「漂泊論」・11・ジャパンクール

   1・思春期の恋と友情
マンガというのはあなどれないなあ、とつくづく思う。この国のマンガ文化が「ジャパンクール」として世界に発信されている理由はどこにあるのだろう。
世界中にこの国のマンガマニアがいるらしい。
「ジャパンクール」としての「かわいい」という文化のフランチャイズは、なんといっても高校生の学園生活にあるのだろうか。
僕などはこの歳になるとそうした「学園もの」にはあまり興味もわかないが、恋にしろ友情にしろ、高校生の年代こそもっとも純粋にそれを体験しているのだろうな、ということはなんとなくわかる。
そうした関係において、小学生や中学生よりも高校生の方がずっとイノセントだ。そして、大人の関係の方がずっと確かだということもない。
小学生や中学生の心は、まだまだ親という大人の影響下にある。高校生の年代になって、はじめてひとりの人間として世界の中に立たされる。
そして大人になれば、また社会の制度性に汚されてゆく。大人たちがどんなに自慢しようと、大人の恋や友情なんか、駆け引きばかりして、少しもたしかじゃないし、美しくもないし、子供や若者はちゃんとそれを見ている。
たぶん人の一生において、高校生時代にしか体験できないイノセントな恋や友情があるのだろう。そして多くの大人たちが、もうあのころは戻れない、と感じている。
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   2・青春という時間
現在の学園もの人気マンガといえば、「君に届け」とか「ラブリー・コンプレックス(ラブ・コン)」とか、いろいろあるのだろうが、そうした学園マンガを、中学生や小学生も見ている。それは、高校になればそのような駆け引きなしの純粋な恋や友情が体験できるにちがいない、とあこがれているのだろうか。
たぶん今や、小学生や中学生の恋や友情だって社会の制度性に汚されてしまっている。彼らは、等身大の恋や友情なんか夢見ない。すでに覚めてしまっている。
恋も友情も、高校生にならないとはじまらないし、高校生で終わってしまう。
いまどきの少年や少女にとって、それほどに高校時代は、はかなく貴重な時間であるのかもしれない。
そしてこの時期の「学園もの」においては、この国の「ジャパンクール」のマンガがいちばん「イノセント」を追求し表現しているらしい。
こういう話で感動させようとすると「難病=死」とか「いじめ」などをテーマにするのがいちばん手っとり早いのだろうが、そういう道具立てを使わずにあくまで高校生活の日常の中の恋や友情の「心のあや」をきめ細かく表現している作品もあるし、意外にそれが人気を博したりする。
そうして人気が出たマンガは、テレビアニメになり、最後には実写の映画にされてゆくのだが、こういうときに原作マンガの表現がいちばん豊かで、俳優を使った実写の映画は、どうしても実写ゆえの制約があって原作を超えられない場合が多い。
マンガでは、いろんなデフォルメや飛躍の表現が使えるし、嘘そのものにリアリティを与える力を持っている。
映画では人物の顔や動きを誇張したりデフォルメしたりするのはなかなか難しいが、マンガでは自由自在にできる。しかもマンガの一瞬一瞬のいわばストップモーションの画面の連続が、かえってそのひとコマの印象を深く鮮やかにしたり、想像力をかきたてたりする。
マンガ表現の多彩さは、映画の実写を超えていることが多い。
手とり足とり見せてくれる映画になると、どうしてもこちらの想像力のはたらきが怠惰になってしまう。
とはいえ映画だって、いい脚本といい監督と旬の魅力的な俳優の演技がそろえば、多くの観客を集めることになる。
映画における物語の構成力は、ハリウッドや韓国にかなわない。しかし、イノセントな心のあやの表現は、ジャパンクールの文化の大きな財産のひとつになっている。外国人からすると、どうしてそこで「ごめんなさい」というのかとか、どうしてそこでためらったりはにかんだりするのかというようなことがとても不思議で、同時にそこにプリミティブな人間のかたちを発見したりする。
外国では、わかり合うこととわかり合えないことの二極構造で物語が転換してゆく。しかしこの国では、わかり合うのでもわかり合えないのでもなく、一方通行の心のやり取りをしてゆく妙がある。そういうコミュニケーションの不調から愛らしい関係を紡ぎだすところに、ジャパンクールのコミックの真骨頂がある。
たがいに一方通行の気持ちを交換し交感してゆく、という作法……これはきわめて日本的であると同時に、なぜか外国人の心もとらえてしまう。
今や人類全体が、他者を説得し支配し操作する「コミュニケーション」という名の制度的な関係に疲れ果てている。
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   3・コミュニケーションの不調という愛らしさ
たとえば、「君に届け」という映画で、こんなシーンがある。
そのクラスメートの少年と少女は、たがいに魅かれあっているが、おたがいに相手の気持ちがよくわからない。少年はクラスの人気者で、一方少女は誰よりもひたむきでイノセントな心の持ち主だが、不器用で引っ込み思案のために陰気でお化けみたいだとクラスのみんなから誤解されている。
