ツインテールの憂鬱・初音ミクの日本文化論(6)

バブル経済の崩壊と入れ替わるようにして登場してきた「かわいい」の文化のムーブメントとしてもうひとつ忘れてならないのは、武内直子作の『美少女戦士セーラームーン』でしょうか。
これはもう、「かわいい」系マンガ・アニメのバイブルともいえる名作で、作品発表直後から原作もアニメも世界中に発信され、多くの少女たちを魅了していった。
 原作はかなりハードでダークなSFファンタジーだが、テレビアニメはお茶の間向けのソフトで明るい内容にアレンジされている。それでも原作とテレビアニメの両方とも圧倒的な支持を得ているのは、主人公である「月野うさぎ」という中学2年生の少女のキャラクターや姿の造形がそれだけの普遍的な魅力を備えているからでしょう。
まずキャラクターに関しては、「少女戦隊もの」の草分け的なアイデアで、今では「かわいい」キャラの定番のひとつになっている。ギリシャ神話にもアマゾネスの話があるが、このマンガでは思春期の少女のリリカルというかその超俗的で決然とした気配を象徴している。
思春期の少女は、大人たちによる政治経済の俗世の対極に存在している。大人たちが決めた人生の価値なんか認めない。少女たちは、それと戦うヒロインを求めている、ということでしょうか。
彼女らは「処女」という場合によってはこの世の最高の価値の持ち主であると同時に、それゆえにか親をはじめとする大人たちからもっとも強く監視され抑圧されている存在であり、ときにDVや近親相姦の被害者にされてしまう存在でもある。だから、「戦うヒロイン」が待望されているし、その決然として戦う姿はもっとも凛々しく美しい。
ふだんはドジで泣き虫の少女があるとき決然とした女戦士に変身する、という設定も、おおいに共感を呼んだのかもしれない。そしてこの物語の底流にはつねに「月の女神」がかかわっており、そういう「非日常=異次元」の世界の気配を盛り込むことも「かわいい」の文化の大きな要素のひとつになっている。
思春期の少女は、この世の外の「異次元=非日常」の世界の住人です。彼女らはみずからの成長しはじめた体の鬱陶しさとともに女としての社会的立場も中途半端で、この世でもっとも生きてあることに倦んでいる存在であると同時に、体の鬱陶しさから逃れるためにもっとも体を動かしたがっている存在でもある。
まあ今も昔も、「かわいい」の文化のムーブメントは、この世代が中心になって起きてくる。
そして姿の表現の魅力においては、セーラー服をアレンジした衣装と同時に、思い切り大げさなツインテールの髪型にあるらしく、これは現在の初音ミクに引き継がれている。

男の子と女の子とどちらの成長が早いかといえば、女の子のほうがずっと早い。しかも彼女らはもの心ついたときからもう、女という性の社会的立場を意識させられて育ってゆく。だから、小学校に入ったころからすでに自分の女としての人生の行く末を思うようになるし、思春期になったらどうなるかという予感もこのころから芽生えているらしい。
マンガのほうの『美少女戦士セーラームーン』は、性や戦いのかなりダークであからさまな描写もあるし、物語の展開もスケールが大きく複雑なのだが、小学生の女の子ならそれも受け入れることができるらしい。少なくとも性のことならできるだけリアルに知りたいという思いもあるわけで、この本格的なSFマンガは「なかよし」という小学生向けの雑誌に連載されていたのだから驚きです。
少女は、みずからの身体と社会という内と外の両方と戦って育ってゆかねばならない。だからその疎ましさから逃れるためにはもう、「非日常=異次元」の世界に超出してゆくしかない。そういう心の動きをトレーニングしながら育ってゆくから、早くから自然にSFになじんでゆくことができる。
少年は時代に洗脳されやすいし、少女は時代に対するカウンターカルチャーを生み出す資質を持っている。
日本列島には、カウンターカルチャーの伝統がある。それは権力社会と民衆社会がそれぞれ独立して異なる文化の歴史を歩んできたことが基礎になっている。
古代のはじめは、権力社会が輸入した仏教に対して民衆は神道を生み出していったのだが、両者は競い合うようなコンセプトではなく、神道はむしろ「アンチ宗教」というような世界観や死生観の上に成り立っていた。たとえば仏教の死後の世界が「極楽浄土」だとすれば、神道のそれは「黄泉の国」で、それは「死後の世界などない」といっているのと同じ死生観だった。
そして権力社会の中でも、異なった二つの文化が機能してきた。天皇もずっと神道だったし、古代の権力社会の教養は漢文でそれによって国家の運営をしていたが、天皇はやまとことばで和歌ばかり詠んでいたし、平安時代の権力社会はもう、政治支配の文化で生きる層と文学や芸能の文化に専念する層とに分かれていた。
古代の民衆社会の裁判や訴訟のほとんどは民衆だけの組織で処理し、国家権力のところに持っていくことはなかったし、国家権力も干渉しなかった。
江戸時代の文学や芸能はもう、ほとんど民衆社会の中だけで流通していた。民衆には民衆だけの文化の伝統があった。
また、民衆社会の文化は女によってリードされてきた、ということがあります。死後の世界としての天国や極楽浄土を欲しがるのは男ばかりで、女は、死ぬことなんか今ここできれいさっぱりと消えてなくなってしまえばいいだけさ、という思いがある。それが女のオルガスムス体験であり。
「かわいい」の文化は、そういう日本列島の伝統の上に立った時代に対するカウンターカルチャーなのです。

