内田樹という迷惑・「あなたを救いたい」という願い

ろくな文明も持たない原始人が極寒の極北の地で生きてゆくことが、どんなにしんどく危険なことであることか、想像してみてください。
あほな人類学者は、生きてゆける体になっていたのだといって平気な顔をしている。
多少はそういう体質を持っていたとしても、ネアンデルタールだって人間なのですよ。白熊やアザラシになったわけではない。
寒さのために、子供たちは次々に死んでゆく。大人だって、明日も生きてあることができるかどうかわからない。そういう環境だったのだ。
もしもネアンデルタールに取って代わったといわれているクロマニヨンが、住みよい土地を求めてアフリカから移住してきた人類であったのなら、2万年前から1万年前の激烈な最終氷河期には、さっさと南に移住していったことでしょう。
しかし実際には、必死で次々に子供を生んで人口減少から踏みとどまろうとする暮らしをしていた。そのための妊婦の偶像彫刻を作って拝んだりしていた。子供なんか、7,8人生んで、やっと1人か2人生き延びる、という状況だった。そんな暮らしを、いきなりやってきたアフリカ人ができると思いますか。50万年前からずっとそんな暮らしを続けてきたネアンデルタールの伝統があって、初めてできることでしょう。
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生きてあることのカタルシスは、幸せの中にはない。幸せを願うことの中にある。そしてそれは、自分の幸せではない。「あなた」の幸せを願うことにある。それが一番気持ちのいいことだ。そんなことくらいみんな知っているくせに、それでも自分の幸せを最優先にして願おうとする。それは、幸せでなければ生きていてはいけないような、幸せになることこそ人間の理想であるかのような社会的な合意が充満しているからだ。誰もが、幸せにならないといけないような強迫観念を持たされてしまっている。
ネアンデルタールの暮らしは、寒さと悲しみばかりの暮らしだった。それでも彼らが南に移動してゆかなかったのは、そこにおいてこそ他者の幸せを願うことのカタルシスがダイナミックにもたらされたからだ。そういうカタルシスは、生きにくい土地で暮らせば暮らすほど深くダイナミックに起きる。
彼らは、「私の幸せ」を願ったのではない。そんなことはもともと不可能なのだ。ひたすら「あなたの幸せ」を願い、抱きしめあっていた。
「あなた」だって、幸せになれるはずもないのだが、それでも願わずにいられなかった。
自分のことなんか、考えたくなかった。自分のことを考えていたら、寒さがよけいに身にしみる。悲しみがなお深くなるばかりだ。
自分のことを忘れて、「あなた」のことばかり思っていた。「あなた」のことを思うことによってしか生きられなかった。
「あなた」のことを思い続けること、抱きしめあって「あなた」の身体に気づき続けること。それによってしか、寒さや悲しみから逃れるすべはなかった。
そのために彼らは、できるだけたくさんの人数が寄り集まって暮らしていこうとしていた。自然に、そうなっていった。彼らには、「あなた」がたくさんいる社会が必要だった。そうして、ひたすら「あなた」のことを思った。
それは、思って思われていることを確認してゆくというような「贈与と返礼」の愛ではない。乱婚(フリーセックス)の社会なのだから、いちいちそんな「交換」を確認しあう関係ではなかった。
誰もがひたすら「あなた」のことを思った。「あなた」のことを思い続けていないと生きてゆけない環境だった。
自分を確認したって、寒さに震える身体と悲しみがあるだけだった。
「嘆き」を携えて生きるものは、ひたすら「あなた」のことを思い続ける。
思われている自分を確認する必要など、どこにもなかった。誰もが「あなた」のことを思っているのだから、思われているに決まっている。思われていなくても、別にかまわない。そんなことは知らない。確かなことは、「私」が「あなた」のことを思っている、ということだけだ。
誰もが、目の前の「あなた」のことを思った。離れている人のことを思っても、体は温まりはしない。目の前に「あなた」がいる、ということが大切だった。
すなわち原初の人類は、そういう「願い」によって大きな群れを形成していったのであり、それがいつの間にか「共同体」というおかしなものになってしまった。
「あなたを救いたい」という願い。その願いによって、「あなた」は輝き、「私」の前に存在している。
彼らのカタルシスは、愛を伝え合い確認しあうことにはなく、「あなたを救いたい」という「願い」を持つことそれじたいにあった。
他者のためではない、自分のためだ。他者が生き延びることによってしか、自分は生きられなかった。だから、ひたすら他者が救われることを願った。自分のことを思ってなんかいたら、生きられなかった。自分のために、自分を消した。自分の存在を確認しないことが、自分が存在するための条件だった。自分を確認しても、寒さに震える身体と死者に対する悲しみがあるだけだった。
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「あなたを救いたい」という「願い」は、厳しい環境になればなるほど切実になってゆく。そういう「願い」によって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
住みよい土地を求めて、ということなんかじゃない。
「シベリアのツンドラの景色を飛行機で空から見ると、とても美しい。それを見て私は、彼らがなぜこの地に住み着いたのかわかったような気がした」……などとほざいているあほな人類学者がいる。
いったい原始人の誰がその景色を見たというのか。
彼らがそこに住み着いていったのは、「あなた」のことを思うダイナミズムがあったからだ。住みやすい条件など、何もなかった。住みにくかったからこそ、そういうダイナミズムが生まれ、住み着いていったのだ。
「あなたを救いたい」という仏の「慈悲=誓願」、それは、人間の心の動きの本質でもある。その本質にうながされて人類は、地球の隅々まで拡散していったのだ。