在でもあるのだ。
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父祖伝来の叡智とともに「バランスの取れた凡庸さ」で生きているフランスの地元民(民衆)は、ユダヤ人の知性を静かに軽蔑している・・・・・・とサルトルが肯定的に語るのにたいして、内田氏は、彼らがそういうところに居座ってユダヤ人の豊かな「知性」や「道徳性」を攻撃するのは倒錯だ、という。
そうだろうか。「知性」や「能力」を携えて生きることが、そんなにすばらしい生き方だろうか。そんなものを追い求めるのが人間の本性だろうか。凡庸でもいい、そばにいる人間と仲良くやってゆけたらそれがいちばんだ、と思って生きてゆくのは、倒錯した生き方なのですか。他者と仲良くすることではなく、「知性」や「能力」を追い求めるのが人間の本性なのですか。それはたしかに現代社会においてはけっして小さくはない価値になっているが、それがないとうまく生きてゆけない社会になってしまっているともいえるが、しかし「知性」や「能力」が得られないといって気が狂う人間はほとんどいない。この世の精神の病はおおかた「他者との関係」の失敗から起きている。それは、人間がいかに「他者との関係」にこだわって生きているか、そこのところをうまくやっていけないと人間は生きていけない、ということを意味している。
そういう「失敗」が起きない装置(人間の知恵)として、伝統文化がつくられてゆくのだ。
伝統文化は、人と人の付き合い方を、頭で考えるのではなく、すべて作法=かたちにしてしまう。挨拶をしたりお辞儀をしたりすることは、たんなる作法=かたちであり、考えてやることじゃない。伝統文化の中で人は、いちいち考えなければならないことから解放されて、そういう「バランスの取れた凡庸さ」を身に付けてゆく。凡庸な人間でも生きてゆける装置として、伝統文化が機能している。つまり、人と人が愛し合うことはたがいに「凡庸」になることであって賢くなって相手の心を読み合うことではない、ということを人は本能的に知っているのだ。
しかし、よそから共同体にやってきたユダヤ人は、あくまで相手の心を読む知性を駆使して関係をつくってゆこうとする。彼らは、民族性として、すでにそうやって頭で考えて人間関係を操作してゆこうとする習性が身に付いている。フロイドをはじめとして、ユダヤ人に優秀な心理学者が多いのは、なんとなくわかる。欧米において、精神科医は、もっともユダヤ人的な職業のひとつなのだとか。彼らの、地元民にはないその知性は、きっと商売をしたり学問をしたり映画監督になったりするには有利に違いない。しかし、その知性ゆえに彼らは、永久に「地元民」になることはできない。
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この世に美しい人間や能力の豊かな人間がいるかぎり、凡庸でもいいという生き方は、なかなかできない。そういういらだちが、ユダヤ人にたいする差別や怖れにつながっている。それはべつにユダヤ人だけの責任ではないが、ユダヤ人の中にそういう人間がたくさんいるかぎり、地元民のいらだちは消えない。
ホリエモンは、自家用機に美女のタレントを呼んでパーティをしたりして暮らしている。俺は、どこにでもいるような女を彼女にしながら、年に一回ディズニーランドに行ったりしているだけだ。むかつく・・・・・・そう思うのは、仕方のない部分もあるでしょう。われわれはどうしてホリエモンのようにえげつない人間になれないのだろう。
地元民はなぜ、よそからやってきたユダヤ人にしてやられるか。かんたんなことです。地元民は凡庸で、ユダヤ人は、ホリエモンのように非凡だからです。そして人は、凡庸であろうとしつつ非凡たらんとする存在であるわけで、どちらも本性的であると同時に本性的ではないのです。
ただ、よそ者であるユダヤ人は、凡庸であっては生きられない宿命を負っている。そういうユダヤ民族の文化が、凡庸を糧として生きている地元民をどうしても刺激してしまう。
世界中に差別されている民族や人種はたくさんあるが、ユダヤ人だけは特別だと言われるのは、彼らが個人として立ってゆくための非凡さを追求する文化を持っていて、集団に溶けてゆく凡庸さが希薄だからかもしれない。彼らは、集団に溶けてゆくことはせず、個人どうしのネットワークをつくって生きてゆこうとする。
下世話な例で言えば、彼らは、利益のためなら誰とでも手を組むわけで、安易な共同体への帰属意識はない。そしてそれがいいほうにはたらけば、世界中に広がるヒューマニズムのネットワークにもなる。しかし、ギリシア都市国家以来、地域の結束に対するこだわりが強いヨーロッパ人にとっては、その態度がとても目障りになってしまう。
ヨーロッパ人(アーリア人)の地域主義は、ユダヤ人のグローバル性と逆立している。
そこがユダヤ人のすごいところだ、そこにこそ人類の理想の未来がある、とは僕には思えない。ことは、そうかんたんではない。そんな理想は、身近な他者との関係を適当に片付けてしまったところで実現されるのだ。それでいいのか。
身近な他者との関係にこだわれば、世界平和なんてどうでもいい。行ったこともない国の自分にとってはバーチャルな存在でしかない人々のことを愛さなければならない義理なんて、誰にもないでしょう。極端に言えば、俺は好きな女の子とエッチして生きていければそれだけでいいんで、会社も国も世界平和もどうでもいい、と考える若者の心にも、一片のヒューマニズムはあるでしょう。むしろそちらのほうが本性的だといえる部分もある。
目の前のリアルな存在である他者とだけ関係してゆこうとするヨーロッパ人(地元民)と、遠くにいるバーチャルな存在である他者とのネットワークをつくってゆく能力を持ったユダヤ人(よそ者)。そしてこの社会は、ユダヤ人であろうとあるまいと、けっきょく後者のような生き方をしている者たちにリードされてゆくことになる。前者がそういうことに気付いたとき、摩擦が起きる。
ユダヤ人の美質は、ユダヤ人の気味悪さでもある・・・・・・ヨーロッパ人にそんな感情が芽生えてくるのは、なんとなくわからなくもない。そしてそれは、あながち理不尽な感情ともいえない。まあそんなこともあるだろうな、と思わせられる。