人類史における共同体(国家)の発生

太平洋戦争のときの軍隊において、勇敢に戦ったのは東北出身の人たちの部隊で、それに比べて関西出身の人たちはからきし根性がなかった、といわれています。
寒い地方の人たちは、寄り集まって祝福し合おうとする心性が濃密です。だったら勇敢に戦うはずがないじゃないかといわれそうだが、そうじゃない、闘争心だって、ひとつの「情念」であり、それもまた他者に対する熱い思いにほかならない。東北人は、よくもわるくも他人のことをほおっておけない。それが、切ない人恋しさになることもあれば、激しい闘争心にもなる。
東北では、歴史的に、本家と分家の縦の関係を中心とした一族郎党の結束力が強い。一方関西から九州にかけての人びとは、そういう結束が弱いかわりに、横のネットワークをつくるのがうまい。
縄文時代は、結束力の強い関東・東北のほうが人口が多く、文化水準も高かった。そうして弥生時代に、東西の境界あたりの奈良盆地に両方から人が集まってきて、結束力とネットワークを兼ねそなえたより新しく大きな共同社会が生まれ、その後の大和朝廷の誕生につながっていった。
縄文時代に東北と九州で戦争をしていたら、闘争心と組織力の問題で、東北のほうが圧倒的に強かったはずです。しかし、大和朝廷ができて以後の歴史においては、東北的な「闘争心・組織力」と関西・九州的な「戦略・ネットワーク」の両方を兼ね備えた大和朝廷に、東北も九州もまるで歯が立たなかった。
したがって、「古事記」にあるような九州の豪族が東進していって大和朝廷をうちたてたというようなことは、ちょっと考えられない。たとえば弥生時代の北九州は、無数の小国に分立していただだけで、それらがひとつの共同体としてまとまってゆく能力はなかった。そんなことのできる強くて大きな豪族はいなかったのです。「九州王朝説」なんて、ただの空想です。九州王朝をつくるチャンスならその後の歴史において何度でもあったのに、彼らはついにつくることができなかった。彼らには、それだけの闘争心と組織力がなかった。
また、大和朝廷に追い払われたといわれている東北の熊襲にしても、朝廷に対抗する国家をつくれるほどの、戦略やネットワークを持つことができなかった。だからこそ、戦国時代になっても、東北だけは「下克上」の嵐が起こらなかった。さらには、明治維新のさいに会津や北陸がとくに悲惨な戦場になってしまったのも、闘争心や組織(結束)力は豊かでも戦略(権謀術数)に疎くてネットワークをつくるのが苦手な、いわばいかにも東北的に純朴な気質の土地柄であったこととも無縁ではないはずです。
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結束して群れをつくってゆこうとする気質と、結束しないでネットワークによって群れを代替してゆく気質、どちらか一方だけでは群れが共同体(国家)に発展してゆくことは難しく、両方が合わさった相乗効果によってはじめてそれが実現する。したがって人類の歴史において、共同体(国家)は、まず南と北の中間の地域で生まれた。
群れが共同体(国家)へと発展してゆくためには、寄り集まろうとする衝動だけでは限界がある。寄り集まろうとするがゆえに、寄り集まって、いずれは固まってしまう。
またネットワークは、発生的には、群れを解体して小集団だけで生きてゆくための装置なのだから、小集団の結束力は強まっても、ネットワークの結束は強くならない。
1万年前までの氷河期のヨーロッパに生息したネアンデルタール=クロマニヨンは、地球上でもっとも大きな群れを組織できる人種であったが、その後の歴史でいちはやく共同体(国家)をつくっていったのは、彼らの末裔ではなく、北のヨーロッパと南のアフリカとの中間地域に生息していたナイル(文明)やメソポタミア(文明)の人たちだった。
ヨーロッパは、それらの文明から少し遅れながら、ネアンデルタールいらいの伝統であるあくまで群れの結束力を追求した都市国家群へと発展していった。そうしてついにローマ帝国という強大な共同体(国家)が出現したのは、都市国家うしのネットワークが生まれてきたからでしょう。
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人類の歴史で、最初に小集団どうしのネットワークを実験していったのは、250万年前のアフリカで、森からサバンナに出てきた人たちだった。ライオンや豹などの大型肉食獣が多く生息するサバンナでは、速い逃げ足を持たない人類が大きな群れで行動することはできない。それに、直立二足歩行する人間の群れがいったん逃げて走り出せば、たちまち散り散りになってしまう。牛や馬の群れのように全員が同じ方向に走っていたら、誰かひとり倒れただけで将棋倒しになってしまう。サバンナに出てきた群れが解体してしまうのはもう、避けがたいことだった。
そのかわり彼らは、小集団どうしのネットワークをつくって情報や女を交換するという習俗を洗練させていった。
