内田樹という迷惑・じぶんさがし

このページを、「自分さがし」に役立てようとして読んでくれている人もいるかもしれない。「自分さがし」なんかくだらないと思うけど、そんなことで思い悩んでいる人は好きです。
「自分さがし」なんかうまくいくはずがない。だから悩む。率直で誠実な人ほど、あれこれ考えて悩まねばならない。
そんなことなど、おしゃれをするとか、うまいものを食うとか、海外旅行をするとか、適当に見栄えのいい男(女)を捕まえるとか、給料をたくさんもらえるようになるとか、出世するとか、そんなところで解決すればいいだけなのに、そんなことを全部あきらめて、もっと確かな自分の根拠を見つけたいと思い悩む人がいる。
で、「五木寛之」とか「ひろさちや」とか「内田樹」とかを読んで何かがわかったような気がする人もいれば、それでも解決が見つからなくて、なおも思い悩んでしまうもっと誠実で率直な人もいる。
もっと清らかな人間になりたいとか、もっと賢い人間になりたいとか、自分だけの世界を持ちたいとか、そうやってもっと確かなかたちで自分を確認したいと思う。
しかし、どっちだって同じことです、ようするに「自分」というものの「ステージ」を上げたい、ということでしょう?化粧の仕方がうまくなって自分のステージがあがったと思っているギャルとは違う、なんて思うべきじゃない。おんなじです。
いや、そうじゃない。「自分」というもののほんとうのかたちが知りたい、自分がこの世でたった一人の人間であるということを確認したいのだ、という人がいる。
「かけがえのない存在」てやつですか?だから、かけがえのない人間などこの世にひとりもいない、と僕は言いたいのです。
良識派ぶった知識人が、「あなただって、存在そのものがすでにこの世でたった一人のかけがえのない人間なのだ」というじゃないですか。なんでそんなことを言うかというと、彼らは、自分がこの世でたった一人の人間だとうぬぼれているからです。自分のそのうぬぼれを正当化したいからです。自分は才能のある有名人だからかけがえのない存在なのではなく、人間はみな存在そのものにおいてかけがえがないのだ、と確認することによって、自分のうぬぼれが正当化できるからです。
かけがえのない人間なんか、いるものか。キムタクだろうと、ノーベル賞の学者だろうと、オバマ大統領だろうと、ただの人間さ。いったいどこがわれわれと違うというのか。みんな、ただの人間さ。彼らがいなければこの世の中が違うものになってしまうというが、違うものになったっていいじゃないですか。それもまた、人間の世の中以外のなにものでもないだろう。
彼らがいない世の中は人間の世の中ではないとか、価値がないものだと考えるのは差別だ。
つまり、生きることに意義があるとか価値があるとか、そんなことを考えるのは、差別意識です。そして価値も意義もないと考えるのも、価値とか意義という言葉にとらわれているからだ。
生きることに価値とか意義という言葉は使えないのだ。
そして、「自分」というものも、価値とか意義という言葉で考えることはできない。
「私はあなたではない」「あなたは私ではない」ということ以上のどんな「私」があるというのか。
あるとしたら、「私は人間である」ということだ。みんな「人間」なのだ。だから、「人間さがし」すなわち「人間とはなんだろう」という問題があるだけだ。
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「自分とはなんだろう」と問う「もうひとりの自分」がいる。「問われる自分」と「問う自分」があって、両方がセットになって、「ほんとうの自分」が自覚される。
自分は百万円持っている、と思うとき、百万円とセットになって「ほんとうの自分」が自覚されている。
「問う自分」は「問われる自分」を所有しており、両方がセットになって「ほんとうの自分」が自覚されている。
「ほんとうの自分」とは、「自分を所有している自分」のことだ。なんだか知らないけど、われわれには「所有欲」があり、「自分さがし」というかたちで、所有欲を満たしたいという衝動がある。その「所有している自分」が、「化粧がうまくなった自分」であろうと、「清らかな自分」であろうと、「悟りを開いた自分」だろうと、同じことだ。ただの所有欲だ。
純粋に自分とは何かということを知りたいだけだといっても、やっぱり「自分」が「自分」を所有しようとする、ただの所有欲だ。
われわれは「所有欲」を持っていて、それにうながされて生きている。それはもうしょうがなことだ。社会の構造が、そうならないと生きてゆけないようにできている。知らないうちに、そうした「所有欲」を持たされてしまうようにできている。
だから、化粧の仕方で所有欲を満たしているのが、いちばんかしこいやり方だ。
化粧の仕方だろうと、純粋に自分とは何かという問いだろうと、どちらの方向にがんばろうと、ただの所有欲だ。
そうやってステージを上げたからといって、それで問題が解決されるわけではない。
それはただの所有欲なのだから、永久に問いつづけるしかない。わかってしまったら、もうわかろうとすることはできない。つまりそれは、わかろうとする「もうひとりの自分」がなくなってしまうことだから、「わかった」という自覚もなくなってしまうことでもある。だから、永久に問いつづけるしかない。