「かわいい」の文化ということなら、もうひとつ「ささやかなものに対する愛おしさ」というようなニュアンスもあり、これが「かわいい」の本家であるのかもしれない。そこで、バブル以後に登場してきたこの世界観を代表するものとしては、さくらももこの『ちびまる子ちゃん』を挙げることができる。
これは、バブル晩期に登場してきたのだが、その後長く人気を保ったのは、バブル文化に対するカウンターカルチャーの性格を持っていたからでしょう。
バブルの最盛期に、バブルに対するカウンターカルチャーとして登場してきた。
内容は、バブルがはじまる前の時代ののどかな田舎町の小学生の少年少女の愛らしくユーモラスな交流の回想スケッチ、というようなことでしょうか。この国もあのころまではまだまだのどかだった、という話。「ドラえもん」のような世界観を女の子を中心にして描いている。主人公の「ちびまる子ちゃん」は女の「のび太君」だといえるのかもしれない。
三丁目の夕日』の雰囲気にもちょっと似ている。
われわれはバブル崩壊によって何を失ったか、と問うたとき、豊かな消費景気だけではなかった。人と人の素朴に他愛なくときめき合う関係こそもっとも切実にその喪失を惜しむべきものだったのではないだろうか、というようなことを訴えているようにもうかがえる。
人と人の関係はいろいろとややこしいが、最終的にはとても単純なもので、その本質と究極の感慨は、誰の心の底にも息づいている。いったい何が、ややこしいものにしてしまったのか。
現在の世界で、もっとも人と人の関係がややこしいのはアメリカでしょう。アメリカンドリームの競争原理で国をつくった結果、人と人の関係の駆け引きがものすごく発達した国になってしまい、駆け引きが人と人の関係を決定するというような状況さえ生まれている。民衆の世界はともかく、上の階層に行けば行くほど駆け引きばかりの関係になってゆく。政治経済がユダヤ資本に牛耳られているせいかどうかは知らないが、自由な討論とか対話とかディベートとかという美名のもとに、駆け引きが上手なことが美徳のような社会になってしまっている。
人と人なんて、他愛なくときめき合えばいいだけなのに。
ちびまる子ちゃん』には、もっとも単純でしかも最終的でもある人と人の関係が描かれている。あの世界では、誰もが他愛なくときめき合い、許し合っている。そして、われわれはまだそういうものをすっかり失ってしまったわけではない、というひそかな希望を持たせてくれるところにあのアニメの魅力があるのでしょうか。
失ってしまったと気づくことは、取り戻すことができるという希望を見出すことでもある。

ちびまる子ちゃん』に似た人気少女マンガをもうひとつ。
くらもちふさこの『天然コケッコー』は、まさにバブルがはじけた直後の1994年から登場してきた。これは、2007年にアニメではなく実写映画化され、当時はそれなりに評判になった。
小中学生が合計7人の島根県限界集落の話で、全員が小さなひとつの校舎で勉強をしている。
主人公の少女が中学生から高校生になってゆく思春期の物語。
こちらは回想ではなく、バブルとともにいよいよ地方の過疎化が深刻になってきた当時の時代状況を反映した物語になっている。そういう時代の喪失感を基調にしながらも、このマンガの魅力は、限界集落ゆえにバブル景気に汚されないで育った少年少女の清純な心模様をきめ細かく描いているところにある。
したがって世界観そのものは『ちびまる子ちゃん』と共通しているともいえます。
ただ、主人公が思春期の少女で、そのころ盛り上がってきた都会の「かわいいの文化」というか「ギャル文化」に憧れるさまが、いじらしくほほえましく描かれている。
たとえばそのころの都会の女子中高生はルーズソックスを履いていたが、主人公の地域ではそれを売っている店がなかったから履きたくても履けなかった。で、主人公が東京に修学旅行に行った際に下級生の仲間の分も土産に買ってきたとか。
この村では、学校の7人が兄弟のように暮らしている。
この映画のキャッチコピーは、主人公の少女がラストシーン近くでつぶやく「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、些細なことが急に輝いて見えてしまう」というセリフだった。
日本中が「消えてなくなったもの」を探していると同時に、それが豊かな消費景気だけではないことに気づいていった時代だった。「夢よ再び」と焦っていた大人たちはともかく、若者たちはそれに気づいていた。
食べるものなんかコンビニ弁当や居酒屋でけっこう、着るものはユニクロでかまわない。ただもう、他愛なくときめき合う人と人の関係があればそれでよい。それは、支配階級社会に対する民衆社会のカウンターカルチャーの伝統だった。
高度経済成長の時代に「インスタントラーメン」などという安価で簡便な食いものの文化を育てていったことも、日本列島の歴史がつねにカウンターカルチャーを生み出し続けてきた伝統のあらわれでしょうか。
バブルの崩壊によって、あらためてカウンターカルチャーの伝統が見直されていった。
支配者は有能な存在で、民衆は無能で無用な虫けらのような存在です。しかし、民衆には民衆の文化の伝統がある。
そのようにして「かわいい」の文化が盛り上がってきた。人は、世界の輝きにときめく体験がないと生きられない存在であり、その体験は「喪失感」の上に成り立っている。
また、このマンガの原作者が女性であることもあって、思春期の少女特有の「けだるい憂鬱と清純なひたむきさの二律背反的なものを併せ持っていることの困惑した気配」がみごとに描かれていた。「かわいい」の文化は、そういうところから生まれてくる。
セーラームーン」の月野うさぎだって、ふだんはドジでのろまな泣き虫だが、あるとき決然とした女戦士に変身する。それは、変身願望という以前に、思春期の少女の二律背反的な二面性の問題が潜んでいる。
変身願望は、誰にだってある。このいたたまれない生から解き放たれたいという願望は、誰にだってある。
現実の肉体を持っていない初音ミクは現実世界を生きることができない無力な存在であると同時に、現実世界に汚されていない純潔を備えた存在でもある。思春期の少女は、そういう存在に対して誰よりも切実な遠い憧れを抱いている。