アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・1

内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」を読んだので、自分も、ユダヤ人について考えてみることにしました。
僕は大雑把な人間だから、大雑把な言い方をしかできない。「ユダヤ人」について何を知っているわけでもないし、研究者のような「調べる」ということのできる勤勉さもない。だいたいのところでまず書いてみて、そこから考えたり、最低限の必要なことを調べたりしてゆく。まず池に石を投げてみる・・・・・・これが僕のやり方です。
とりあえず「ユダヤ人」のことを、あくまで大雑把にアプローチしてみます。
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欧米人は、なぜあんなにもユダヤ人を差別したり憎んだり怖れたりするのか。
それは、ユダヤ人が、世界を支配してしまうくらい「優秀」で「ずるい」からだ。欧米人の誰もが、とてもかなわない、と思っている。
内田氏によれば、「反ユダヤ主義者は、ユダヤ人を激しく欲望している」のだとか。そうでしょうね。商人であるにせよ学者であるにせよ芸術家であるにせよ、誰だって、ユダヤ人のように世界を支配する存在になってみたい。
ユダヤ人はなぜ、世界を支配してしまえるくらい「優秀」で「ずるい」のか。
「私家版・ユダヤ文化論」の結論としては、在来種としてもともとそこに住み着いていた欧米人に対して、ユダヤ人は、あとからやって来てその共同体に参加してゆかねばならない立場であることを宿命付けられている人びとである、ということだそうです。だから、「在来種=地元民」の何倍も努力し、何倍も優秀になり、何倍もずるくなってゆく。
べつに「優秀」だからすばらしいのでもないし、「ずるい」からいけないわけでもない。ただ、欧米人とユダヤ人の関係は、「地元民」と「よそ者」という決定的な立場の違いがある。
「私家版・ユダヤ文化論」の思考は、ここで終わっている。世界の言論界におけるユダヤ人差別の歴史を長々と書いてきて、この結論で終わっている。興味深い読み物だったけど、そこがね、ちょっと不満です。われわれの知りたいのは、その先のことです。われわれは、ここから考え始める。いじわるな言い方をすれば、このていどの結論など、考えなくでも出せる、ということです。
そりゃあ、古くからそこに住んでいる人からしたら、一部のよそ者に地元を支配されるのは不愉快でしょう。差別されたり憎んだりされますよ。差別してもいいとは断じて思わないけど、されますよ。そうやってのし上がっていったよそ者を、僕は全面的に肯定するつもりもないし、差別したり憎んだりする地元民を否定することもようしない。
「私家版・ユダヤ文化論」は、最後に著者の敬愛するユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスの次のような言葉などを引用しながら哲学的に格調高く結んでいるわけだが、下世話に言ってしまえば、まあそういう問題でしょう。
次の引用文は、E・レヴィナスによるユダヤ教の神についての解説です。
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「それが受難という言葉の特殊ユダヤ的な意味である。(・・・・・・)秩序亡き世界、すなわち善が勝利しえない世界において、犠牲者の位置にあること、それが受難である。そのような受難が、救いのため顕現することを断念し、すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟をこそ求める神を開示するのである」
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たとえば、ナチスユダヤ人大虐殺、それは、たしかに「受難」でしょう。こんなことが、あっていいはずがない。しかし、みずからを「善」と認識する資格など誰にもない、と僕は思っている。僕はその大虐殺を、ユダヤ人が犠牲者になったということは100パーセントそう思うけれど、「善」が犠牲になったとはぜんぜん思わない。「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟」と言うのなら、みずからを「善」などと認識するべきではないでしょう。そういう言い方は、どこかしら言い訳じみているし、センチなナルシズムの匂いがしないでもない。そのへんが、いまいちレヴィナス先生についてゆけないところです。
たぶん、「善」が受難にあった、というようなナルシスティックな認識をしてしまうところが、ユダヤ人を優秀にもし、優秀であるがゆえに差別されたり憎まれたりしなければならない由縁にもなっているのだろうと思います。
暴言だと非難されることを覚悟で言ってしまえば、「善が受難にあった」なんて、人間として横着であり、あつかましすぎます。何様のつもりか。それは、どうしようもない「運命」だったのだ。そう認識してヨーロッパ人を愛してゆくことができなければ、あなたたちはいつまでたっても、彼らから差別され怖れられなければならないだろう。
みずからを「善」と認識するところに、「他者」は存在しない。みずからを「善」と認識するユダヤ人に、「他者」は存在しない。他者を喪失して、みずからを「善」なる存在の高みに押し上げようとすることにどの民族よりも深く熱中することができるから、彼らは、優秀にもなりずるくもなるのだ。「優秀=善」であるということは、「ずるい」のと同じくらい、他者を蹂躙もしくは無視していることだ。