イノセントゆえのコミュニケーションの不調が生み出す愛らしさ、それがこのストーリーの主題になっている。
二人がたがいの恋心を意識しだしたころ、少女とその少年の親友が仲良くしているという噂が立ち、ある日二人がひと気のない体育館で親しく話をしているのを少年が目撃する。少女はもちろんその親友に恋心を持っているわけでもないのだが、もともとイノセントな性格であるために自分の恋愛感情というものがよくわからない。だから、もし知っているなら教えてくれないか、と相談していた。
そこでその真田という少年の親友は、それは気がついたら相手が特別な存在になってしまっていることだと答え、少女が新しく友達になった千鶴ちゃんという女子に小学校のときから片思いをしていることを打ち明ける。「これ、内緒な」といって。
聞かされた少女は、その純粋な気持ちに「すごくステキ!」と感激する。
しかし体育館の外からその現場を目撃してしまった少年は気が動転して、二人のそばに行き、むりやりさらうように少女の手を引いて校庭の隅に連れてゆく。
少女は、少年がどうして怒っているのかよくわからない。怒っているのかどうかということもよくわからない。ただ、手を引かれていることがちょっとうれしい。
校庭の隅に来て少年は、手を離して少女に聞く。「あいつのことが好きなの?」と。
少女は「はい、好きです」と答える。
少年は、がっかりしてうなだれる。
そこで少女がいう。「でもそれは、特別な気持ちというのではなく、クラスメートとしてというか……」と。
少年は、ほっとすると同時に、疑ったことの自己嫌悪が混じり合って、「そうか……」と泣きそうな顔で呟きながらしゃがみこんでしまう。
そのようすを前にして少女は、彼はきっと自分の親友の魅力がわかってもらえなかったことにがっかりしたのだろうと思い、「でも真田君は、すごくかっこよくて、とても優しい人だと思う」と言い訳する。
少年は、あらためて少女のイノセントに触れた思いで苦笑いする。
少女は、うまく答えられなくて申し訳ない、というような顔をして少年を見る。
少年は、恥ずかしそうに「いや、ごめん。そうじゃないから……」という。
少女は、わけがわからないまま、しかしなんとなく少年といることに和らいだ気分になりながら、一緒にその場にしゃがみこんでゆく。
夕暮れの校庭にしゃがみこんでいる二人の後ろ姿の俯瞰ショット……そのとき二人の気持ちは何も通じていない。しかしそれでもそれは、二人の気持ちが一挙に接近した瞬間でもあった。
うまく説明できないが、こうした一方通行の気持ちのやり取りの妙こそ、この作品の「君に届け」というタイトルが示している主題なのだろう。
恋や友情はつくろうとしてつくるものじゃなく、気がついたらそうなっていることだ……とうようなセリフが何度も出てくる。つまりそれは、一方通行の気持ちのやり取りの果てに気づくことだ、といいたいのだろう。
もちろん、上質な映画というわけではない、嘘っぽくて他愛ないストーリーだ。しかしここには、変にシリアスでドラマチックな映画よりもずっとジャパンクールの神髄があるように思える。可愛いというのかキュートというのか、たぶんこんな平板なストーリーは、韓国やハリウッドでは採用されないだろう。
しかしこういうわかり合うのでもなくわかり合わないのでもないやりとりの微妙なニュアンスやイノセントが、意外に外国人にも通じているらしい。
そして上記したもうひとつの「ラブ・コン」という「マンガ=アニメ=映画」にいたってはもっとハチャメチャでマンガチックなラブコメディだが、だからこそさらに過激なコミュニケーション不調の愛らしさが際立っているともいえる。
クラスでいちばん背の高い女子といちばん背が低い男子はケンカばかりしているけど誰もが認めるクラス一の仲良しコンビであり、やがて女子が男子に好きだと告白するのだが、男子は身長のコンプレックスがあるせいか、好きに決まっているのにどうしても自分も好きだとはいわない。ひたすら漫才コンビのようなケンカ友達のままでいようとする。そのコミュニケーションの不調から生まれるドタバタ劇。まあ、そのような話だ。
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   4・われわれを支配し操作するものの正体
今や世界中が、ジャパンクールのマンガから発信されてくる「かわいい」というイノセントに注目している。
現代の文明社会の構造は複雑で高度になり、われわれは、見えないどこからか知らず知らず支配され操作されてしまっていることを感じている。だからこそ、人を支配し操作しようとしないイノセントな心が気になる。
「時代の閉塞感」などという。それは、支配され操作されているという感覚だ。この感覚はもう、この国だけでなく、世界中を覆っている。
昔はたぶん、支配するものとされるものという関係がもっとわかりやすかった。しかし今や、誰もが他人を支配し操作しようとする衝動を持たされ、けっきょくそのために誰もが支配され操作されているという「閉塞感」を抱え込むほかない状況に陥っている。
