内田樹という迷惑・私は生まれてこなかった

仏教の教えによれば、愛するとは[自制」することであるのだとか。
しかしその「自制」とは、自分をコントロールすることなんかではない。そんなことは、ただの自己愛にすぎない。
「自制」とは「自分を制する」ことであり、自分にけりをつけること、自分を投げ捨てること、すなわち「一切放下(いっさいほうげ)」。そこからしか愛ははじまらない。愛とは、自分を忘れて「あなた」に見とれてしまうこと、ようするに、それだけのこと。
仏教とは、仏(=釈迦)の教え。
では釈迦は、「自分さがし」を実現することが「悟り」を開くことである、といったか。
人間存在はほんらい「空(くう)」であるが、ひとまず「方便」として自分を「実体」と認識し、それを完璧にコントロールしてゆけ、それが「悟り=愛」への道である、といったか。仏の道の修行とは、そういうものであったのか。
「自分さがし」とか「自己実現」だって、まあそんなようなことでしょう。自分を「実体」としてこだわっているから、そういう成果が欲しくなる。自分はコントロールできるものだ、という信憑がある。
人間の、自分という存在(身体)を「実体」として認識しコントロール(支配)してゆこうとする衝動は、いったいどこから生まれてくるのか。
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人間は、根源的にはみずからの身体を「空間」として認識している。このことは、メルロ・ポンティによる「幻影肢」の言及に対する反論としてすでに書きました。直立二足歩行だって、身体を「空間」として取り扱う行為です。
しかし、このことは、なかなかわかってもらえない。頭のいい人でもわかってくれない。いや、頭がいいから、よけいわかりにくいのかもしれない。たいていの人が、身体を実体と認識することこそ人間の根源的な意識のはたらきであると思っているらしい。
P・ヴァレリーは、人間の身体イメージには四種類ある、といっています。一つは、他者から見た自分の身体、そして自分でイメージしている自分の身体、それから、骨や肉や内臓などの解剖学的な身体、この三つが意識の表層でふだん認識されている身体であるのだが、じつはもうひとつ、「非存在」としての身体のイメージがある、という。それを、「第四の身体」といっています。
で、この「第四の身体」のことさえわかれば、身体に関するすべての問題が一挙に解決する、とも言っている。
この「第四の身体」に関しては、『精神としての身体』を書いた市川浩氏をはじめ、多くの学者が言及しているが、どれもいいかげんなものばかりです。
しかし、「第四の身体」という問題の大切さは、誰もが認めている。
意識は、根源的には身体を「非存在」の「空間」として認識している・・・・・・だからこのことは、僕が唐突に言い出したことではないのです。
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そして仏教が、身体は「空」である、というのなら、釈迦はすでにこの「第四の身体」のことを意識していたのかもしれない、と思わないでもありません。
すなわちそれは、理論ではなく、実感なのです。そうして、誰もが深いところで体験しているはずのそういう実感を無視して、ふだんの上部意識(観念)だけで決定してしまうべきではない、という教えかもしれない。
身体=自分を完璧にコントロールしてゆこうとすることなど、ただの制度的な欲望に過ぎない。そりゃあわれわれは、ふだんの生活の大部分をそういう欲望で処理して生きているのであるが、そこから離れよというのが釈迦の教えであるはずです。
もちろん釈迦だって、ひとまず「方便」として、そういう欲望を俗世間の金儲けなどにつかわず、修行のために使いなさい、というようなことは言ったことでしょう。
しかし、最終的には「自分=身体」は「空(くう)」である、ときっぱりいった。
たとえば、
「これが自分である」という思い込みを持っているものは、苦しみが起こってきたときに、その苦しみを自分であると執着して、より苦しみを増幅させてしまう。それに対して「これが自分である」という思い込みを持っていない人は、苦しみが起こって消えてゆく流れを、自然のままに受け止める。だから、必要以上に苦しみが起こってくることがない。
そういっています。
その苦しみは、自分のものではない。やってきて、去ってゆくものだ。それは、自分ではない。この世界の自然であり、すべては「空」として受け止めよ、ということでしょう。
身体はこの世界の自然である、「自分」という世界に閉じ込めてはならない。そういっているのではないだろうか。
そうして「自分」は、この世界の自然から置き去りにされてある。
「自分」は、身体を支配してゆく装置であるのか、それとも身体にしたがってゆくだけなのか。
身体、すなわちこの世界の自然にしたがえ・・・・・・釈迦は、そういっている。上部の意識(観念)は、根源的な意識に気づいてそれにしたがえ・・・・・・そういっているのではないだろうか。
身体の苦しみや痛みは、身体のものか。それとも「自分」のものか。身体のものに決まっている。身体が正常に戻れば、苦しみや痛みも消えてゆく。
ところが社会の共同性は、身体を支配せよと迫ってくる。
七時になったら目覚めよ。八時までに飯を食って家を出よ。九時には出社せよ。そうして夕方の五時までは労働の中に身体を閉じ込めよ。
こんなことは、身体を支配してゆかなければできることではない。
ニートや引きこもりの若者は、このいとなみを、絶望的に困難ことだと受け止めている。それは、けっして不健康な感覚ではない。
われわれは、身体という自然にしたがおうとする衝動を、つねに奪われつづけて生きている。そうしてしまいには、身体を支配してゆくことが人間の本性であるかのように錯覚してゆく。そういう「自分」を強く持てと社会は迫ってくるし、みずからもけんめいにその方法を探そうとする。
現在の仏教修行がどういうコンセプトでなされているのかは知らないが、少なくとも釈迦は「身体を支配するな、身体という自然にしたがえ」といっていたはずです。
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仏教の修行に、なぜ身体を使うのか。