愛嬌で僕もレヴィナス先生流にセンチな口の滑らし方をしてみるなら・・・・・・他者を愛することのできる人間は、「清らか」になることはあっても、けっして「優秀」にも「善」にもなれない。大切なことは、わたしは「善」であると居直って「受難を引き受ける」ことではなく、「なぜ受難に会わねばならないのかと反省する」ことかもしれない。なぜなら「人間の全き成熟」をそなえた人は、だれもが愛さずにいられないから、そうかんたには「受難」になんか遭わない。すくなくとも、そういう差別や怖れを日常的に向けられることはない・・・・・・とひとまずいっておきます。
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「私家版・ユダヤ文化論」では、愚劣で不当なユダヤ人非難の例はいくつも挙げているし、まあそういう人間の愚行や愚考を告発するために書かれたのだろうが、ユダヤ人に対して、だからあなたたちは差別され怖れられねばならないのだと挑戦してゆくニュアンスの記述になると、いまいち腰が引けている。内田氏じしんがじっさいにユダヤ人との交流を持っているという立場上、仕方のないことかもしれないが。
われわれは、ユダヤ人の美質である「優秀」であるとか「善」であるとか「知性」があるとか、そういうことを欲望しつつ、どこかかでそれらを怖れている。つまり、それらを欲望することじたいがひとつの制度的な抑圧ではないのか、という疑いを抱いている。なのにユダヤ人たちは、そういうことに深く夢中になって邁進してゆく。誰もがそんなことに邁進してしまったら、この世は地獄だ。でも、彼らが邁進していい思いをしているかぎり、われわれだってそれを欲望することをやめることができない・・・・・・そんなような気分として、ユダヤ人にたいする差別や怖れがあるのではないかと思えます。
サルトルは、次のように言っています。
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反ユダヤ主義者にとっては、知性はユダヤ的なものである。だから、彼は知性を(それ以外にユダヤ人が所有しているさまざまな美質とともに)心静かに軽蔑することができる。それらの美質は、ユダヤ人が彼らに欠けているバランスの取れた凡庸さの代用品として用いるまがい物にすぎない。その故地、その国土に深く根づき、2千年の伝統に養われ、父祖の叡智を豊かに受け継ぎ、風雪に耐えた慣習に導かれて生きる真のフランス人は知性など必要としないのである。」
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よそ者は、共同体の制度に参加してゆこうとしている立場だから、それにたいする「抑圧」はない。むしろ、それを利用して共同体に入り込んでゆこうとする。しかし長くそこで暮らしている地元民は、それがすでに「抑圧」になってしまっている。地元民は、「優秀」も「善」も「知性」もなくても、人びとがそれ相応にそこで暮らしゆける「父祖の叡智」という文化=伝統=習慣を持っている。地元民にとっての共同体の制度は、しょうがなく引き受けているものであるが、よそ者はそれをたよりに入り込んでゆこうとする。
だから地元民からすれば、入ってきたよそ者の、制度の「抑圧」に対する鈍感さ、制度に加担しようとするえげつなさ、そんなものが目障りでしょうがないのだ。
地元民は、とりあえず人と仲良くして生きてゆけるのなら、「優秀」も「善」も「知性」も、大して必要なことではないのです。そんなものがなくてもみんながなんとか生きてゆける文化=伝統=習慣を、長い時間かけてみんなでつくってきた。しかしよそ者が入ってくれば、彼らによって「優秀」や「善」や「知性」が必要な社会にされてしまう。そういうものを備えている者たちが得する社会にされてしまう。
そういう怖れが、ユダヤ人差別につながっている。
ユダヤ人が世界を支配しているというのは、そういうことじゃないのだろうか。
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ユダヤ人のその「美質」や「能力」が、世界中の地元民を追いつめている。彼らの被害者意識と世界支配の執拗さは、われわれの想像を絶するものがある。それほどに彼らは、みずからを「善」だと認識している。そりゃあまあ、ナチスにあんな殺され方をした人々なら、そうなるのもしかたないことかもしれないが、その「執拗さ」があるかぎり、非ユダヤ人たちのいらだちや怖れもなくならない。ユダヤ人のその「執拗さ」を肯定するなら、迫害するがわのいらだちや怖れにも情状酌量の余地はある。
現在の世界を支配している一部のユダヤ人がユダヤ人差別の緩和に貢献しているかといえば、そうではなく、彼らの存在こそがユダヤ人差別を助長しているのではないかと思える。彼らは、その優秀さで、つねに共同体の特権的なポジションを占拠してしまう。そういう歴史を懲りもせず繰り返してきている。
彼らに「隣人」などない。その代わりにユダヤ人どうしのネットワークがある。大事なことは、隣人と仲良くすることではなく、みずからの(あるいはユダヤ民族の)「優秀さ」を表現し確認することだ。たぶん、一部のそういう連中が、隣人と仲良くしてゆこうとする平凡なユダヤ人の立場を危うくしている。そういう連中は、隣に誰が住んでいるかもわからないような大きな邸宅を構えて、隣人と仲良くしなくても生きてゆけるのだ。
ユダヤ人たちは、ユダヤ人を差別しているのではない、その「優秀さ」やみずからを「善」と自覚する「傲慢さ」や「執拗さ」にいらだち怖れている。つまり、ユダヤ人その人ではなく、みずからの生活空間が、そういう観念に侵食されてゆくことにいらだち怖れているのだ。もともと「ユダヤ人」という身体的なしるしなどないのだから。
ユダヤ人差別はユダヤ人がさせている、といえば暴言になるのだろうが、差別されるユダヤ人は「善」で、差別する反ユダヤ主義は「悪」だ、という図式ではすまない。いらだち怖れるがわの心にも、たぶん人間として大切なものが含まれている。
内田氏はそれを、人間の「邪悪さ」と「愚鈍さ」というが、僕はそうは思わない。