腐海は広がっているか・初音ミクの日本文化論(7)

ロリータキャラの巨匠といえば宮崎駿だが、ロリータキャラの究極はなんといっても初音ミクだろうと思えます。
それはそれとして、宮崎駿はやっぱり偉大です。
風の谷のナウシカ』はロリータアニメの記念碑的な作品で、これによって宮崎駿の名声は一気に花開いた。そして『魔女の宅急便』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』と名作は枚挙にいとまがなく、宮崎駿によって再発見させられたロリータ=処女=思春期の少女の魅力というのが確かにあり、それは、それまでのディズニーアニメが描いてきた『白雪姫』等のあまたの作品にはなかったものだった。
宮崎駿は、「ロリータ=処女=思春期の少女」にとっての第一義的なテーマはたんなる色恋だけのことではない、ということを教えてくれた。「ロリータ=処女=思春期の少女はこの世界の終わりに登場するこの世界の生贄であり救世主である」というテーマを掲げて宮崎駿は登場してきたのだと思う。そうしてそれは、西洋にだって「ジャンヌ・ダルク」の歴史があるのだから、世界中が「ああそうだ」とあらためて納得していった。
またそれは、「ロリータ=処女=思春期の少女の母性」ともいえるのかもしれない。それは、子を産んだ母親のわが子がかわいいという母性よりももっとスケールが大きく本格的な「処女=思春期少女は人類の母である」というようなイメージで、マリアの処女懐胎だってそのようにして発想されていったのかもしれない。
僕は母親という存在に対する愛着はあまりないが、『風の谷のナウシカ』の映画をはじめて観たとき、ナウシカに何かスケールの大きな母性のようなものを感じた。
母性とは自己犠牲の別名であるのかもしれないわけで、思春期の少女の自傷行為だってひとつの母性の変奏だといえなくもない。母性の出口を見失って迷走してしまった、というか。
ともあれ宮崎駿は、現在の「かわいい」の文化の大きな礎になっているのではないでしょうか。

最近の「かわいい」の文化のいちばん大きな話題は、新海誠監督の『君の名は。』というアニメ映画が大ヒットしたことでしょうか。
ただ、この映画の「かわいい」のコンセプトは、宮崎駿とは違う。どちらかというと、逆向きかもしれない。
ストーリーは、都会の美少年と田舎の美少女が運命の出会いをして恋をするという話。
こういう話は宮崎アニメにはないが、美しく精緻な画面やキャッチーな音楽やSF的なストーリー展開とか、観客の心を引き付ける仕掛けがふんだんにちりばめられており、女子中高生を中心に広く爆発的な支持を受けた。
都会の美少年と田舎の美少女というのは、現在のトレンドなのでしょうか。まあ、バブル崩壊以後ラブストーリーやラブソングが不調になってしまっている時代に、正面切って運命の出会いの純愛を提出してみせたことは、若い世代にそれなりの希望を与えたのかもしれない。
ただ、主人公の高校生の少年・少女のキャラクターはわりと類型的で、宮崎アニメほどの魅力はなかった。その代わりストーリー展開が圧倒的にハラハラドキドキさせる要素を備えていた。
しかし、キャラクターよりもストーリー展開のほうが大事というのなら、それは「かわいい」の文化だとはいえない。
映画に対する観客の感想は、主人公の少女がかわいいとか少年がカッコいいというような評価はあまりなかった。しかしだからこそ、観客が感情移入しやすかったのかもしれない。そうして、主に二人の恋のシチュエーションやストーリー展開や音楽や景色の画像の美しさばかりが喜々として語られていた。
バブル経済の崩壊や大震災など、時代の閉塞感が募っていて、ストーリー展開のカタルシスがより切実に求められている状況になっていたのでしょうか。
AKB 等のアイドル人気も、そろそろ陰りが見えてきているし。
まあこの映画は、タイムスリップして「世界の終わりを帳消しにする」というストーリーで、『風の谷のナウシカ』のような、「世界の終わりを生きる」という話ではない。
だから主人公の二人にはナウシカほどのリリックな愛らしさはなかったわけで、それで「かわいい」の文化というのはちょっとねえ、というしらけた感想もなくはなかった。