われわれはもう、自分で自分を支配し操作してしまっている。われわれを支配し操作するものの正体が見えない……とは、ようするにそういうことかもしれない。
「かわいい=イノセント」とは、世界や他者を支配し操作しようとする企みを持たず、ひたすら体ごと世界や他者に「反応」してゆく感性のことである。
現在のこの国のギャルがむやみに「かわいい」といいたがるのも、この社会や大人たちのむやみに人や世界を支配し操作しようとばかりしている態度に深く幻滅し、その対極としての「イノセント」の世界の住人であろうとする態度なのだ。彼らはそこに、この閉塞感から抜け出す光を見出そうとしている。
世界や他者を支配し操作しようとするのではなく、「かわいい」といってひたすら無邪気にときめいてゆく。そうやって体ごと世界や他者に反応してゆければ、それはそれで閉塞感からの解放にちがいない。
「かわいい」の文化は、現代社会が病んでいることの結果として生まれてきた。
この国には、そういうイノセントな反応が生まれてくるような伝統の風土がある。
それは一方通行の関係の文化である。故郷に帰ることを断念した「漂泊」の文化である。
この閉塞感は人と人のリアルなコミュニケーションを喪失しているからだ、とかんたんにいってもらっては困る。そのコミュニケーションそのものが、曲者なのだ。コミュニケーションとは、人と人が支配し操作し合うことでもある。
コミュニケーションが不調の一方通行の関係の「あや」にこそ、この国の伝統的な人と人の関係の作法がある。ジャパンクールとしての「かわいい=イノセント」のムーブメントは、そういう伝統を水源としている。
まったく、「コミュニケーション」という言葉は曲者である。
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   5・故郷には帰れない
現代社会は、コミュニケーションが不足している、などという。そうして、若者のコミュニケーションの能力のつたなさを大人たちが嘆く。
では、コミュニケーションが完璧であればいいのか。コミュニケーションによって、人が人を支配し操作するということが起きる。現代人は、人を支配し操作しようとばかりしているから、もっともっととコミュニケーションを欲しがる。そうやって、コミュニケーションの不足を嘆いている。
コミュニケーションの上手な人間にしてやられる世の中だ。だから誰もが、コミュニケーションがうまくなりたい。そういう欲望が強い世の中だから、その不足が嘆かれる。そりゃあ、人を完璧に支配し操作することは難しいさ。それでもそうしようとするから、もっともっととコミュニケーションを欲しがる。
しかし現代の若者は、そうした関係と決別し、ひたすら反応しときめいてゆく一方通行の心を交換し交感し合う関係を模索している。そういうイノセントなときめきから、「かわいい」というジャパンクールの文化が生まれてくる。
コミュニケーション能力があるからえらいというものではない。それは、この社会を生きてゆくためには有効な能力ではあるが、同時に、人を支配し操作しようとする人間が隠し持っているえげつない陰謀術数でもある。そういう権謀術数を、多かれ少なかれ誰もが隠し持っている世の中になってしまっている。それだって、他人に対するひとつの凶器なのだ。
現在の子供たちは、大人たちにさんざん支配され操作されて育ってゆく。そういう「故郷」には、もう帰りたくない。子供として支配され操作されていれば安心だが、もう帰れない。それが思春期という時代なのだろう。
大人が子供を、強いものが弱いものを支配し操作している予定調和の社会。しかしそんなことをしても、大人が子供に、強いものが弱いものに好かれるわけではない。むしろそうやって他人を支配し操作しようとするのは、人に好かれることのできない嫌われものが生き延びるための処世術にすぎない。そんなことばかりしているから、大人は子供に嫌われるし、強いものは弱いものに嫌われる。
内田先生は、「この世の弱いものや子供は教育してやらないといけない」といっておられる。まったく、嫌われもののブ男はこういう作為的な支配欲が骨の髄までしみついているから目ざわりなのだ。
人を好きになったり好かれたりする関係は、そういう予定調和の世界の向こう側にある。そういう予定調和の世界から旅立っていったところで、人は人に出会い、ときめいてゆくのだ。
人類は、文字によって、完璧なコミュニケーションを獲得した。それによって、人を支配し操作するという共同体(国家)の制度性が確立していった。
もしかしたらジャパンクールのマンガ文化とは、そうした文字による制度性・関係性を超えようとするムーブメントであるのかもしれない。
それは、コミュニケーションという予定調和の「故郷」に帰ることを断念した「漂泊」の旅なのだ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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