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どこかでけりをつけなければならない。
だったら、化粧の仕方がうまくなったことで満足しておくのが、賢明だろう。
「問われる自分」なんか、ただの「人間」だ。「問う自分」を持っていることが「ステージ」になる。
そうして、「問う自分」と「問われる自分」を問うている、「さらにもうひとりの自分」がいる。
われわれは、自分を問うことで自分のステージを上げてゆく。そうすれば、「かけがえのない自分」を自覚できるようになってゆくものらしい。
「自分」のことを知っているのが、「ほんとうの自分」なのか。そうじゃない。知っていようといまいと誰の中にも「自分」はある。そしてその「自分」は、ただの人間一般だ。
「自分」とは、人間一般のことだ。
だから、自分で自分を探しても、「かけがえのない自分」などというものは見つからない。
人間は、自分などただの人間一般だと思うようにできている。そして、「あなた」はかけがえのない存在だと思うようにもできている。その落差を背負いながらあなたは、「自分さがし」をつづけている。
「かけがえのない自分」を見つけようなんて、ただの所有欲だ。そんなものが価値であるかのようにしてしまっている社会の構造がある。社会は、所有欲の上に成り立っている。所有欲を肥大化させる構造を持っている。
「かけがえのないあなた」が存在するだけで、「かけがえのない自分」などというものはない。結論を急げば、そうなります。
たまねぎの皮のように何重にもなっている「自分」をめくっていけば、けっきょく何も残らない。それが、仏教でいう「空(くう)」であるのだろうと思います。
「自分」なんか、ただの人間一般だ。人間は、ほんらい、自分を問うようにはできていない。「人間=あなた」を問う生き物なのだ。
自分を問う生き物であるがゆえに、自分を問うことにけりをつけて「人間=あなた」を問うてゆくようにできている。
二本の足で立ち上がり、そうして歩いてゆく。二本の足で立ち上がることは自分を問うしんどい姿勢であり、そこから歩いてゆくことは、自分を忘れて「人間=あなた」を問うてゆく行為です。
歩いてゆけば、「あなた=人間」と出会う。
人間の直立二足歩行は、「出会いのときめき」の上に成り立っている。
毎度同じことばかり繰り返して恐縮なのですが、僕の言いたいことは、そのことにつきます。
人間は、自分を問うことにけりをつけようとする衝動を持っている。けりをつけてしまう生き物なのだ。
でも、、けりをつけることを、社会の制度が許してくれない。けりをつけてしまったら、この社会ではいきてゆけない。だからお坊さんは出家するのだし、われわれだって24時間働きつつづけることはできない。自分を全部働くことに売り渡してしまうことなんかできない、と多くの人が思っている。
でも、知らず知らず、売り渡してしまう。知らず知らず売り渡しながら「自分さがし」をつづけている。そこが、やっかいなところだ。率直で誠実だから、売り渡してしまうし、売り渡していることに悩まねばならない。
悩まない人は、売り渡して自分を見つけたつもりでいる。「かけがえのない自分」を。そうして、「あなただってかけがえがないんだよ」とよけいなことを言ってくる。
「かけがえのない自分」を所有する恍惚、それを目指してがんばれってか。
よけいなお世話だ。
誰だって、ただの人間だ。自分から自分を見れば、ただの人間一般だ。だから、「自分さがし」がうまくいかない。誠実で率直な人ほどうまくできないようにできている。
「あなただってかけがえのないたった一人の存在である」とおっしゃるご立派な知識人であるあなた、あなたこそ誰よりも「所有欲」にとらわれてそれに気づかないどうしようもない俗物なのだ。あなただって、素直になって自分から自分を見れば、自分なんかただの人間一般だろうが。
誰にとっても、「自分」なんか、ただの人間一般だ。そうじゃないと思い込むことのできるえげつないうぬぼれは、あなたたちにあっても、「自分さがし」に思い悩む彼らにはない。
僕には、解決策なんかわからない。思いつくのは、そんなことなんかどうでもいいとやけくそになること、せいぜいそれくらいだ。
「自分さがし」にこだわっていると、やけくそになる衝動がだんだん失われてゆく。
でも、原初の人類は、やけくそで立ち上がったのですよ。棒を手に持つために立ち上がったとか、遠くを見るためだとか、背骨が突然変異したからだとか、あほどもが何をくだらないことをほざいてやがる。
「やけくそ」をばかにしちゃいけない。それは、人間性の基礎のひとつなのだ。
仏教ではそれを、自分を「放下(ほうげ)する」というらしい。まあ、そういう悟りのことなんかどうでもいいのだけれど、人間の「やけくそになる」衝動を認めていなかったら、「出家せよ」とはいえないはずだ。
俗人は、悟りで出家することなんかできない。そしたらもう、やけくそになる以外ないじゃないですか。
・・・・・・つまり、ここからが昨日の続きになるのだけれど、仏教でいう「自制」とは、自分にけりをつけること、けりをつけて自然に身を任せてしまうこと、それが、愛することでもある、と僕は解釈しました。自制、すなわち一切放下。