身体が物体として存在しているからではない。物体として取り扱い、それを支配してゆくためではない。
身体はもともと「空=空間」として自覚されているものであるからだ。ひとまずそこに遡行し、そこからこの世界の「空」に溶けてゆく体験をするためでしょう。
座禅という修行は、釈迦の時代からされていたそうです。身体を「物体=存在」として感じていたら、長い時間座ってなどいられない。苦痛がどんどん大きくなってくるだけだ。
しかし意識にとっての身体は、長く関わりつづけているとだんだん消えてゆくようになっている。
ランナーズ・ハイ」というのがある。長く走っているうちにだんだん恍惚状態になってきて、身体の苦痛がすっかり消えてしまうという心的現象のことです。このことは、われわれの身体が、消えてゆく直前の状態で存在していることを物語っている。そして座禅は、このかたちの究極を目指すものであるといえる。
えらい師匠に弟子入りさせてもらうために自分の腕を切り落として見せた、という話もあるくらいです。彼らは、身体の「空」を前提として持っていることが修行者の資格であると自覚している。
ヨガがなぜあんな複雑な姿勢をとるかといえば、身体の物性を離脱するためであるはずです。インドには、そういう伝統がある。
長く座りつづけていると、目の中に無数の光の散乱が現れてきて、自分がそこに溶けてしまっているのを感じる。そういう一種の神秘体験がいいことか悪いことか僕にはわからないが、とにかく彼らは彼らなりに、この世界の「空」を、理論ではなく、具体的な体感として体験してる。
身体の「空」は、修行の「目的」ではなく「前提」なのだ。
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この世界の「空」に「私」というという区切りを入れれば、「私」は「実体」になり、修行はそこからはじまる、といっている人がいます。そして仏説とは、そういう「私」の仕組みを解き明かすものだ、と。
そうじゃない。修行は、「空」から始まるのだ。なぜなら、それが人間であることの前提だからだ。
「私」も「身体」も「ない」、という決意をしてはじめるのだ。
仏教が「私」という問題を解き明かすためのものだとは、僕は思わない。そんなことが、いったいなんの解決になるというのか。死んでしまうことは、生まれてこなかったのと同じになることだ。けっきょくわれわれは、生まれてこなかったのだ。だから、「私」という問題も「身体」という問題も「ない」のだ。その「ない」ということと深く和解してゆくために、われわれは「神」の声に耳を傾ける。そして、「ない」を体験することこそ、じつは「快楽」という生きてあることの醍醐味でもある。
身体が「消えてゆく」という体験こそ、快楽の内実であり、この生のカタルシス(浄化作用)なのだ。
この生の「苦」は、取り除かれるべきであるのではない、「浄化」されねばならないのだ。
人間から「苦」を、取り去れるものなら、取り去ってみろ。
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またある人は、「私の思索は、この世界が存在するということに随順するものでありたいと願っている」という。
この世界が存在するという前提は、ひとまずわれわれを安心させる。そしてその前提を補強するように、「天国」や「極楽浄土」や「輪廻」のイメージが温存されている。彼はきっと、「存在する」と思いたいのだろう。そして、「存在する」という認識がいかにあやふやなものであるかということも知っている。
なぜなら、人間なら誰しも「ない」という体験をすでにしてしまっているからだ。しかし、思考がその体験に身を置くことは、少なからず不安や混乱が伴なう。それは「真理」を失うことと同義なのだ。「真理」が存在しないことを「空」という。彼は、「空」を回避しようとしている。
妻が夫にこういう。「私の青春を返してよ」と。そうしてあるとき、「私の人生は何だったのだろう?」と思う。自分の生きてきた過去がすべて無意味なものになってしまうこと、それは「空」という体験でしょう。財布を落としたということだって、「空」の体験だ。人と別れることも、つまりはそういうことだ。「空」という体験は、われわれの人生のいたるところで待ち構えている。
「世界は空である」という前提にたつことは、自分が今まで考えてきたことの根拠をいったん全部捨てることです。この世界は、「ある」という前提の上に成り立っている。誰もが、そう考えて生きてきた。であればそれは、この世界から置き去りにされてひとりぼっちになってしまうような体験かもしれない。まあ、誰だって、できればそんな体験はしたくない。
しかしそれはまた、自分がずっと心の底に押し込めていたものを解放してやることでもある。
現代ほど「空」という前提を持ちにくい時代もなかったし、現代ほどそれが必要になってきている時代もなかった。
世界は、存在するのではない。なぞであるのだ。「空」であるとは、そういうことだ。なぞは、論理によっては解決できない。われわれはもう、解決できないことを生きるしかない。
釈迦が、「すべてのものに自性はない」と悟ったとき、彼は安心しただろうか。たぶん、しなかった。そのように悟ったからこそ、大いに惑乱したにちがいない。体を焼き尽くされるような心地があったのかもしれない。彼の仏教への道は、そこから始まったのだ。
われわれが、釈迦と同じくらいこの世界の「空」を深く体験できるかといえば、おそらく絶望的に不可能なことだろう。しかし、「誓願」とは、そういう不可能に向かって立てられるものではないのか。この世界の「空」を悟ることがどんなに絶望的な体験であるかということを、誰もが知っている。だから、それを回避して「ある」に随順しようとする。
「私はない」という事実は、「真理」にはなりえないか。なりえない。なぜならそれは、「認識」ではなく、あくまで「体験」だからだ。しかし、その「真理」になりえないことに向かって決意してゆくことを、「誓願」というのだ。
釈迦は、「ある」という認識を残しながら安心立命も得ようなんて、そんないじましいことは考えるな、と言っているように僕には思える。それが、「一切皆空」という言葉が示しているところではないだろうか。