ともあれ一発逆転のストーリーなどいっときの夢物語にすぎないのであり、「今ここ」に生きてあることの「閉塞感」や「停滞感」や「喪失感」に対する「癒し」や「救い」もやはり人は求めるわけで、その役割を負って「かわいい」の文化は昔からずっと続いてきたのだし、これからも時代の情況に沿ったかたちで引き継がれてゆくに違いない。
「かわいい」の文化は、日本列島の伝統なのです。
そこで、『君の名は。』と同じ2016年に、もう一つ評判になったアニメ映画があった。
『この世界の片隅で』、こちらは前者と違ってメジャー資本の配給ではないから前者ほどのビッグヒットにはならなかったものの、あらかじめの予想を大きく上回る支持を得て世間を驚かせた。
ストーリーは、戦時中の呉に17歳で嫁いできた娘が広島の原爆投下とともに終戦を迎えるまでの話で、戦時下の庶民の暮らしが克明・微細に描かれていて、多くの映画評論家から絶賛された。
で、この年の映画賞は『君の名は。』を差し置いてこの作品が総なめしてしまった。
こちらの方がむしろ正統的な「かわいい」のアニメだったのかもしれない。
主人公の娘はのほほんとした性格です。つまり、他愛なく世界の輝きにときめいて生きてきた。だから、戦時下の悲壮感もなくけなげに老夫婦や小姑のいる大家族の世話をして生きてゆくわけだが、戦局が切迫して空襲が続くようになり、ついに焼夷弾の爆発で片腕を失ってしまう。そうなればさすがにのほほんともしていられなくなり、しだいに追いつめられていった果てに終戦を迎える。
晴れた日の座敷で終戦玉音放送を聞いた娘は、今までとは打って変わって「こんなの納得できない、死ぬまで戦う約束じゃなかったのか」と叫ぶ。そうして原っぱへ駆け出してゆき、「私だって兵隊さんと同じように死んでしまいたかった、もう国なんか信じない」といってうずくまり、はげしく慟哭する。
これは、まぎれもなく「処女=思春期の少女」の反応です。彼女は彼女なりにこの世界の「生贄」として生き、「救世主」として生きたのです。それは、「ナウシカ」の精神であり、「セーラームーン」の精神です。
このような反応は、外国ではあまりないのかもしれないが、あのころのこの国の少女の反応としてはけっして珍しいものではなかったのです。そしてそれは右翼の反応ともまったく別のもので、彼女は「もう国なんか信じない」といったのであり、少女たちは「世界の終わり」を抱きすくめながら生きている。
このアニメ映画がヒットしたということは、現在の状況は「ストーリー展開のカタルシス」だけを求めているのではない、ということの証しでしょう。この映画の場合は、主人公もその声を吹き込んだ女優も、そのキャラクターが大いに称賛された。
そうして、あのころと現在は地続きになっている、という感想も多く聞かれた。
敗戦もバブル崩壊も大震災も、「なかった」ことにはしてしまえない。
この映画の観客たちは、誰もが「世界の終わり」を抱きすくめていた。人の心は、無意識のところでそういうかたちに引き寄せられてゆくし、そこから生きはじめることによってこの生は活性化する。
アイドルブームに陰りが見えてきたといっても、それでも初音ミクのコンサートは世界中でさらに盛り上がり続けている。
現在の世界は、宗教と政治経済に引っ掻き回されて、きな臭い情報ばかり飛び交い、もう『風の谷のナウシカ』の「腐海」のようになってしまっている。どこもかしこも、平和であるのか戦時下の緊張状態であるのかもわからない。
だから、宗教とも政治経済とも無縁のカウンターカルチャーとしての「かわいい」の文化が世界に広がってもいる。
「かわいい」の文化は「世界の終わり」から生きはじめる。
初音ミクは「世界の終わり」に出現した「非存在の女神」であり、なんのかのといっても初音ミクに救われ癒され涙している人たちが世界中にいるわけで、この近代社会という「腐海」を浄化する役割を果たしているのです。