サバンナで一ヶ所にじっとしていると、匂いがたまっていって、肉食獣に嗅ぎつけられてしまう。だから、たえず移動して匂いを消しつづけていかなければならない。移動しつづけていれば、ときどき仲間と出会う。そして情報や女を交換し合う。であれば、その仲間は、見ず知らずの相手よりも、気の合う知り合いどうしのほうがいい。そうやって、知り合いどうしのいくつかの小集団が同じ地域内を移動してゆくという関係が生まれてくる。それが、サバンナで生まれてきたネットワークだった。そしてこの習俗は、現在まで一部のアフリカ人によって受け継がれている。
彼らは、知り合いのいないネットワークの外には出てゆかない。出て行ったら、生きてゆくことができない。ネットワークを持ってしまえば、もう拡散してゆくことはできない。その代わり、広い地域でひとつの緩やかな群れをつくっているのだから、群れをつくりながらしかも群れの鬱陶しさがないし、多少の人口の増減にも対応できる、という都合のよい面もある。
これが、ヨーロッパのネアンデルタールのように、できるだけ密集した多人数の群れをつくって定住し、群れの中だけで生活を完結させるという習俗で暮らしていると、人口の増減に対応できなくなる。少なくなれば、男女の交配にもチームワークでの狩にも支障をきたすし、増えすぎれば、混乱が生まれて収容しきれなくなる。
ネアンデルタールは、5万年前の地球上でもっとも大きな群れをつくって暮らしていたが、さらに大きな群れをつくってゆく能力はなかった。そのためには、アフリカのホモ・サピエンスのような広い地域でのネットワークをつくってゆく習俗やメンタリティも必要になってくる。
5万年前の地球上で、アフリカのホモ・サピエンスは戦略的なネットワークの習俗を洗練させ、ヨーロッパのネアンデルタールは、ひたすら集団の結束力のうえに立った群れをいとなんでいた。この両者の習俗が合わさって、はじめて共同体(国家)という、より高度で規模の大きい群れがうまれてきた。それが、ナイル・メソポタミア文明の発祥であり、その共同体(国家)の成立過程において、奈良盆地大和朝廷の成立と共通する構造がうかがえる。というか、共同体(国家)というのは、どこでもそんなふうにして生まれてくるのかもしれない。
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人類の歴史は、農耕を覚えたからより大きな社会を生み出したのではない。寄り集まって来てより大きな共同社会が生まれたから、農耕をするようになっていったのだ。農耕のことは、縄文時代にすでに知っていたのです。知っていたが、大きな共同社会がなかったから、する必要がなかった。つまり人類の歴史は、「知能」ではなく、寄り集まって共同社会をつくろうとする「心」によって動いてきた、ということです。大和朝廷が誕生したことにしても、そこに大きな共同社会が生まれ、それをやりくりしようと人びとが政治を覚えていった結果であって、政治を知っていたから大和朝廷をつくったのではない。大和朝廷になっていった過程で政治を覚えていったのだ。朝廷ができるくらい大きな共同社会に住んでいる者でなければ、朝廷はつくれないのです。そういう大きな共同社会に住んでいる者の「心」に政治の知恵(=知能)が生まれてくるのであって、政治の知恵(=知能)が大きな共同社会をつくるのではない。
すなわち、人間は共同体(国家)をつくろうとする本性を持っているのではない、共同体(国家)が生まれたことによって共同体(国家)をいとなむ観念が育ってきたのだ、ということです。このことは、人類史において、けっして小さくはない問題であるはずです。国家をつくろうとする知能が国家をつくったのではない。人間の群れは、むやみに人が寄り集まってくる状況が生まれてしまう。まずそういう「心のはたらき=習性」を持っており、その状況をやりくりしようとして、国家が生まれてくる。そうやって、気付いたら「国家」になっていた、というだけのことだろうと思えます。
それは、人間であることの「刑罰」であって、能動的な「意志」によるのではない。
まず、他者を排除できない「心のはたらき=習性」があるから、国家になってしまう。そうして国家になってから、他者を排除しようとする「心のはたらき=習性」が生まれてくる。膨張しすぎた群れはもう、異質な他者を排除することによってしか維持できない。
国家とは国民を均質化しようとする装置であり、均質化しようとするその衝動が、異質な他者を排除しようとする。他者を排除しようとする衝動は、共同体(国家)が生まれてからはじめて起きてくるのであり、根源的な衝動ではない。したがって、共同体(国家)が生まれてくる以前の原始人の歴史を、「排除の衝動」によって語ることはできないはずです。
人間は、サルやライオンのように異質な他者を排除できなくなったことによって、「人間になった」のであり、「人間になった」ことによって、サルやライオンよりももっと異質な他者を排除する存在になった。